カラカラさん
(1)ピクニックごっこ
彼――「カラカラさん」と、私たち親子が出会ったのは、秋めいて涼しくなってきた、ある晴れた日のことだった。
その日は水曜日で、息子の颯太と一緒に、近くの公園に出かけ、ビニールシートを広げてお弁当を食べることにしていた。颯太の保育園は、水曜日は午前保育で、給食が出ないという特殊な所だった。私は夫と離婚したばかりで、生活していくために引き取った颯太を保育園に預け、出産を機に辞めた仕事を始めた。毎日が忙しかったが、水曜日には休みを取って、颯太と過ごすことにしていた。
そして、あの日は颯太のおねだりで、ピクニックごっこと称して、お昼に手をかけてお弁当を作り、公園で食べることにしていたのだった。
「ママ、卵焼き!」
颯太は四歳になって、だいぶ言葉も覚え、反抗もするようになっていたが、その日ばかりは甘えた様子を見せてきた。私はそんな颯太が可愛くて、颯太の言うままに、卵焼きを箸でつまんで、小さな口に入れてやった。
「美味しい?」
そう尋ねると、颯太は顔一杯に笑顔を浮かべて、大きく二回うなずいた。本心から気に入っているときは、二回うなずくのが、颯太の癖だった。
確か、その時のお弁当には、おにぎりと、卵焼きと、ウィンナー、つくねの照り焼きが入っていたように思う。確か、というのは、はっきり覚えているおかずが、唐揚げだけだからである。私が作る唐揚げは、颯太の大好物で、二度揚げするのが美味しさのポイントだ。そうすることで、多少黒みが強くなるが、うまみが凝縮されるのだ。
「ママ、唐揚げ!」
二度目のリクエストに応え、唐揚げを颯太に食べさせると、颯太はにこにこ笑いながら、木の葉のように小さな手のひらを私の前に突き出した。
「10点満点!」
いつの間にそんな言葉を覚えたのだろう。保育園に通わせると、いろいろな言葉やしぐさを覚えて成長するので、見ていて楽しい。責任は重大で、お金はないが、私は颯太を引き取ることができたのを嬉しく思った。
(2)「カラカラさん」との出会い
お弁当も空になった頃、帰る準備をしていると、近くを走り回っていた颯太の姿が見えなくなっていた。私はあわてて辺りを見回した。
「颯太!」
颯太はいつの間にか、少し離れたベンチに座ってお弁当を食べる、サラリーマン風の男性の傍に立っていた。颯太は、彼を見上げて何か話しかけていた。
私は歩いていって、颯太を、こら、とたしなめた。
「すみません……」
男性に頭を下げると、彼はお弁当を食べる手を休めて、「いいえ」と戸惑ったようだが笑顔で手を振った。
「颯太、行くわよ」
立ち去ろうとうながすと、颯太はちょっと頬を膨らませた。
「だって、おじさんが、ぼくに『これ、何だったっけなあ。でも、美味しいなあ』って言うんだもん」
そう言われて、颯太が指差す方に目をやると、男性が広げたお弁当箱の中に、唐揚げが一個転がっていた。噛みきった跡が残っていたが、きれいに揚がった美味しそうな唐揚げだった。
「いやいや、ごめんなさい。ちょっと話しかけてみただけなんです」
男性が恐縮したように言った。私は、不審者ではないか、と彼をそれとなく観察した。
その男性は、見た目は50歳を少し超えたところ、中肉中背で、頭にはちらほらと白髪が混じっていた。背広は、スーツと言った方がよさそうな、若向きのデザインで、あまり似合っていなかった。要するに、背広の点を除けば、会社のデスクを離れて、自宅から持ってきたお弁当をもそもそ食べていたように見える、普通のおじさんだったのである。そういう人は、この公園に何人かいたし、近視らしい彼が目を細めて若い私に謝る姿に少し安心して、私は「気になさらないでください」と笑顔で返した。
「あのおじさんね、唐揚げを見ながら、『から……から……』って言うんだよ」
アパートへの帰り道、颯太は私を見上げて、秘密を教えるように、いたずらっぽく話した。
「そうなの?そして?」
「だから、ぼく、『唐揚げだ!ぼくんちの唐揚げみたいだね』って言ったんだ。そしたらおじさんが、『唐揚げね、唐揚げ』って笑ったよ」
それから、颯太はちょっと黙った。言ってもいいものかどうか迷っているようだった。
「どうしたの?」
「また、ピクニックごっこしたいな」
「楽しかったのね。ママもよ。またやろうね」
「やった!」
颯太は、二歩三歩とジャンプするように前を駆けて、アパートに入っていった。私は、ぼんやりあの男性のことを考えていた。
(不審者ではないと思うけど、ちょっと周りをきょろきょろし過ぎるおじさんだったわね……)
私は、アパートの掲示板に貼ってある不審者目撃情報を見ながら、そんなことを考えていた。
(3)深まる交流
