第五話 Spare the rod and spoil the child.
第五話 Spare the rod and spoil the child.
「まあ、まさかマルグリットが『道化師』に絡んでいるとは思わなかったものだが」
先ほどのように机に頬杖をついたエスが口を開いた。事態も落ち着いた――ということになり、マルグリットはアルマの隣に腰を下ろしているが、足を組んでやや猫背と事務所にいる時よりも砕けたような姿勢なのが少し気になった。
「それはこっちのセリフよ。姉さんこそさっきのあれって……その、『道化師』の魂でしょ」
「それを知っているということはそれなりに触れたな」
「……まあ」
「そもそも、どうして人間のあなたが『道化師』に関わっているのですか」
マルグリットが『曲芸師』に襲われていたのを知るアルマは、マルグリットが口ごもったのを見て代わりに問いかけた。彼女の性格から鑑みて、知人に心配をかけるような情報を漏らすことは好まれないはずだった。
『道化師』というものは力さえ発揮しなければ、特殊な匂いもその他の能力も人間とほとんど変わるものではない。ただ一つだけ厄介なのがその匂いだ。普通の人間にはほぼ感知されない特異的なもの――の筈であるが、エスの実例がある以上可能性はゼロではないということだ――だが、近くにいた人間にも付着し、自然と分解されるには数日もかかる。それを解く薬品を開発し、魂を回収している人間、そう、『人間』がいるなどとは。
エスの隣にまっすぐと立つベルベルは、微動だにしないまま視線をこちらに向けている。殺気は、ない。ただ下手に動かせまいとする、何か、『道化師』のそれではない力を感じる。それは単なる思い、だったのだろうか。
「……わたしの話はいいだろう。そう面白くもないぞ」
エス自身も返答を回避して、目を伏せ息を吐くだけだった。
「よくないわよ、姉さんがそんな危ないことしてるなんて」
「それをお前さんに言われたくないものだな、探偵なんぞ金にもならんだろうに」
「ね、姉さんには関係ないでしょ!というかまさか、なんか、調べてたりしないでしょうね!」
「わたしは情報屋だぞ、勝手にひょいひょい入ってくる情報が悪い」
「ねーえーさーーーーーん……」
二人の会話を聞いていたアルマの感想は、仲がいいのだな、というものだった。この二人に関しては部外者の立場にあるアルマはなんとなく客観的になる。マルグリットはアーチをこの地下に連れていたことはないと言っていたが、この女性・エスは自分の体がアーチという人物のものであると知っている様子であることからして、彼女が情報屋としての顔もきちんと持ち合わせているのも確かだった。少なくともウォンネスというこの街のはずれにある、寂れた店の主にしてはそれ以上の何かを感じるくらいには。しかし会話からすると、マルグリットはあまり関わってこなかったようであるけれども。
「……その、お二人は姉妹なのですか」
空気がだんまりの方向に向かい始めたので、アルマはあくまでも軽い調子で口を挟んだ。
仕事面を差し引いても、エスのマルグリットへの執着はそれなりと見えた。何せマルグリットが来てからというものの明らかエスの態度が柔和だ。二人に類似性はほとんど見られないが、マルグリットが時折見せる影の落ちた表情とエスのそれとは似たものがあるように感じられた。それから姉さん、という呼び名も引っかかるところである。
口を開こうとしたエスを制するように上体を揺らし、マルグリットがこちらを見上げた。
「姉さんから聞くとお金取られるわよ」
「……ああ」
「ああ、じゃない。納得したような声を出すなたわけ、大事な妹分のことを食い物にするとでも?」
「私の情報抱えてる時点で信用ないわよ……」
エスの威勢はもうない。マルグリットに半ば睨まれて、芝居めいて肩を落とす始末だ。そんな彼女はため息を漏らして、短くなったタバコの代わりを箱から抜き取った。青い線がぐるりと一周したタバコだった。
「わたしとマルグリットはミスター……と言ってもわからんか」
「……さっきのミリアンのことよ」
「なんだ会ったのか。わたしたちは彼に拾われたガキでね、生まれた土地も年代も違うが、長い付き合いだよ」
拾われた。その言葉が存外さらりと出たのに瞬きを繰り返すしかなかった。マルグリットは、と視線を横に向けてみるも、彼女はまた影の落ちたような顔で本棚の方を見ているだけだった。
