October Story22
終わりに近づく、”物語”と、2人の”時間”───。
「あの……あんまり……うまくできた自信がなくって……」
蒼太はおどおどと、画用紙を広げた。
「なんていうか……ぼく……女の人を好きになったことがないから……どういう風に描いたらいいのか、分からなくて……」
Jが愛する人を思う気持ち───それは、どうしたら表現できるのか。
蒼太は「だから……、その……」と、背後を振り返った。
「あの……遊歩道を、2人で歩いたっていう話が、素敵だなって思って……すごく印象に残ってたから……それを、描きました……」
蒼太はJに画用紙を差し出した。
紅葉のなる木々の間を、手を繋いで歩く男女の後ろ姿───Jの目が、その光景を見る。
蒼太は胸がドキドキするのを感じながら、Jの感想を待った。
Jはしばらくして、目を上げた。
「───ありがとう」
Jは言った。ただ一言、そう言った。
その顔を見つめて、蒼太ははっとした。
Jの瞳が、微かに光っているように───そう見えたのだ。
Jは画用紙を膝の上に置くと、僅かに目を伏せてから、蒼太の目を見つめて、こう言った。
「……話の続きを、しようか」
※
「私は、美雪に結婚の話を切り出すことが、中々できなかった」
Jは語り出した。自身と、自身が愛した女性の話を。
「付き合い始めて、1年経った頃に一緒に暮らすようになったが、私は安月給の仕事をしていて、生活は、美雪が支えてくれていたようなものだった。私は、それが申し訳なくて、仕方がなかった。美雪は、私と結婚して幸せなのだろうかと考えていた」
蒼太はメモを取らずに、話を聞くことにした。この話は、何もせず、じっと耳を傾けていた方がいい───そう、直感した。
「ある日、私は美雪に尋ねた。"私と一緒にいて、君は幸せか?"───と」
Jはその時の光景───そう尋ねた時の妻の顔を思い浮かべるような目をしていた。
「美雪は、こう答えた。"何を言うの。幸せに決まってるじゃない"───そう言って、笑った」
Jは僅かに、ほんの僅かに、口元を微笑ませた。
「その瞬間に、私は思った。彼女のために、この先の人生を捧げようと。私は、彼女のために、彼女の幸せのあめに私は、生きていこうと」
そして、2人は程なく結婚した───蒼太はそれをJが言葉にする前に察し、深く、頷いた。
「結婚して、しばらくの間は、小さなアパートの一室で暮らした。2人で住むには狭すぎるし、専用の風呂もなく、銭湯通いを余儀なくされ、壁中隙間だらけで冬は風がまともに入ってくる───もっと立派な、大きな家に住みたい、いつも、2人で口を揃えて言っていた。だけれど、そんな時間が、幸せだった」
(そんな時間……)
蒼太は、心の中でJの言葉を繰り返した。
そして、Jと美雪がしたであろう会話を想像した。
"もっと広い家に住みたいなぁ。二人で寝たらぎゅうぎゅうだもん、ここ"
"毎日銭湯まで歩くのも面倒だよな"
"極めつけは、壁中隙間だらけで風が入りっぱなし!"
"よく乗り切ったよな、今年の冬も"
───そんな会話が、なされたのではないか。
日常の中の、何気ない会話。それをしている時間が、Jにとって、何よりの幸せだったのだ。
「結婚して、2年が経った頃、美雪の妊娠が分かった」
Jはそう───何処か、悲しげな目をした。
「子どもが生まれるのなら、もっと広い家に移ろう───そう約束して、私たちはそれから、そのための貯金を始めた。3人で暮らすには十分のアパートが借りられるようになった1週間後───息子が生まれた」
(息子……、息子さん……)
Jが、絵を遺したいと語った相手だ。
Jは、目を伏せ、瞼の裏に自身の息子の姿を思い浮かべるかのように───蒼太にもはっきりと見える動きで、瞬きをした。
そして、Jが、次の言葉を語るための呼吸をした時───。
プルルル……と、音がした。
蒼太は、はっとして、ポケットの中を探った。
取り出したスマートフォンの画面は、父からの電話の着信を伝えていた。
Jを見つめると、目が合った。
「いいよ、待っているから、出ておいで」
そう頷かれ、蒼太はぺこりと頭を下げつつ、早足にその場を離れた。
※
彼は、遠ざかっていく少年の背を見つめた。
誰からの電話なのだろう───それを聞くのは、流石に馴れ馴れしいだろうか。
だが、きっと、あの子は「そんなことない……」と首を横に振るだろう。
見つめた少年は、電話越しの声に頷いている。
彼はその姿を見て、「今日で出会って1週間か」と思った。
1週間───本当は、もっと長い時間を共に過ごしてきたような気がするのは、自分だけだろうか。
清水蒼太───少年は、彼にとって、特別な存在になっていた。
(あの子と、この先も、こうして会って、話すことができたら、どんなにいいことか……)
そう考えて、彼は、悲しみに満たされた。
できない───それは、許されないのだ。
(後1週間……それが過ぎれば、もう二度と会えなくなる……)
覚悟していたつもりだった。ただ───それは、文字通り、"つもり"なだけだったのだ。
胸が、苦しくなった。
不意に───辺りに、風が吹き荒れた。
ビュッと激しい音がして、彼の隣にあった少年の鞄が揺れ、前向きに倒れた。
その拍子に、僅かに空いていたファスナーから、荷物が溢れ出てしまった。
地面に落ちたのは、手帳のようなものだった。
彼は、それを拾い上げた。
少年は、電話の相手と話しているために、気付いていないようだった。
拾い上げた時、手帳はページを開いていた。
見るつもりはなかったのに───中身が、見えてしまった。
彼は、そこに書かれた文字を、読んでしまった。
彼は、少年の後ろ姿を見つめた。
そして────呆然とした。
※
父からの電話は、「今日は仕事で遅くなるから、悪いけど、コンビニかどこかで夜ご飯用意してくれないか、ごめんな……」とのことだった。
電話を終えて、蒼太は振り返った。
そして───「えっ……?」と声を上げることになった。
座っていたベンチ───そこに、Jの姿がない。
見間違いか───見るところを間違えたかと思ったが、すぐに、そんなことはないと分かった。
何故ならそこに───蒼太が座っていた場所に、蒼太のリュックがあるからだ。
蒼太は、辺りを見回した。
いない───どこにも、Jの姿は見当たらない。
「J……さん……?」
ただ、蒼太が呼びかける声が、小さく響いた。
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