翌週の水曜日、またお弁当を持って公園に行くと、あの男性がお弁当を食べている背中が目に入った。私は、あれから何度か「から……から……」と男性の真似をする颯太の相手をして笑っていた。疲れて颯太を保育園に迎えに行き、家に帰っても、颯太が彼の真似をして跳び跳ねている姿を見ては、一緒に笑って元気が出た。
そして、私たちはひそかに、彼を「カラカラさん」というあだ名で呼ぶようになった。そして、なんとなく親しみが沸き、不審者かもしれないという不安も吹き飛んだ。
「カラカラさんだ」
颯太がこっそりささやいてきた。
「唐揚げ、食べてるのかな」
その日は寝坊して時間が取れなかったので、お弁当はおにぎり、ウィンナー、卵焼きだけだった。唐揚げを揚げる時間がなかったのだ。颯太はがっかりしていたが、「カラカラさん」を見つけると、急に笑顔になった。そして、彼の元へ走っていった。
颯太を呼びながら、私も走っていくと、颯太は「カラカラさん」から唐揚げをもらっているところだった。
「だめでしょ!」
颯太を叱ると、私は急いで「カラカラさん」に謝った。
「すみません、颯太が唐揚げをいただいたりして……」
「カラカラさん」は、颯太をぼんやり眺めていたが、私の言葉で夢から覚めたように、「あ、颯太くんね」とつぶやいた。
「いいんですよ、私はお腹いっぱいでしたから」
彼は優しく答えてくれた。颯太は、唐揚げをほおばって、「10点満点!」をした。
「美味しかったなら、よかった」
「本当に、すみません。よかったら、卵焼きをどうぞ」
私は、「カラカラさん」と並んでベンチに座り、急いでお弁当を広げた。颯太も近寄ってきて、「卵焼き、食べて」と彼に話しかけていた。「カラカラさん」は、しばらく遠慮していたが、やがて卵焼きに箸を伸ばして、一口かじり、味わうように目を閉じた。
「美味しいなあ、美味しい」
「カラカラさん」の笑顔は、空を突き抜ける太陽の光のように、少ししわが寄った顔に広がった。私は、もう長いこと水曜日以外にお弁当を作らず、自分の手料理を颯太以外の誰かに食べてもらうことがなかったので、自分の腕が不安だった。しかし、「カラカラさん」の「美味しい」という心からの誉め言葉に安心して、すっかり打ち解けてしまった。
「カラカラさん」は、どこで働いているのか、どこに住んでいるのか、どんな家族と暮らしているのか、など詳しいことは話さなかった。というより、話せなかったのだろう。
彼は、つい溜まってしまった仕事の愚痴をまくし立てる私の話を、「うん、うん」と聴いてくれた。彼は、笑いながら、相づちを打ってくれたのだ。彼の顔立ちは平凡で、眼鏡の奥の小さな目は細くて、口元はどこか締まりがなかったが、笑うと愛嬌があった。
お弁当は空になり、沈黙が訪れた。「カラカラさん」は、お弁当箱を抱えて、きょろきょろし始めた。会社に帰るのだろう、と思った私は、彼が貸してくれた通勤鞄をおもちゃに遊んでいた颯太の手を引いて、別れを告げた。彼は、「はい、さよなら、またね」と軽く手を振った。颯太には、ちょっと身をかがめて頭を撫でてくれた。颯太は、「カラカラさん」と危うく言いかけたが、ぐっとこらえて、
「おじさん、またね」
と言った。
帰り道、颯太は私の手をぎゅっと握って話し出した。
「カラカラさんの唐揚げ、美味しかったよ。ママの唐揚げみたいだった」
「そう。きっと、カラカラさんの奥さんが、カラカラさんのことを考えながら、優しい気持ちで作ってくれたのよ。ママも、唐揚げを作るときには、颯太のことを思っているのよ。お弁当は、食べてくれる人の笑顔を楽しみに作るんだからね。颯太も、好き嫌いせずに食べてね」
「わかった」
颯太は、素直にこくんとうなずいた。
「カラカラさん」が、颯太にいい影響を与えてくれそうだ、と思った私は、次の週の水曜日も、「カラカラさん」に会いに行こう、と颯太に提案した。
(4)真実
ピクニックごっこは続いた。毎水曜日、「カラカラさん」は公園にいた。そして、一緒にお弁当を広げた。
彼は、時に間違えて颯太を、誰か他の男の子の名前を呼んだりした。孫に似ていたのかな、と私は笑った。
時にはおかずを交換した。私も「カラカラさん」の唐揚げを食べさせてもらったが、確かにとても美味しかった。
颯太は、水曜日を楽しみに待っていた。そして、私も心のどこかで、颯太の母親として「カラカラさん」のことを考えるのではなくて、純粋にもっと美味しい手料理を彼に振る舞いたいと思うようになっていた。
そんな水曜日が、五回ほど続いただろうか。その日は水曜日だったが休日で、私たちはくつろいで幼児向けのテレビ番組を見ていた。しばらくして、颯太がぽつりと言った。
「『カラカラさん』、今日はいないのかな」
「そうね……お仕事はお休みかもね。きっといないよ」
