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二月の冷気撒きながら

 西暦二〇一一年二月某日、午前二時――


 未明の静かな市街地を歩く者は無かつた。二月の寒い夜、単調な町並みを、疎らな街灯が仄然(ぼんやり)と照らしてゐる。歩道に積もつた雪がそれを反射し青白い光を放つて、色気の無い集合住宅と無機質な道路とが続く景色を、一層冷たいものにしてゐた。

 町の中央を大河が流れ、水面を静かに揺らしながら中心市街地のきらびやかな灯りを映してゐる。夜明けが近づくと霧が立ち始め、町を白く覆い尽くすが、深夜の空気は澄み渡り、遠くまでよく見える。二百万都市とは思はれぬ、果てしなく静かな夜。その静けさを破る様に、一台の乗用車が音を立てて大通りを猛スピードで駆け抜ける。それを数台の乗用車が追つてゐた。

 「対象は現在勝利(スンリ)(ゴリ)を北上中。児童(アドン)百貨店を通過しました。」

 追手側の若い保安員が無線で司令所に連絡する。ここからは暫く一本道が続く。次の交差点は既に封鎖されてをり、敵に逃げ場はない。保安員は、そのまま相手を追ひながら共に北上する。

 巨大な銅像の前を通り過ぎ、劇場の前を通り過ぎると、次の交差点となつてゐる凱旋門(ケソンムン)広場まではほぼ直線路だ。逃走車と追手との距離は縮まつてゐないが、前方を見遣ると保安部のトラツクが数台並び、既に広場を封鎖してゐるのが判る。乗用車が突つ切ることは不可能だらう。しかし、相手はどんな隠し玉を持つてゐるか判らない。保安員は、油断せず速度を上げて後を追つた。

 脇道と合流し、車線数が大幅に増える。広場までは三百メートルも無い。しかし、そこで逃走車は急ブレーキを掛けた。車体は大きく左に回転し、そのまま左手の空き地を走り去つてゆく。

 「あの野郎……!対象が進路を変へました。このまま追ひます!」

 若い保安員は、無線に然う伝へると、自らも急左折して相手を追つた。

 仁興(イヌン)(ゴリ)上新(サンシン)(ゴリ)の長い直線路を、速度を落とさずに走つてゆく。逃走車は、交差点から車が飛び出してくる可能性など全く考へてゐる様子が無かつた。実際、この時間に走つてゐる車は皆無だ。ここに来るまでに擦れ違つたのは軍用トラツクが五台だけである。突き当りが見えて来た。先程のドリフトを思ひ出す。或は、正面の運動場をそのまま突つ切る心算(つもり)か。保安員は速度を緩めずに考へる。そして逃走車は――ドリフトして右折し、やはり直線的な新道を北東に走り去つた。

 若い保安員は、敵がどこに向かはうとしてゐるのか必死に考へたが、判らなかつた。追手を振り切らうとするならば長く広い直線路ばかりを選んで逃げるのはをかしい。追手を振り切るならば見通しの悪い路地を通った方が有利な筈だ。何か別の目的が有るのか、振り切るのは諦めて距離を縮められないやうにしてゐるだけなのか、今一つ判らなかつた。然うしてゐるうちに、逃走車はまた方向転換し、国道六十五号に入つて北上し始めた。あはや直進するトラツクと衝突するところだつたが、トラツクが急ブレーキを掛け惨事は免れた。この道は、凱旋門広場を直進して至る道である。恐らくは、封鎖されなかつたらそのままここに向かふ筈だつたのだらう。向かふ先には何が有るのか。逃走車が六十五号線に入つたことを手短に司令部に伝へ、追跡を続けた。

 そのまま北進するのかと思ひきや、早々にヂヤンクシヨンに入り東に進路を変へた。東に進めば程なく高速道路と接続する。高速に乗る心算だつたか。保安員は無線機を手に取る。

