突然
5.突然
頭の深くに沈んだ意識の奥に、携帯電話のアラームの音が聞こえる。寝不足の頭にはかなりきつい音や。今日は講義が一限目からある日やから、7時半に起きんとあかん。家賃の安さゆえ、大学から遠いアパートを選んでしまった宿命や。
やかましい音を立てているアラーム音を止めると、僕はベッドで眠っているあやをそっと覗き込んだ。あれだけ大きな音だったにも関わらずあやはすやすやと寝入っていた。今まで、心の中に溜め込んどったことは相当あやにとってストレスやったんや。夕べ僕に話した事で緊張の糸が切れたんやなあ・・・・。ゆっくり眠れや・・・・。
そんなことを心の中で呟くと、僕はあやを起こさないようにそっと学校へ行く支度を始めた。トースターで食パンを焼いて、ブルーベリージャムを薄く塗る。あやが、ブルーベリーは目にいいんだからと、しきりに進めるからついつい買ってきてしまったものの一つだ。
あやがこの部屋にやってくるまでの僕は、朝飯を食べたり食べなかったりだったけど、あやが来てからは必ず食べてから出かけるようになった。そうでないと、あやに口うるさく嫌味を言われる。あやは相当厳しい家庭で育ったんかな。そんなことを考えながらトーストを牛乳で胃に流し込む。いつもなら、あやがサラダかスープを作ってくれるけど、今日はしゃあない。
ベッドの上で寝息をたてているあやの耳元にそっと「行って来ます。」と声をかけると、僕は部屋を出た。
朝の空は清清しい秋晴れで、僕は新鮮な空気を思い切り肺に吸い込んだ。東京の空気は汚れているとはいえ、朝の空気はやはり澄んでいるような気がする。最も、僕の田舎にはかなわへんけど。
僕の出身は大阪や言うても、生駒の山の方の大阪や。びっくりするぐらいの田舎で、近くにコンビニも無い。でも自然が豊富な分、空気だけはきれいで、高校の修学旅行のとき初めて東京に来たときは、ほんまに排ガス臭いなあと実感した。まあ大阪の中心部も負けず劣らずやけど。
それから約1年後、東京の大学に進学が決まったときは、田舎者の僕がほんまにあんな大都会で暮らせるんやろか、と不安になったけど東京にやってきてもうすぐ2年。なんとかやっていけるもんや。
郷に入らば郷に従えや。ほんまその通りやな。などと、くだらないことを考えているうちに大学近くの駅に着いた。駅から大学目指して歩いていく。この駅から大学までの通りは桜横丁と呼ばれるくらい桜の木がたくさん植えられており、毎年春には見事な花を咲かせる。
その光景はほんまにきれいで、叙情的な風景にあまり興味が湧かない僕もこの桜並木ばかりは感動した。今は冬に向かっているから枯葉ばかりやけど、春になったらまた見事な花を咲かせるんやろうな。あやはこの桜並木のこと知ってんのやろか。東京育ちっぽいから知っとるかな。もし知らんかったら連れてきてやりたい。気づけばあやのことばかり考えとる。ヤバイな・・・・。
「拓弥。」
その時、僕は背後から懐かしい声に呼び止められた。振り向くと、そこには彼女、いや元彼女杭瀬咲子が立っていた。彼女をこんなに至近距離で見るのは一体いつ振りなんやろ。多分一年前のあの雨の日から見てない。
相変わらず背が小さいな。僕を見上げる目線は初めて言葉を交わしたあの日となんも変わってない。小さな針で刺されたようにちくりと胸が痛んだ。いや、それ以上に突然の出来事に僕は動揺した。なんで今さら僕になんか話し掛けてくんねん!あれからずっと咲子と高城の二人を必死で無視し続けて、ようやく忘れられたのに。咲子かて僕と関わりたないはずや。それやのになんで・・・。