孤児、ということだろうか。何も物珍しい話でもない、そういう人間もいるのであろう、という程度の。しかし実際にマルグリットの隣に立つ立場となれば少し思うところもあった。おそらく『道化師』であるベルベルを蹴飛ばす実力と瞬発力を備え――ているにしてはバーで『曲芸師』に襲われていた時は動けていなかった。相当な薬物を盛られたのだな、と内心肩を落とす――、探偵事務所に身を置きそれなりに危険なこともしてきたのだろう。そう大柄でもない、むしろまだ幼ささえ覚えるような女性が。
どうしてだろう。
アルマは純粋に知りたい、と思った。
「……お二人のことは納得しました」
だがそれは今じゃない。小さく頭を下げたアルマに驚いたように静かに目を見開いたエスは、その笑みを濃くした。
「無駄な詮索は自滅につながるよ。少し突っ込んだところは気になるが、まあ引き際はいいところだ」
「じゃあ聞くけど、姉さんがなんで『道化師』の魂を持ってるのか、ちゃんと説明してよ」
「……お前今の話を聞いていたのか?」
勢いをつけて身を乗り出したマルグリットにエスが息を吐く。彼女は、エスはコレクターだと名乗った。そして薬品を開発する技術と知識を持ちながら、アルマを無造作に殺すこともなく、ベルベルという『道化師』そのものを仕えさせているかのようなその関係。荒々しいとも無茶だとも捉えられる性格だが、決して猟奇的とも言えない行動をする女だった。
先ほどの自分の問いかけはかわされたが、マルグリットには弱いのかエスは長い髪をわしわしと乱暴に掻き、なんというべきか、とあからさま逡巡していた。なかなか声は出ない。ふと、その耳元にベルベルが近づいた。
「……ん、ああもうそんな時間か。仕事だ」
何かを呟いたらしいベルベルが離れると、エスは得意げな笑顔に戻る。机に出したままだった魂を引き出しにしまってしまうと、鍵がかけられた。
入れ知恵したな、あの『道化師』。目をやると、ちょうど暗い瞳もこちらを見ていた。匂いが薬品のおかげで一切残っていないせいもあってか、湧き起こってくる欲はほぼ無いに等しい。今すぐ取って食おう、とするまでの衝動は落ち着いたし、それにマルグリットもいるこの状況ではろくに能力も使えない。マルグリットが隣にいる、この状況では。
ちらり、とまた横を見た。マルグリットが納得はいかないというふうで立ち上がったのに慌てて制止の腕を伸ばすも、彼女はとまらない。彼女はアルマの前に、かばうように足を進めた。
「じゃあ一つだけ。アルマのことをどうこうしたら姉さんでも許さないわよ」
「……その体だからか?」
「……命の恩人なの」
「ふうん」
腰を上げたエスは髪の色と似たコートを羽織り、どこか楽しそうに口角を緩める。自分のことを話題にされているというのに、アルマはどこか客観的に目の前の黒髪を眺めていた。
やはりこの娘は、随分と小さな背中をしていた。
「まあいい、じゃあなマルグリット。あまりピエロどもには関わるんじゃないぞ」
立ち去るその最後に、エスは何かをピンとマルグリットに向けて投げ飛ばす。アルマはかつかつとヒールが通り過ぎていくのを目で追っていたが、マルグリットが受け取った銀色の鍵がきらりと彼女の手のひらの中で光るのを視界の端で見た。引き出しの鍵か、いやそれにしては立派なものだ。
そうしてエスはベルベルを引き連れて部屋から出て行った。
アルマは先ほどの衝撃で床に放り出された本に気づき、ふと座ったまま手を伸ばしたが、思ってやめた。立ち上がって自分の手でわざわざ拾い上げる。些細な糸を出すことですら感知されかねないのだ、いくら便利と言って頻発は許されなかった。そして、と先ほどまでそこに魂が置いてあった机を見遣った。確か一番下の深い引き出しにしまわれた魂は、鍵を内部から開けてしまえば安易に入手できるはずだった。自分一人であったならば、の話だ。アルマは静かに本を棚の隙間に押し入れた。
マルグリットは立ちつくしたまま扉に顔を向けていた。手に何かの鍵を握ったまま。
「……ごめん、マリアンのところに行くだけだったはずなのに」
うつむきがちでいる彼女の顔には申し訳ないと書いてあった。こちらとしては大事には至らなかったし、むしろ興味深い情報が得られたので良いとさえ思うのだが、マルグリットにその旨を伝えたところでそうですか、と鵜呑みにしてくれるとはとても想像できなかった。
