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ひとすじの光

「ちょっと、恵子けいこ! あんた、今日の日直でしょ? 帰る前に日誌を書いて、担任に持って行かなきゃダメじゃない。サボる気?」


 そう言うと、レミは黒板の横に引っ掛けられていた日誌を手に取った。穴をあけて通してあった黒いひもに指をひっかけ、くるくると器用に回す。

 その声と動作で、教室に残っていた数名の生徒が、レミに注目した。


 レミは、明るくてよくしゃべる、見た目も華やかな目立つ女子だ。

 ただ、わたしは少し苦手なタイプ。

 なのに、レミは最近になって、なぜかわたしに絡んでくる。


 わたしが返事をする前に、すぐそばにいた親友の友梨香ゆりかが片手をあげた。


「あ、わたしが恵子の代わりに、日誌を書くよ。代筆ありでしょ?」

「え? でも」


 言い淀んだわたしに、友梨香はニコッとした笑みを浮かべる。


「恵子はこれから用事があるもの。頑張って!」


 そう言った友梨香とわたしへ向かって、レミはバカにしたような声をあげた。


「用事ってあれでしょ? アイドルになるってヤツ。わざわざ養成所みたいなところに通っているんだって?」


 レミは、近くにいた女子へ同意を求めるように振り向いた。


「高校行事も、放課後の付き合いも悪いし。恵子、本当にアイドルになれるって思ってんの? 夢みたいなことばかり言ってるけどさ。そりゃあ恵子って美人だけど、ツンとした冷たそうな印象だし。一緒にいる友梨香のほうが、まだ可愛げがあってアイドル向きじゃない?」

「いいんじゃないかな」


 レミの言葉を遮るように、声が響いた。

 レミの手から、ひょいと日誌を取りあげた背の高い男子が、言葉を続ける。


「夢があるよ。今日の日直は、おれもだから。おれが日誌を全部書いてもいいよ」

「え~。野村のむらくんったら。親切すぎる! もう、甘いんだから……」


 唇を尖らせながら、レミは上目づかいで彼を見た。

 クラスメイトの野村くんは、今日はわたしと同じ日直だ。普段からおとなしく控えめで、あまりクラスでは目立たない男子だった。


 ふたりのやり取りを見ていたわたしは、ハッと時間を思いだす。


「野村くん、ありがとう。任せちゃうけれどごめんね。お願いします!」


 急いでそう言うと、笑顔の友梨香へ手を振って、わたしは教室を飛びだした。廊下をかけながら、そっと独り言ちる。


 レミ、わたしがなりたいのはアイドルじゃないんだよね。

 わたしがなりたいのは、歌手だ。

 歌うことを仕事にしたい。


 でも、外靴に履き替えて校門を飛びだしたわたしの頭上には、迷いの生じた心を映しているかのように、どんよりとした雲が空一面に広がっていた。


   ※ ※ ※


 わたしが小学校低学年のころから通っているタレント事務所は、かなり売れている歌手や俳優が所属していた。そして、デビュー前の若手を指導し養成するカリキュラムもしっかりしている。


 今日の放課後は、事務所ビルのスタジオでダンスの授業が入っていた。週の別の日は、歌の指導や発声練習、筋トレや演技指導の授業もある。

 ミュージカルのような舞台でも歌えると思ったわたしは毎日、あらゆる授業を貪欲に受けている。そのために、一週間のスケジュールがみっちり詰まっていた。


 小学生のころは、養成所に通うために母についてきてもらった。どうしても歌手になりたいわたしのために、母は車で送り迎えをしてくれた。

 ずいぶん甘やかしてもらったものだ。


 中学に入ってからは、わたしはひとりで電車に乗って養成所にかよった。高校一年生になったいまでも、毎日続けている。

 母は、授業料もバカにならないと少々呆れ気味だが、放課後の部活動だと思って応援してくれている。

 そう。いまのわたしは、家族も親友も応援してくれている恵まれた環境だ。


 でも、自分のあとから養成所に入った子が、先に歌手デビューが決まったと聞くと、ふと不安を覚えてしまう。


 どれだけ頑張れば、わたしの夢は叶うんだろう?