心の中でそう叫んだけど、実際には口から出てこんかった。ほんま、こんな自分が嫌になる。
「おはよう。」
なんも言えん僕に変わって、口を開いたんは咲子やった。
「あ、お、おはよう。」
情けないくらいしどろもどろや。
「久しぶりだよね?こうやって会話するの。」
「うん・・・。」
「ごめんね。呼び止めたりして。すぐにすむからちょっと聞いてもらってもいい?」
「うん・・・。」
久しぶりに近くで見た咲子は少しきれいになっているような気がした。高城とうまいこといってんのかな。噂では順調やみたいなこと聞いとるけど・・・・。
「あの・・・・。ごめんね。あれから一年も経っちゃったけど、ずっと拓弥に謝りたくて。拓弥は何も悪くないのに、傷つけちゃったから。あのときも私泣いてばっかりで、謝れなくて・・・。高城くんと付き合い始めてからもずっと心の中に拓弥のことがひっかかってたの。毎朝、拓弥の後姿を見るたびに謝らなきゃって・・・。結局一年もかかっちゃった。許してなんて言わないけど、本当にごめんなさい。」
そう言って咲子は頭を下げた。僕はなんて言っていいか分からず、ただ呆然としていた。こんな自体は全く予測不可能やったから。僕が何も言えないで黙っていると、再び咲子のほうから口を開いた。
「祐樹も・・・あ、高城くんもね拓弥に謝りたいってずっと言ってるんだよ。けど、津森は俺のことずっと無視しとるからな。あいつ相当怒ってんねや・・・って言って、たまに落ち込んでる事あるから・・・・。もし拓弥の心の整理がついてるんだったら、高城くんに話し掛けてあげて。もちろん無理にとは言わないけど。」
僕は、ずっと黙ったまま咲子の言う事を聞いていた。遠くの方で予鈴の鳴っているのが聞こえる。
「あ、予鈴だね。授業始まっちゃう。呼び止めたりしてごめんね。私もう行くね。拓弥も今日は一限からでしょ?遅刻しないようにね。それじゃね。」
咲子は軽く右手を振ると、講義堂の中へ入っていった。ああそうや、僕も早よ行かな・・・。さっきの咲子の声が頭の中でこだましていて、頭の中がぼーっとしていた。
講義室に入って、授業が始まってからも壇上で小難しい講義をしている教授の声は耳に入らず、僕は咲子に言われたことを頭の中で反芻して考えていた。
咲子はずっと謝りたかったって言うとった。高城も。咲子と別れた直後は僕と別れた後に、僕の親友やった高城とすぐ付き合い出した咲子の神経が知れんかった。でも、二人は二人なりに辛い選択をしたんかもしれへん。僕はあの時、一人被害者ぶって咲子をなじって部屋をでてきてしまったけど、自分の彼氏を裏切ったという咲子の罪悪感はきっと本当やったような気がする。それはきっと高城も同じ気持ちやったんやろう。
それでも二人は付き合っとる。それは互いが本当に好きだったから。僕はあやが幽霊である事で、一瞬は自分の気持ちを抑えつけようとした。あやのことは好きやないと。久しぶりに女の子と話してそれで舞い上がってるだけなんやと。でも今は違う。ほんまにあやのことが好きやと心から思う。幽霊なんてことは関係ない。あやというその全部が好きや。まあ、こんな偉そうに言うてもまだあんまりあやのこと知らんけど。
とにかく、きっと二人も今の僕と同じ気持ちだったんだろう。何にも顧みず、ただ相手のことが好きだった。たとえ今の彼氏を傷つけ、親友を裏切ってもこの人が欲しかった。ただの浮気やなかったんや。だから一年たった今でも付き合うとる。僕を裏切ったことを後悔はしても、お互いを選んだことをきっと後悔はしてないんやろう。今でこそ、その気持ちは分かるけどあのときの僕にはそんな心の広さはなかった。