「でもぼく、『カラカラさん』に会いたい」
颯太が寂しそうに言うので、私はかわいそうになり、いつも通りピクニックごっこをしようと誘ってみた。すると颯太は元気に跳ね回って、「カラカラさん」の真似をした。
私は、休日ならではのとっておきの唐揚げを作ることにした。ストックしておいた鶏もも肉を解凍して一口大に切り、醤油と生姜で下味をつけてから揚げる。その日は、柚子こしょうで味をつけた唐揚げも用意した。これは辛めなので、「カラカラさん」のためだ。鶏肉がからりと揚がる様子を見ながら、彼が美味しく食べてくれるだろうか、と彼の笑顔を想像してみたりした。颯太は、「ママ、嬉しそう」と言っていた。
幾つもの唐揚げとおかず、おにぎりを仕上げて公園に着いた時には、いつもの時間より遅くなってしまっていた。
私たちは、「カラカラさん」を探したが、誰も背広を着てお弁当を食べている人はいない。私は、盛り上がった気持ちが急にしぼんでいくのを感じた。
「カラカラさん!」
颯太の声に、視線を向けると、確かに「カラカラさん」はいた。だが、誰か知らない年配の女性に手を引っ張られて、公園の出口に向かっていた。颯太は走り出し、私もまだ温かいお弁当箱を抱えて足を速めた。
すると、女性の声が途切れ途切れに聞こえていた。彼女は奥さんのようだった。「カラカラさん」は、明らかに、毒づかれるように叱られていた。
「あなた……若年……認知……施設……ますからね……」
私は思わず足を止めた。颯太も、その雰囲気にのまれたのか、「カラカラさん」を追うのをやめて、とぼとぼと戻ってきた。
私は、近くにあったベンチに座り込んで、頭を抱えた。一つの単語が、頭をぐるぐると駆け巡っていた。
若年性認知症。
唐揚げの名前を思い出せなかったのも、颯太を孫のように呼んでいたのも、きっと認知症だったからなのだ。
あの妙に若向きのスーツも、お弁当も、成人した息子のものかもしれない。
そうして、「カラカラさん」は、会社に勤めていたときのような格好で、「徘徊」していたのだろう。
それを、私たちは笑っていた……。何も気づかずに……。きっと彼は、介護施設に入れられる。私は、自分で自分を引き裂きたかった。
(5)幼い言葉は残酷で
「ママ、シセツってなに?」
それまで黙って私の隣に座って、足をぶらぶらさせていた颯太が尋ねた。
「聞こえてたの……」
「ねえ、なに?」
私は困ってしまった。「カラカラさん」の状態も、これからの彼のことも、幼い颯太には理解できないと思ったが、あまりしつこく聞かれるので、仕方なくこう答えた。
「幸せなところよ……きっと……」
「シセツって、みんな幸せ?」
私ははっとした。施設に入って幸せになるのはみんなではない。「『カラカラさん』以外の」みんな、なのだ……。
気づくと、颯太が笑顔で抱きついてきた。今でも耳に残って離れることがない、こんな言葉を口にして。
「じゃあ、ぼくが大きくなったら、ママをシセツにつれていってあげるよ!」
颯太が……私を……こんなに可愛がっている私を、施設に……入れる?そういう考えが頭をよぎり、私は颯太を抱き締めて、タガがはずれたようにしゃくりあげながら泣いた。
そして、「カラカラさん」を思った。手作りのお弁当を美味しいと食べてくれた、颯太以外のただ一人の男性。涙の中で揚がっていく心は、ただなんとも言えない気持ちを抱えていた。
(6)後日談
それから半年ほど、ピクニックごっこを続けてみたけれど、「カラカラさん」は現れなかった。
颯太は、最初は寂しそうだったが、やがて成長し、保育園で新しい遊びを覚えて、水曜日も友達といたがるようになった
そして今年、颯太は小学生になった。毎日給食が出されるので、水曜日でもお弁当を作ることはなくなってしまった。
私は颯太の成長を喜びながらも、時々寂しくなるようになった。そして、遅番の水曜日になると、出勤途中に遠回りして公園に行き、あの背中を探す。
だが、もう彼はいない。
「カラカラさん」は幸せだろうか。
颯太はすくすく育っていって、四歳の時、しばらく影響を受けた人のことは忘れて、新しい刺激に夢中になる。
けれど、私は、あの名前も知らない男性のことは忘れられないし、これからもそうだろう。そして、時に彼を思って唐揚げを作る。その唐揚げは、不思議と美味しい味がするのだ。
(了)
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【あとがき】
「徘徊」していた男性と、シングルマザーのささやかな交流。そして、幼い颯太の残酷で衝撃的な言葉。誰に起こってもおかしくない未来を描きたかった。何か刺さるもの、社会的な作品が好きなので、これからも書いていきたいと思っています。
猫野 拝