 どんなに努力しても、このままデビューできない可能性が、もちろんある。その不安に駆られると、決まって考えてしまうのだ。


 ――夢のために、どれほどの自由な時間を練習に費やしてきたことか。

 みんなが遊んでいるときに。

 漫画を読んでいるときに。

 テレビを観て笑っているときに。

 勉強をする時間だって、わたしは歌手になる夢のためにささげてきた。


 犠牲にしてきたなんて言葉を使いたくない。

 でも、十代のあいだにできることをやらずに頑張ってきたのに、夢が叶わずに全部無駄だったと思ってしまったら……。


 前向きに。

 根拠がなくても、努力で夢は叶うという自信を持って。

 プラス思考で。


 けれど、突然些細なことで胸の中に不安が広がり、気持ちが押しつぶされそうになる。


   ※ ※ ※


 ダンスの授業が終わり、スタジオの開放時間ギリギリまで、ひとりで自主練をこなしたわたしは、壁一面に張られた鏡の前で座りこんだ。

 スポーツバッグから水筒を取りだして水分を補給しながら、鏡に映る自分を睨みつける。

 そんなわたしの肩に、ふいにあたたかいタオルがふわりとかけられた。


「ほら。肩を冷やさない」


 鏡を見ているはずなのに、背後から近づく姿が視界に入っていなかった。

 慌てて振り仰ぐと、彼女は、メッと顔をしかめてみせる。

 カジュアルスーツに身を包んだ彼女は、わたしの横で腰をかがめた。


「恵子。一生懸命なのもわかるけれど、体調管理も大事な仕事よ。ずっと現役で続けたいんでしょう? 若いからって甘く考えていたら、いざというときにガタがくるわよ」

「はい」


 わたしは素直に返事をして、ゆっくりうなずいた。


 彼女は、わたしたち研修生を取りまとめてくれている事務所のマネージャーだ。

 はきはきとしたものの言い方と頼れる性格は、わたしたち十代からすれば母親のよう。

 けれど、独身の彼女をそう呼べば柳眉を逆立てて睨んでくるので、ここの研修生は彼女のことを裏で姉御と呼んでいる。


 姉御は、わたしの肩に手を添えて、ささやくように続けた。


「恵子は、夢を叶えるだけじゃなくて、叶え続けたいんでしょう? ずっと歌い続けたいんでしょう?」

「うん」

「それなら、体調管理は大切よ。やり過ぎは禁物。クールダウンも丁寧に、疲れを残さないようにね」


 そして、大きな口の両端をあげてニッと笑うと、わたしの肩を軽く叩いた。


 姉御は身体を起こすと、スタジオの入口のほうへ振り返る。

 そして、張りのある声をあげながら歩きだした。


「ほら! もう遅いんだから、着替えが終わった人たちは、さっさと帰る! いつまでも廊下で溜まらない!」


 手を叩きながら、姉御は夢見る少女たちを追い立てる。

 遅れてわたしも、着替えに向かうために立ちあがった。



 ――わざわざ声をかけてくれた姉御は。

 わたしが、ちょっと気弱になっていることに気づいたのだろうか。


   ※ ※ ※


 次の日も、天気はすっきりしない曇り空だった。

 教室に入ると、友梨香はもう席についている。わたしは、彼女の近くの席に座りながら、朝の挨拶を交わした。


「友梨香、昨日はごめんね」

「いやいや、結局わたしは何もしなかったし。ほら、野村くんが日誌も書いて職員室まで持っていってくれたから」


 目の前で両手をフリフリしながら、友梨香は笑顔を向ける。

 その目が、驚いたように丸く見開かれた。


「友梨香?」

「――恵子、うしろ」


 振り向くと、たったいま話題にでた野村くんが立っていた。


「あ、野村くん。昨日はありがとう。助かったよ」


 そう言ったわたしへ、野村くんはうつむき加減に口を開く。


「あのさ。いま時間ある?」

「え?」

「放課後になると、また急ぎで帰っちゃうだろ。だからいま、時間ある?」


 いぶかしげな表情になりながらも、わたしは立ちあがった。


 彼のうしろについて廊下を出ようとしたわたしは、ふいに視線を感じる。パッと振り返ると、レミが鋭い目つきでわたしを見ていた。


 ――わたし、知らないうちに何か、彼女にやらかしたかな。


 重い気持ちで野村くんについていくと、階段を降りて校舎の外に出た。そのままグラウンドとは反対側へ歩いて、人気ひとけのない校舎の壁際で立ちどまる。

 たしかに。内緒話にはいい場所だよね。


 わたしは、どうにも気まずく辺りを見回していると、野村くんが口火を切った。


「以前から気になっていたんだ。夢を持って輝いているきみと付き合いたい」


 男らしく、はっきりと告白する彼に、わたしは言葉を失った。


 この彼――野村くんは、誰にもやさしく控えめな性格の男子だと思っていたからだ。

 それが、こんなにも直球で……。


 たしかな言葉は、純粋に嬉しかった。

 彼の言葉は、先が見えずに不安をいだくわたしの心を、ぐらりと揺り動かした。


 もう、叶うかどうかわからない夢を追うのを、やめてしまおうか。

 彼氏や親友と楽しく一緒に過ごす高校生活を送ろうか……。

 野村くんは、わたしの夢をからかうクラスメイトからかばう言葉をかけてくれる、やさしい男子だ。

 きっと大切にしてくれる。

 一緒にいたら、楽しい時間を過ごせる気がする。


 わたしは本気で迷った。

 ――迷ったあと、静かに頭を振って、わたしは笑顔を彼に向けた。


 彼は言ったじゃない?