高城とも長いこと口を聞いてない。最後に話したんは一体いつかも忘れたぐらいや。高城のことを完全に許したと言えば嘘になるけど、一年前のような怒りとかはもうない。咲子の言うように、高城に話し掛けられたらいいんやろうけど、さんざん彼を無視してきた今となってはなんだか話し掛けにくいものがある。高城もただ好きやっただけ。僕を傷つけるつもりなんてなかったんかもしれへん。
運命の人・・・・。運命の人だったんかな。あの二人はお互いに。運命の人・・・。運命の人・・・。なんやろう。この言葉がやけに頭の中でひっかかる。思い出そうとしてもなかなか思い出されへん。なんかここまで出かかっとんやけど・・・。運命の人・・・、あや・・・・。いや、違う違う。確かにあやのことは好きやけど、運命の人とかそういうんとは違う。だいたいあやとは絶対に結ばれることのない運命なんやから。幽霊やもんな・・・。僕があやに告白することはないんやろうな。きっと一生。あやかていつまでもこの世におるわけやない。いつかはいなくなってしまう。そういつかは・・・・。恋愛って難しいな・・・・・。
「おい!津森!おいってば!どうしたんだよ。ぼーっとして。」
「えっ?」
ふと我に帰ると、目の前に佐木智弘のとぼけた顔があった。
「もう授業終わったぞ。お前今日は上の空だったな。講義室にお前が入ってきたとき、俺が声かけたのに気付かずに通り過ぎたろ。」
「ああ、そうやったんか。悪い悪い。ちょっと考え事しとってん。」
佐木は同じ学部の友達で、入学式のときのオリエンテーションでたまたま隣の席に座ったことから仲良くなった。根はすごくいい奴なんやけどいかんせんこいつも女運が悪い。まあ、悪いというかはっきり言うてもてるタイプではない。
背も低いし、小太りやからお世辞にもかっこいいとは言えんし、合コンとかに行っても一人で暴走して先走ってしまうから女の子から引かれっぱなしや。ほんま悪い奴やないんやけど。
「そういや津森、さっき校門の入り口で咲子ちゃんと話してなかったか?お前らもう普通に話とかできるの?あんなに避けてたのにさ。」
見てたんかい!面倒くさいやつにみられてしもうた。ほんまに悪い奴ではないんやけど、詮索好きなんやこいつは。これも、もてへん理由の一つやろな。
「あー、なんかたまたま校門の所で会うたんや。向こうから普通に話し掛けてきたから・・・。僕も普通に挨拶して、それだけやで。後は別にお前の期待しとるようなことはないで。」
これ以上詮索されるのが嫌だった僕は、適当にかわして逃げようとしたが佐木の好奇心がそれで治まるはずもなかった。
「えー?そうかあ?なんかただ挨拶って感じじゃなかったぞ。けっこう深刻そうな顔してたけどなあ。津森も咲子ちゃんも。もしかして復縁か?高城のやつが浮気したとか?なあ、いいじゃんか。教えろよ。」
なおも佐木はしつこく聞いてくる。こうなったこいつはほんまにうざい。
「あのな佐木、悪いねんけど僕、先週の統計学のレポートのことで沢渡教授に呼び出しくらっとんねん。次は確か休講やから、教授の研究室行ってくるわ。早よ行っとかんとあのおっさんうるさいから。ほなまたな。」
こういうときは嘘も方便や。僕は佐木を残して早々にその場から立ち去ろうとした。やっとこいつのやっかいな尋問から逃れられる。
「ちょっと待てよ津森!」
背を向けて歩き出した僕を再び佐木が呼び止めた。なんなんやほんまに!