「いえ、ご存知なかったのでしょうし、あなたに責任はありません」
「そんなことない、姉さんが、姉さんはただ情報の取引の仕事をしてるだけって、思ってたから」
「私には有益な情報でしたよ」
「私には良くないの」
強く絞り出された声は、ほらみろ強情の証だ。木製の部屋にマルグリットの叫びめいた声が余韻を持って浸みていった。その声には怒りさえ見えた。
「……そろそろお食事にしませんか。と言っても私は所持金もないので、今ばかりはお借りしたいのですが」
マルグリットはきっと自己嫌悪のあらわれであろう鋭い瞳をこちらに向けてくるものだから、どうしたものかと笑い方もまだわからないので、黙って見下ろし続けていた。
そんな怖い顔しないでよ。
そう口の中でつぶやいて、マルグリットは先に歩き出した。それはあなたの方ですよ、とおかしくなったが、やはりどうしても頰の筋肉は動いてくれなかった。おとなしく彼女についていくことにする。部屋から出るとマルグリットは鍵を部屋の入り口に使い、それは軽い音を立ててかちゃりと閉じた。あの女店主は店の鍵を寄越したらしかったが、その意図はまだ汲めなかった。
廊下に出るとベルベルが元の位置に戻っていた。警戒してか、逆側の壁沿いぎりぎりに身を寄せて擦るように進むマルグリットが先に行くが、自分はもう親近感さえ覚えて彼に小さく会釈をする。前マルグリットが先に外に出たのを見届けてから、ベルベルも頭を小さく下げてくれた。
地下から出たものの、外も結局は建物の陰で、薄暗かった。
マルグリットはしばらく悩んでから、また細い路地を選んで進んでいった。確かこっちの方にボロい飲食店があったはずなんだけど、と迷う様子で進んでいく。この体では食事を取るのも思いの外の苦労だが、致し方ないことなのだろうし、今はマルグリットに頼るほかないのだ。
そう、少なくとも、今は。
二つほどの角を進んでは曲がった頃に、寂れたバルを見つけた。置いてある看板の文字すらまともに読めず、窓ガラスも割れてそこに存在する意味をほとんどなしていないが、唯一中からほのかに溢れるオレンジ色の光だけが、それがまだ店としての命を保っていることを示していた。
「あった。私も通っただけで入ったことはないんだけど。雰囲気は悪くなさそうじゃない」
多分大丈夫。そう言い切ってすんなり扉を開けてしまったあたりが彼女らしさなのだろう。そしてこの店で雰囲気が悪くない、というのか。外観ではアルマはマルグリットの意見にどちらかといえば否定的な心持だったのだが、中に入ってみればそこは家具も店内も木製で揃えられており、暖かい雰囲気を感じられた。しかし客は誰もいなかった。それどころか店員の姿すら見られない。照明は点いているし、鍵だって開いていたのだ、休みではないはずなのだが。
「休み、じゃないわよね」
マルグリットも同じことを思っていたらしい。店内を見回すとふと、奥の扉がキィ、と音を立ててほんの少し開いたのに二人して驚いた。殺気には敏感な自分も、その小さな人影には全く気付かなかった。
「……席、自由。どうぞ」
黒髪の、齢は一桁ほどしかないと見える幼い少年だった。とことこと大股で歩いてきては、単語を切り貼りしたような話し方で一礼をする。そうして仕事を終えたのか少年はまた扉の奥に戻って行ってしまった。
店員?経営者の親族だろうか。それから見慣れぬ風貌と特徴からするに、外国人だろうか。
「あの子一人でこのお店やってる、ってわけじゃ、まさかないだろうけど……」
「はい。私はここで構いませんよ」
「ほんと?」
「はい」
マルグリットも知らないと言っていた店だが、アルマが肯けば彼女は鵜呑みにして店内の席につくことを選んだ。一番奥の、明かりが一部影に食われた静かな席だ。長らく人の体温にすら触れていないようなテーブルとチェアは、アルマの腰と腕の下で小さく軋むほど。大柄に入る体は少しだけ不便だ、と初めて感じだ。