 「対象は高速道路に入らうとしてゐる様です。確証は有りませんが、北方国境まで逃げる気かも知れません。」

 「了解した。既に高速入口には待機してゐる者が有るから安心しろ。凱旋門広場とは違つて市街地ではないからな、柔軟に対応する。」

 柔軟に対応する……、銃撃でもするのだらうか。保安員は無線機を置く。ともあれ、これで自分の任務はほぼ完了した。結末が逮捕になるのか被疑者死亡になるのかは判らないが、取り逃がしといふ最悪の事態は避けられた。この功績で僅かでも待遇が上がれば好い。もし応援が逃走車を銃撃するのなら、流れ弾に当たるのは避けたい。然う思ひながら走つてゐると、高速入口から走つて来た軍用トラツクが対向車線に入つた。他に車輌は見えないので、あれが応援に違ひない。街灯も無く市街地の灯りも遠い郊外の道で、ヘツドライトが酷く眩しく感ぜられる。トラックは高速道路手前を流れる合掌(ハプチヤン)(ガン)の橋を渡って来た。渡り切ったところで、中央線を越えてこちらの車線に入り、保安車輌の前方を猛スピードで走つてゐた逃走車に横から体当たりした。

 数秒もせず、耳を劈くような音が届き、保安員は思はず耳を塞いだ。制御を失つた逃走車は車線を大きく右に逸れ、速度をそのままに高欄を破壊し、その下を流れる川に転落していつた。

 若い保安員は車を停め、川に駆け寄る。然程大きくはない川とはいへ、川幅は優に五十メートルは有る。逃走車の落下したのは川の中央に近い、西の岸から二十メートル程度の場所だった。朝まで救助に入るのは不可能だらう。保安員は司令部に報告の無線を入れ、帰途に着いた。


 二月の或る日、近く行はれる国家行事の警備に関する会議に出席してゐた主人を自宅に送る為、男は車を走らせてゐた。二十代半ばのこの男は、或る高級官僚の運転手であつたが、実質的に秘書として主人と行動を共にしてゐた。この日は主人の勤務する政府機関が関わる幾つかの建設現場を回つて朝から日暮れまで市内を忙しく動き、しかも夜遅く、幹部の会合が終る頃には主人は酷く酔つてゐた。肩を抱えて集合住宅の階段を登つて主人を家に帰し、全ての仕事を終えた頃には日付が変はらうとしてゐた。今から家に帰り身支度を整へ、床に就く頃には午前二時近くなつてゐるだらう。しかし、このやうなことは珍しいことではなかつた。

 なるべく大通りを避けながら、自宅への道を走る。深夜の大通りは暴走車が現れることがあり、危険なのだ。そして、危険なのは車が暴走してゐることそのものではなく、誰がその車を走らせてゐるのかであつた。道路が空いてゐることをいいことに、要人の子弟が走り回つてゐることが多いのである。以前、帰宅途中にたまたま然ういつた車の一つを追ひ抜いて了つた或る陸軍幹部が、数日後に急な転勤を命ぜられたといふ逸話は、運転手の間では知らぬ者の無い話だつた。幸ひ、それらしい車とは遭遇せずに自宅の有る集合住宅に到着した。

 主人の家と比べるとかなり狭く、設備も旧式だが、一人で暮らすには十分だつた。そして、男はこの国の平均的な住民よりは遥かにましな生活を送れてゐる。切れかかつた電灯が点滅する階段を上り、二階の自室に入ると、上着を脱いで荷物を下ろす。

 その時、男は何か違和感を覚えた。何が違ふのかといつても判らないが、とにかく嫌な予感がしたのであつた。よく部屋を見てみると、物の位置が少しづつ変はつてゐる。壁から僅かに離して積んであつた新聞がぴつたりと壁に着いて置かれてゐる。テーブルの真ん中を避けて中途半端な場所に置いてあつた椅子が真ん中に在る。扉の前に散乱してゐる空き瓶や紙屑が、幾らか脇に避けられてゐる。これらのごみは、ただ無精で散らかしてゐるのではない。自分以外の誰かが入つた場合に動かすことを見越して、態と散乱させてをいたのだ。そのごみが動いてゐたことは、即ち何者かが部屋に入つたことを意味する。そして、荒らされた形跡が見えないことを考へれば、空き巣の類でも小動物でもない。誰が侵入したのかは明らかだつた。

 この様な事態が起こることは、男も当然予測してゐた。下手に動くと命取りになる。男は壁に掛けてある最高指導者の肖像を睨みつけると、二つの理由から、窓を開けて煙草を喫むことにした。一つは思考を整へる為、もう一つは外の様子を確かめる為である。窓から見える範囲に不審者は無ささうであつた。街路樹や看板の類も無い為、身を隠してゐるといふこともない。窓から地面を見下ろすと、二階とはいへ地面との距離は小さい。男は上着を羽織り、車の鍵がポケツトに有ることを確かめると、鞄を窓から落とし、次いで自らも窓からぶら下がり、地面に降りた。