「なんやねん?まだなんかあるんか?しつこいぞ。急いでる言うたやろ。」
「まあそう怒るなよ。お前を呼び止めたのは、別に咲子ちゃんとのことを聞きたいだけじゃなかったんだぜ。今夜O女子大とのコンパがあるんだけど、急に一人来れなくなってさ。メンバーが足りないんだよ。お前どうせ暇だろ?来ないか?」
どうせ暇で悪かったな・・・・。そういうことなら早よ本題を言えよ。僕は少しイライラしたけど、なんとか感情を抑えて平静に返した。
「いや、ええわ。僕コンパとかそういうんしばらくええから。今日も早よ帰ってレポートのやり直しやし、誰か他の奴探してくれ。」
夕べ、あやからあんな話を聞いたばかりだったし、今日は早く帰ってあやの傍にいてやりたかった。
というか、僕が早くあやの顔を見たかった。今までの僕なら誘われればよほどの事情が無い限り友達の誘いを断る事はなかったけど、今はあやがおる。僕の勝手な片思いやけど、あやは僕の大切な人(?)になりつつある。
僕がそういうと、佐木は予想通りのオーバーアクションで返してきた。
「どうしたんだよ!珍しい。お前に断られるとは思ってなかったよ。ちえっ、しょうがないな。他当たってみるよ。じゃあな。」
そう言うと、佐木は小太りな体を左右にゆすりながらカフェテリアの方へ歩いていった。やれやれ、やっと開放された。
さてと、佐木に嘘をついた以上、ここにおるわけにはいかんな。また見つかったらあれこれとうるさい。僕は取りあえず沢渡教授の研究室の方へ歩き出した。中庭の銀杏の黄色が目に眩しい。と言っても、もう葉は半分ぐらい散ってしまっていたけど。もうすぐ冬やな。
そんなことを考えながら、長い廊下をぶらぶらと歩いていると、向こうから僕が佐木から逃げるために利用した沢渡教授がずれた眼鏡を元の位置に戻しながら、歩いてくるのが見えた。見た感じいかにもインテリと言う感じの人で、後ろにきちんと撫で付けられた髪と、アイロンのかかったシャツとズボンから育ちの良さが伺える。歳は五十代前半らしいけど、白髪が多いせいか実際の年齢よりもずっと老けて見える。
「こんにちは。」
僕はなんとなく教授に後ろめたいような気がして、軽く会釈して挨拶した。
「ああ、津森君かい。どうした?珍しい。君に声をかけられるとは思わなかったよ。私に何か用かい?」
「いえ、別に・・・・。今日はたまたま挨拶したいような気分だっただけです。それじゃ。」
教授は不思議そうな顔をして僕の顔を見たけど、僕はもう一度会釈して通り過ぎようとした。
が、ふいに教授に呼び止められた。
「ああ、そうだ。ちょっと待ってくれないか。君は今暇かね?」
なんやろ。挨拶なんかするんやなかったな。
「ええ。これといって特に用事はありませんけど。何か?」
「実は昼からの講義でOHPを使うんだけどね、悪いが運ぶのを手伝ってくれないか。うちの研究生がどこに行ってしまったのか、誰も見当たらないんだよ。」
僕は内心、面倒くさいと思ったけど次に佐木に見つかったときに逃げるいい口実になると思い、沢渡教授を手伝うことにした。
「いいですよ。次の講義は休講やし、僕も暇してましたから。」
「そうか。悪いね。R講義棟なんだ。少し遠いが。」
教授は僕にこっちだよと手招きすると、資料室のほうへ足早に歩き始めた。
資料室からOHPを探し出し、R講義棟(確かに少し遠かった。)の講義室にOHPを設置すると、教授はありがとう。と僕に言い、もしよかったらお礼にコーヒーをご馳走するがと言ってくれた。
特に断る理由もなかった僕は、ありがたくご馳走になることにした。けど、コーヒーをご馳走すると言って、教授の向かった先は構内のカフェテリアではなく、教授自身の研究室やった。
「そこら辺の空いてる椅子に適当に腰掛けてくれ。研究生の奴らがあまり整理整頓をしないものでね。机の上が散らかってて悪いが。」