少しすると、カウンターの奥から女性が出てきた。さっきの少年と同じ髪をした、おそらく彼の母親と思しき女性だ。伏せがちな細い目をこちらに向けると、彼女はとても綺麗に微笑んだ。薄暗い店内のオレンジ色の照明もあってか、とても暖かく感じられた。ほどなくして少年がメニューを持ってこちらにやってきて、それを彼の身長と比べれば高い机の上に押し込むようにして乗せては、その場にちょこんと立ち止まった。メニューを決めろ、ということだろうか。アルマはメニューをマルグリットにも見えるよう横向き、少しだけ彼女の正面に近いように開いた。値段は、比較的安い。しかし並ぶ料理名はアルマにはわからないものが幾つか見られた。
「君、名前は?」
こちらが悩んでいるうちに、マルグリットは少し腰をかがめて、少年と会話をしていた。戦闘を担当されるような女性であるが子供が苦手、という風ではない。マルグリットのことを何も知らなければ容姿に残る幼さも相まってただの子供好きの女性に見えなくもないだろうが、彼女のことを少しづつ理解してきたアルマには、なぜか不思議に思えた。
少年は小さく首をかしげるだけだった。
「ええと、名前。ナマエ……私、マルグリット」
「まるぐ、」
「マルグリット。日向の国の子?日語なら多少わかるんだけど」
「あ、シン。シン」
「シンっていうの?じゃあ華国かな」
シンと名乗った――のだろうか、その少年はこくこくと頷く。アルマに与えられた知識の中では、日向の国も華国も東洋の国である。マルグリットの髪が東洋特有の黒い色をしているのに何か関係があるのだろうか。
マルグリットさん、と呼びかけてメニューを手渡す。髪と似た色の黒い瞳が丸くなってこちらを向いた。
「もう決まったの?」
「あなたがお話をしているうちに。サンドイッチが良いです」
「それでいいの」
「知らない料理が多かったもので」
「あれ、そう……あ、ほんとだ。東洋の料理が多いね」
マルグリットはメニューを受け取ると、ぱらぱらとめくっていく。シンは早くも慣れたようにマルグリットに寄り添っているが、カウンターの女性が彼の親族だとするならば心配の一つでもするのではないだろうか、とカウンターに目をやったが、黒髪の女性は微笑んでいるだけだった。この場は確かにウォンネスの街であるはずなのに、この空間においてはアルマだけが異質に思えた。
――否、異質なのだ。
じゃあ、マーボードーフがいいな。そう言ってマルグリットはシンにメニューを渡した。嬉しそうに笑った少年は、カウンターにまっすぐ走って行き女性にその料理名たちを伝える。女性は頷いて作業を始めた。カウンターの下にあるらしい冷蔵庫を開ける音が、アルマの記憶にもないくせにどこか懐かしいような、あたたかい感覚を思い起こさせた。
指先が、じんと痺れる。
ふと、自分をとても客観的に見た。
アルマはよく知らない、アーチという男の身体があった。
そえが心身ともに『アーチ』であったならば、今ここにいることはマルグリットとの関係もあって、相応しいものなのだろう。だがそうではない。自分は、彼ではないのだ。だが彼女はどうだ、それでも自分を受け入れてくれた。愛する人を失ったというのに。自分はアルマだと彼女は心底理解した上で、それを行った。それは、とても苦しいことなのではないのだろうか。
アルマはここしばらく胸に抱えていたものを、最低限の知識で言葉にしてみることにした。
「今回は、その、お金がありませんので」
「ん?わかってるわよ、私が払うから」
「ありがとうございます……しばらく働いて、お金を貯めて、すぐにお返しします」
「別にいいのに。これからがんばる餞別ってことで」
「……これから、ですか」
「うん」
マルグリットはどこまでも真っ直ぐにこちらを見てきてくれた。しかしそれが行われるたび、ほんの一瞬、彼女の顔がこわばるのくらいはアルマにもわかった。
本来ならばここにあってはならない肉体を、彼女は見ている。
アルマはそれを思うと、どうしてか顔が歪みそうになった。これは、どういう感情なんだろう。忘れた記憶の中の、どれに値するものなんだろう。
アルマは一度唇を紡いでから、静かに口を開いた。
「もし、ある程度の資金を得ることができたら、私はここから離れようと思います」
それのせいで、彼女が驚くことなど容易く予想できた。
マルグリットは、黒くて美しい目を丸くした。そこに映った自分は、やはり、どうしても、なぜ自分であるのにここまでも苦しくなるのだろうか。自分はアーチという男が嫌いなのだろうか、そんなまさか。自分は彼を知らない。なのだとしたら、何も気にする必要はないのだろうに。