第四話 Where there's smoke there's fire.
第四話 Where there's smoke there's fire.
現状を説明すると、絶体絶命になるだろうか。
赤髪の女と動物連れのボーイに従わされ、硬いソファに座っているところだ。相変わらず真となりに立つボーイからは刀が喉元に添えられているし、向かいの官位持ちによくありそうな重厚な椅子に座った女性は変わらずこちらを見据え続けている。気分がいいとはとても言えない。だがどうしても糸で雁字搦めにしてやろう、という気が起きないのは、この場から【道化師】の匂いはするのに、少なくともボーイ、女性自身からはその匂いがしない上、何より女性にいたっては完全な人間だったからだ。伸ばした糸は、確かに一瞬、彼女を捉えた。だからこそわかった。彼女は人間だと。
だがその人間が、自分を【傀儡師】と呼んだ。あの糸を一瞬で見破る人間など、アルマは一人も知らない。だからとりあえず、しばらくは攻撃姿勢を見せない方が良いだろうと、アルマは大人しくする道を選んだ。
「どうした、腹が減っただろう。さっきみたいにやらんのか」
女性は隻眼を――逆光だがよく見ると青い綺麗な目をしている――瞬かせて、こちらに顎で命じてくる。高飛車な様に苛立ちを覚える性質ではなかったので、なんとか欲の方を抑え込むのに集中した。
【道化師】の本能にすりこまれた、異なる食欲。異常な喉の渇きと動悸をもたらす他の【道化師】の力と希望の匂いだ。そもそも、この『匂い』はどこからするのだろう。目だけを部屋に回すも、それすらも咎めるようにボーイと冷たい目線が重なった。彼の方が【道化師】だと仮定するのが最も正解に近いと思うが、匂いの方向性が違う。彼からはしない。この部屋全体に分散されているような、匂いを探ろうとすることを拒まれているような。ではこの男はなんだ。誰が人間に【道化師】の存在を教えた。
「……あなたがたは一体、何者なんですか」
ただ静かにアルマは問うた。自分の職業はおそらく刀と相性が悪い上、女の方の拳銃というのもリーチと単純な威力で考えて分が悪い。武器というものも持つ必要があるな、なんて余裕を含んだ思考が浮かんだが、女は頬杖を不満げについてこちらを睨む。
「なんだ、つまらんな。こちらは尋問をするつもりはないぞ」
「では俺を殺しにかかってはどうですか」
「そんなことをしたらお前、死ぬだろ、アホ」
「ではどうしてこんなことをするのですか」
こちらはまっすぐ見つめていただけであったが、女は髪を大きく掻き上げ溜息と紫煙を吐いた。機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。そんなつもりはなかったのだが。女は手に持っていた武器を机の上に叩き置くと、代わりに机の引き出しを開けた。こちらの眼下にある刃が小さく震えた。思わずボーイを見上げたその視界の端に、たった僅かに捉えただけの物体に、どうしようもなく欲を掻き立てられた。
弾くように上げた腕を、一拍遅れて刀の柄が打つ。
「ッツ、……!」
更に腕で首を絞められても、脳の危険信号よりも本能が勝つ。喉が渇く。眼球がぶれる。そこまで自分を高めるものなど、ただひとつしかない。すくなくとも、この身体になってからは。
口を開こうとしたが、声が出ない。絞める強さが原因ではない。視界が霞む。どうしようもない欲から来たものだ。だが不安も疑問も今は何もこびりついてはくれなかった。全てを欲が支配していく。
「……やる気になったか」
女が手にしているのは、分厚いガラスの、普通ならばパスタやマカロニが詰められているような瓶だろう。しかし中に入っているのは、そうではない。やや鈍い紫色の液体の中に浮かぶのは、まるで飴玉のような。その人となりによってきらきらと色を変える、人間の、魂の、魂そのもの。
「ど、して、あなたが」
アルマは震える声を絞り出した。
ボーイの腕が、筋肉から僅かに震えているのがわかる。それは、わかる。きっと彼は自分と同じだった。同じ匂いがする。した。ここまで接近すればわかった。キュウキュウと鳴く小動物が彼の肩に慣れたように乗るあたり、おそらく彼は【調教師】か。【傀儡師】が糸を使ってありとあらゆるものを操るのとは異なって、【調教師】が操れるのは生き物だけ。だが魂を摂取すればするほど【道化師】というものは本来の魂の記憶を取り戻し、能力も強くなる。『生き物だけ』を操る能力も、糸も道具も介さずに発揮できるほどになる。なるほど、となると今の自分の身は危険というわけだ。この身は間違いなく生物だった。
思考回路だけが自由を許された中、女が口元を緩める。
「わたしはエスといってね、専門は【道化師】のコレクターとでも言おうか。世間一般では情報屋で通しているんだが」
強い魂がたまらなく好きなんだよ。そう言って女が――赤髪の彼女が笑った瞬間、本能が叫んだ。
殺される、と。
だがその恐怖と殺気と遺憾と怯えとが混ざった濁った感情は、別の鋭い気配の一つによっていとも呆気なく解かれた。