いえ、と僕は小さく言うと、木製の小さな椅子に腰掛けた。椅子は背もたれこそ付いていたものの、かなりの年代もので僕が座ると、ぎしぎしと音をたてた。壊れんやろうなこの椅子。
教授は湯用ポットに水道水を注ぎいれると、カセットコンロに火をつけてお湯を沸かし始めた。
インスタントコーヒーかな。案外ケチやな大学教授は。と僕が思っていると、教授は自分のデスク
の上の棚から”モカブレンド”と書かれたコーヒー豆の缶と、ペーパーフィルターの箱、ドリッパー、サーバーを取り出し、慣れた手つきでそれらをセットすると、中挽きにしたコーヒー豆を二人分ペーパーフィルターの中に入れた。コーヒー豆の香ばしい香が、鼻の奥をくすぐった。
なんで僕がこんなにコーヒーを入れる器具類について詳しいのかと言うと、高校生の時、土日だけやったけど喫茶店でアルバイトをしていたからや。そこのマスターはなかなか本格派な人で、機械で入れるコーヒーはコーヒーやないと言って、一杯一杯手で入れることにこだわっていた。確かに、その店のコーヒーは他の店よりおいしかったし、そのマスターのお陰で僕も随分コーヒーには詳しくなった。
東京に来てからは、カフェへ行くよりは呑みに行く事のほうが多くなって、コーヒーのことなんて忘れとったな。基本的に面倒くさがりの僕は家でコーヒーなんか淹れへんし、もっぱら缶コーヒー専門やった。教授のコーヒー豆の香を嗅いだ途端、そんなことを思い出して、ふいに僕は懐かしい気持ちになった。
「なかなか本格的ですね。」
僕はペーパーフィルターの中に慎重に湯を注いでいる教授に話し掛けた。研究室の中にコーヒーのいい香が満ち溢れていた。
「ああ、元はと言えば妻がコーヒー好きでね。好きがこうじてこんなに本格的な道具を買い揃えることになったのさ。妻はコーヒーを淹れる達人だったが、2年前に亡くなってね。それからは自分で淹れているという訳だよ。ずっとうまいコーヒーを飲んでいたら、どうもインスタントでは物足りなくなってしまってね。」
そう言って教授は穏やかに笑うと、コーヒーカップに湯気の立つコーヒーを注ぎいれ、ポーションとグラニュー糖の袋をそれぞれ一つずつソーサーに乗せて僕の前に置いてくれた。
もしかして僕はまずい事を聞いてしまったのかなと思い、ありがとうございます。と言った後に小さくすみませんと、付け加えた。いや、いいんだよというように教授は笑いながら小さく首を振った。
僕はグラニュー糖と、ポーションをコーヒーの中へ入れるとスプーンでかき回して火傷しそうに熱いコーヒーを一口すすった。確かにそのコーヒーはおいしくて、心がほっとするような味だった。
「おいしいです。」
僕は正直に感想を言った。
「妻に比べるとまだまだだよ。自分で淹れ始めて2年がたつが、未だに勉強中さ。妻が生きているときにもっとよくコツを聞いておくんだったな。」
そう言って教授は再び笑った。僕は恐る恐る教授に質問してみる事にした。
「あの、奥さんはご病気で亡くなられたんですか?」
「そうだね。もともと体が弱くて、喘息持ちだったんだ。ある日風邪をこじらせて肺炎になってね。それきりだよ。あっけないもんだった。妻を亡くしてしばらくは抜け殻みたいだったよ。半年ぐらいしてからかな。ようやく現実を受け入れなければと思うようになったのは。」
教授は少し遠い目をして中庭の銀杏の木を見ていた。亡くなった奥さんのことを思い出してるんやろか。なんとなく気まずいな。そんな空気を察したのか教授が再び口を開いた。
「すまなかったね。こんなプライベートな話をしてしまって。ところで、話は変わるがきみの統計学のレポート、今回は良くできていたよ。きみには珍しくまとまりがあった。誰かにアドバイスでも受けたのかい?」