 男は殆ど音を立てずに地面に降りると、駐車場に回つた。予想通り、保安部の車が停まつてゐる。数は三台。男が車で入って来た方向とは逆側であった為、気が付かなかった。その脇を通り過ぎ、無人であることを確かめる。練度の高い保安員ならば、車を見張る為に誰か残す筈だ。そして、部屋を漁つた後の不完全な復旧、侵入者除けにも気付かない……。どうやら、自分を捕らへに来た保安員は不慣れな新人らしい。舐められたものだと男は感じたが、幸運であることに変りはなかつた。男は主人の車まで静かに近づき、エンヂンを掛ける。

 これも幸ひ、男の部屋から車までは離れてゐた。急ぎ発進すると、集合住宅から慌てて出て車に乗り込む保安員達の姿がミラーに映つた。

 どこでマークされたのかは判らないが、斯うなつては最早逃げるより外ない。捕まつたら全てが終りだといふことは、男もよく解つてゐた。この国では、逮捕審問に証拠は必要ない。取調べの中でどこからともなく、存在しない証拠や証人が現れるのだ。今追手を撒いたところで、この町に逃げ場はない。ただ遠くに逃げるのならば、下手に裏道を逃げるよりも堂々と大通りを逃げたほうが好い。裏道は見通しが悪く、保安部に先回りされても判らない上、大型トラツク一台で簡単に封鎖できる。無駄に広い大通りを完全に封鎖するのは困難で、それだけで人員と車とを割かねばならない。加へて、もしも例の暴走車が有つたらそれを利用できる。保安員とはいへ、彼らに限つては見なかったことにするしかなく、男の走る道に暴走車が走つてゐた場合には男への追跡も中止して引き返すしかないのだ。

 街を東西に分かつ大河にかかる玉流(オンリユ)(ギヨ)を、恐らく歴史上最速で渡り切ると、強引に右に曲がり、勝利(スンリ)(ゴリ)を北上する。整備された広い道路は、夜になると非常な高速で走り抜ける高級車がよく出現する。しかし、運悪くこの日は暴走車が現れなかつた。最高指導者の誕生日を祝う大行事が近い為、有力者の子弟も大人しく過ごすことを求められてゐた為であつた。この国では、大行事が近づくと所有(あらゆる)生活行動が制限せられ、首都機能さへ麻痺して了ふのである。林に囲まれた一帯を抜け、凱旋門を見ると、既に保安車輌が封鎖してゐる。勝利街に入つた時点で応援を呼んだとしても、この早さでの封鎖は不可能だ。新人の保安員だと思つて軽く見てゐたが、恐らく進路を予測して川を渡る前から封鎖を要請してゐたか、予め主だつた道の警備を全て強化してゐたかのいづれかだ。意外と周到らしい。男は、ミラーに映る追手への評価を改め、そしてドリフトをかけた。左方向には空き地があり、その向こうには広く直線的な仁興(イヌン)(ゴリ)が伸びる。大きく迂回することになるが、男は一旦北西方向に向ひ、新しく建設された道を通つて国道六十五号に向かうことにした。勘の好い新人保安員達も、この方向に逃げることは予測してゐなかつたのか、保安車輌は後ろを追って来るもののみで、待機してゐるらしいものは無かつた。途中トラツクと衝突しさうになつたが、辛うじて回避し、国道に入る。国道入口にある展示館を過ぎると間もなくヂヤンクシヨンが有り、東に行けば直ぐに高速道路の入口に着く。

 男はかなりの速度で逃走を続けてゐたが、追手は執拗く跡を付いて来てゐた。しかし、高速に乗つて市外に出て了へば、暫く追跡は止む。管轄が変はる為だ。高速道路入口のロータリーが近づく。すると、正面から軍用トラツクが走つて来た。暗い夜道で、トラックのヘッドライトだけが強烈な光を放ってゐる。

 この時間に一台だけ走つて来ることはをかしい。男はすぐに危険を察知したが、遅かつた。行き違ひ様にトラツクは車線を超え、男の運転する乗用車に横からぶつかつた。車は制御不能となつて橋の高欄を突き破り、合掌(ハプチヤン)(ガン)に転落した。二月の深夜の川は、文字通り凍える冷たさである。男はガラスが粉々に砕けたフロントウヰンドウから外に出たが、数秒で手足、指先の感覚が失せていつた。気を失ふ刹那、誰かが自分を呼んだ様な気がした。男の意識は途絶えた。

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