ボーイ――ベルベル?ベル?そういえば彼がそう呼ばれていた、とを思い出す余裕がわずかにできた――はアルマとほぼ同時に気配を察知。ピュイッ、と悲鳴を上げた小リスは腕を伝ってアルマの頭に移動。ボーイはそれを横目に見届けてから刃を背後に振りかざしたが、その一拍の間に『彼女』の勢いは既についていた。ソファの後ろから放たれた蹴りがボーイを突き飛ばし、体を床に叩きつけた。衝撃で壁の棚から本が3冊ほど落ちた。
「アルマに何をしたのよ、姉さん!!」
その声にはっとする。見上げれば――といっても、小柄な彼女と自分とを比べると、こちらが座っていてもあまり視線の高さに差はないのだが――、暗闇とは違う黒さを持った髪がなびくのを捉えた。
勢いと風に揺れる黒にとらわれて、幾分かぼうっとしていたアルマは、まばたきを繰り返してやっと現状を理解する。
マルグリットだ。
マルグリット、であるが。
彼女は何と。
「姉さん……?」
アルマはそこで声を出せるようになったことに気づく。ボーイが離れたからだ。だが強制的に絞り込まれていた喉はかゆさをもった痺れを発し、咳き込むとリスが頭から肩へ、そして膝の上へと降りてきた。彼、もしくは彼女はボーイの方を見つめている。そのボーイは、ずれた軍帽のような帽子を先に整えてから、妙に機械的な仕草で上体を起こした。
おそらく叫んだマルグリットも気づいていることだろう。
あれほど楽しそうにしていた女、エスの目はもう丸い。ボーイも結局それから動く気すら見せない。
殺気が消えた。
「あ、あの、マル……マリー、さん」
「何の用、と聞くのはやぶさかではないか。マルグリット、お迎えかい?」
「当たり前よ、もう、ずっと待ってたのに来ないと思ったらこの始末なんだから。で、姉さん。アルマに何をしたの」
「こいつはアーチじゃなかったかい?ああ、違うね。ちゃんと葬儀の記録も残ってる。あんた、こいつがそいつじゃないって知ってるってことは」
「回りくどいこと言わないでよ、もう!」
わざわざ訂正したアルマを放っておいて、エスはさらりとマルグリットを本名で呼んだ。その声音はどこか優しげな雰囲気さえ覚えたし、マルグリットの気を張っていない素直な心も見えた。だが二人は顔立ちも、髪色も、体格さえもあまりに不揃いだ。置いてけぼりにされたアルマは、とりあえず、とリスを手のひらに乗せ、床に置いてやる。するとリスは自ら喜んでボーイに向かっていった。そのさまは、とても【調教師】の能力に当てられたとは思えない自然さだった。
エスはふう、と一息をつくとガラスを置いた。今やっとその存在に気づいたのかマルグリットが息を呑む音が聞こえたが、赤髪の女は気にもとめず立ち上がった。リスが肩にのぼってきても特に嬉しそうにもしないボーイの横を、ヒールのブーツが進んでいく。
「かわいい妹分がこっちの世界に足を踏み入れた、ってのは悲しいけどね。ほら」
鋭い眼差しは、よく見れば元来のやや垂れた目も相まって、もうすでにどこか優しささえ感じるほどになった。エスはコートのポケットから何かを取り出すと、ボーイ、マルグリット、そしてアルマへ投げやった。受け取ったそれは、手のひらに収まるほどの小さな瓶だった。中には透明の液体が入っている。
「説明はあとにして、そんな強い匂いしてちゃ外の奴らが寄ってくる。あんたもミスターに迷惑かけたかないだろう、消しな」
命令をされても、何の話だ。困惑してマルグリットを見上げたが、目があった。彼女も同じ様子だ。そのふたりをよそに、ボーイが瓶のコルクを抜き、液体を手のひらに垂らした。その手でリスを撫でたかと思うと、残りの液体を頭からかぶった。アルマもマルグリットも驚いたが、不思議にもボーイが濡れている様子はない。
「【道化師】の匂いを消す薬だよ。別に料金はとらんから早くしろ」
まごついたこちらにやや苛立ちを覚えたのか、歩み寄ったエスがマルグリットの手から瓶を奪う。マルグリットが行動する前にコルクを抜いてしまうと、黒い髪に思いきり液体をかぶせてしまった。もう、姉さんってば、と怒り出すマルグリットを眺めていたが、アルマも続いて液体をかぶる。触れた瞬間気化するような、妙な心地よささえ感じた。そして気づく。匂いが、本当に消えた。
「……これは、一体」
「あんたら【道化師】は願いを叶える以外で死ぬと魂だけになるだろ。わたしはその魂を基本集めてるんだが、これが放置されっぱなしで古くなったものは到底食っても力にならんらしくてな。それを調べてみたら、むしろマイナスの効果があるらしい。んで、改良してわたしが作った。効くだろう?」
語るエスは饒舌だった。専門、というからには興味があるのだろう。エスはアルマの手から空になった瓶を回収し、ボーイからも受け取ると、それらをまたポケットに戻した。
さて、こんなところでマルグリットに助けられるとは思ってもみなかったし、なにより奇妙な人間に出会った。正直頭がついていかない。
「……いろいろと、伺ってもよろしいでしょうか」
思ったよりも落胆、疲労が声に染み付いてしまって、失礼だっただろうかとエスを見上げる。すると彼女はやはり楽しそうに口角を上げるだけだった。