「ええ、まあ・・・・。」
僕は曖昧に言葉を濁した。実を言うと、あのレポートはあやの助言によって書かれたものだった。偶然の一致か、大学は違えど僕とあやは同じ学部やった。
多分、二人の頭の程度はどっこいどっこいだと思うけど、文章力については明らかにあやのほうが秀でていた。あのレポートの考察は正直に言うと、あやが書いたんや。
「そうか。友達の誰かかい?」
教授はよっぽどあのレポートのまとめ方が気に入ったんかな。えらくこだわるな。
「まあ・・・、そんなところです。他の大学ですけど、学部がたまたま同じだったんで少し助言してもらったんです。」
僕はまた曖昧な答え方をした。まさか幽霊に助言をしたもらったなんて口が裂けても言えない。そんな僕をなぜか教授はにやりと笑って見ると、
「その友達と言うのは、女の子だね?きみはたいがい言葉を濁したりしないから、嘘をついているのは分かるよ。彼女かい?」
なんでそこまで分かるんや!この人こんなに喋る人やったっけ?僕は教授に出会ってしまったことを激しく後悔した。佐木から逃げる口実に嘘なんかついたからバチが当たったんやろか。
「いえ・・・・。別に彼女とかそういうんじゃないんですけど・・・。まあ友達ですよ。」
僕はまた曖昧に言葉を濁した。この場から逃げ出してしまいたかった。なんでこんな話になったんかな。
「そうか。じゃあそういうことにしておくよ。まあ、もしその娘が好きなら大切にしてあげる事だね。私のように、ああしておけばよかったなんて後悔することだけはいけないよ。やってしまったという後悔よりも、ああしておけばよかったという後悔だけはしないことだ。月並みな意見だが。」
教授はにっこりと笑ってそう言うと、空になった僕のコーヒーカップをさげて研究室の片隅にある小さな流しに置いて時計を見ると、
「おや、もうこんな時間か。お昼休みだな。長いこと引き止めてしまって悪かったね。」
と、少しすまなそうに首をすくめた。
「いえ。コーヒーごちそう様でした。おいしかったです。それじゃあ失礼します。」
僕は一刻も早くこの場から逃げ出したかったので、教授に背を向けるとそそくさとドアのほうへ向かって歩き出した。と、ふいに教授に呼び止められた。
「津森君。」
なんやねん。まだなんかあるんか!
「はい。なんでしょうか?」
僕がいささか迷惑そうに振り返ると、教授はそんなことには気づいてもいないらしく再びにこやかな笑顔でこう言った。
「もしよかったらいつでもここに遊びに来てくれ。またコーヒーをごちそうするよ。」
社交辞令なのか僕のことをいい暇つぶしかと思ったのか、教授の真意は分からんけど、予想もしてなかった誘いに僕は少し動揺した。
「あ、はい。また伺います。」
とっさにこう答えると、僕は一礼して沢渡教授の研究室を後にした。なんなんやろ。奥さんをなくしてから教授も寂しいんやろか。僕だけやなくて色んな学生つかまえて、奥さんの話しとんかもしれへんな。最愛の者を亡くす悲しみか・・・・。
そんなことを考えた瞬間またもやあやの顔が頭に浮かんできた。あかん。僕ほんまに重症や。
亡くすも何も、あやはもう死んでしもてるんや。幽霊やし。けど、もし幽霊のあやが今僕のところから居らんようになったら、僕はきっと死ぬほど寂しいと思う。大げさかもしれへんけど、僕の中であやはそれほど大きな位置を占めるようになってるんや。
今、自分で改めてあやへの気持ちを実感した気がしたけど、この不毛な片思いはやっぱり一生僕の心の中にだけしまっておこうと思った。あやに関しては本当にまったく先が見えへんから。
考え事をしながら歩いていた僕の耳に遠くの方で、三限を知らせるチャイムが鳴っているのが聞こえた。僕は我に帰ると、足早に次の講義室へと急いだ。