 夢を持っているわたしがいいんだって。

 ここで夢から逃げて彼と付き合っても、本末転倒というものだ。


「野村くん。わたしの夢を知っているよね。いまは、その夢で頭も時間のいっぱいなの。ごめんなさい」

「だよな」


 あっさりと彼は口にして、照れたように笑う。


「きみが忙しいのはよくわかっていたんだけれど、もっと近くで手助けをしたくなったんだ。――これからも、いいクラスメイトでいてくれるかな? もっと言えば、きみの夢を応援しているおれの存在を覚えていてほしいんだけれど」

「ありがとう」


 わたしは、自然に笑みを向ける。

 すると、彼はまぶしそうに目を細めた。


「きみの笑顔を、こんなに近くで見られるなんて思わぬご褒美だな。――いつもきみの親友がほめているきみの歌を、いつか聴かせてほしいな。夢を叶えられるように頑張れよ」

「うん。頑張るよ」


 そう言ったとき、彼の後ろで、昨日から曇っていた空が明るくなった。

 雲のあいだから、一筋の光が射す。


 ああ、不安で迷っていたのがウソのようだ。

 まるで、この空と一緒に、わたしの中のモヤモヤが晴れたみたい。


 これからも夢に向かって頑張れる気がする。


   ※ ※ ※


 野村くんは、もう少しあとで戻ると言った。

 さすがにふたりで教室へ入るのは気まずいのだろう。


 一足先に教室へ戻ったわたしは、レミの視線に気がついた。

 先ほどと同じように、険のある目つきだ。

 なにが言いたいんだろう?

 もしかしたら、一緒に出ていったわたしと彼の会話が、気になったのかもしれない。


 そう考えたわたしは、はたと気がついた。


 ああ、そういうことか!

 レミは、野村くんが好きなのだ。

 だから、いつも見つめている彼がわたしに好意を持っていることに気づき、わたしを疎ましく思っていたのだろう。


 そう結論を出したわたしは、直接自分の席に向かわずに、レミに近づいた。

 そして、彼女のそばを通りすがりに、小さな声でささやく。


「わたし、絶対に歌手になる夢を叶えるから。だからいまは、その夢以外――遊びも恋愛も、全然目に入らないの。ねえレミ、わたしはあなたを応援するよ。だからあなたも頑張って」


 驚いたような表情のレミを置いて、わたしは友梨香のもとへ戻る。

 そして、笑顔で迎えてくれた親友へ、改めて宣言するように告げた。


「ねえ、友梨香。わたしは夢を叶えるために、これからも頑張るよ。だから、一緒にいる時間が少なくて、友梨香にさびしい思いをさせちゃうけれど、ごめんね」

「謝ることなんて全然ないよ。わたしは嬉しいんだもの」


 嬉しいという言葉を聞いて面食らうわたしの目の前に、友梨香は突然、両手をパッと広げてさしだしてきた。


「そうだ。最近恵子って疲れ気味じゃない? 身体にいいツボを見つけたのよ」

「ツボ?」

「そうよ。右手を出して」


 言われた通りに右手を出す。

 すると、友梨香は恵子の手を両手で包み、甲側の親指と人差し指のあいだを、親指でプニプニ押した。

 これがなかなか、痛くて気持ちがいい。


 友梨香は、マッサージするように押しながらささやいた。


「ふふ。わたしが恵子のファン一号よね。そして、これからもずっと恵子のそばで応援していくの。それがわたしの夢。だから恵子は、わたしの夢を叶えてくれる希望の光なの」

「友梨香……」

「幼馴染だもの。ずっと恵子の歌をそばで聴いて育っているもの。嬉しいときも辛いときも、わたしはずっと恵子の歌声に元気をもらっているのよ」

「――わたしこそ、友梨香に励まされて頑張れているよ。わたしにとって友梨香の応援が、友梨香の存在が、光そのものだよ」

「ふふっ。そう言ってもらえて、わたしも嬉しいな」


 そう言ってはにかむような友梨香の笑顔は、窓からのやわらかな陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。


   ※ ※ ※


 わたしは、いろんな人に支えられている。

 応援してもらえている。

 ちょっと心が折れそうになっていたけれど、大丈夫だ。

 もう一度、夢に向かって頑張ってみよう。


 そう気合いを入れたわたしは、味気ないクリーム色の壁が続く事務所ビルの廊下を歩く。

 すると、廊下のずっと向こうにある所長室から、姉御が出てくるのを見かけた。そのまま姉御は、こちらに歩いてくる。

 わたしは、すれ違う瞬間に挨拶をしながら頭をさげた。

 そのとき。


「ちょうどよかったわ」


 姉御がわたしへ声をかけてくる。

 そして、すこし身をかがめると、わたしの耳もとでささやいた。


「所長が恵子を呼んでいるから、すぐに所長室へ行ってね」

「え?」


 ――わたし、呼びだされるような何かを、やらかしたんだろうか?


 その不安が顔に出たのだろう。

 姉御は、フフッと笑って、わたしの肩をぱしんと叩いた。


「おめでとう。詳しくは所長から直接聞いてね。親御さんには、私から連絡をしておくわ。ほら、急いでいく! 相手を待たせない!」


 その瞬間、廊下に立っていたわたしは、目が眩むほどの光を浴びた気がした。

 これはきっと、待ち望んでいたスポットライトの光だ。


 そのまぶしさに、思わず両手で顔を覆う。

 それでも、光は消えずにわたしを包みこんだ。


「やったね、恵子」


 きらめく光の中で、自分のことのように喜んでくれる、ひときわ輝いた親友の笑顔が浮かんだ。



FIN


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