第三話 There’s no use crying over spilt milk.
バーのマスターに内包された魂を摂取して思い出したのは、『自分』が男であるということ。体と魂の性別が異なるという事例を初めて目の当たりにした直後のため、妙な安心感があった。だが、アルマという名前に伴う記憶も、求めているはずの『願い事』もまだ思い出せないままだった。
静かな落胆とともに出会ったのは、一人の女性である。
マルグリットというその女性は、幸運なことにこの体の知人であった。
【道化師】といえど食べて寝て、生きなければ死ぬ。現代ではそうするために、人間は働かねばならない。【道化師】として地上に降り立ったとき、言語とともに必要最低限の情報――降り立った場所に応じた社会的情報と、【道化師】の仕組み――は得ていたが、それを実行するのは難しいことと思っていたために、アルマは幸運を感じた。
だが、得たのはどうもこの『アーチ』という人間の社会性だけではなかったらしい。
「……そりゃあ、私は、アーチの彼女だったんだから」
彼女はどうしてその名を多く呼ぶのだろう。その理由が彼女自身から語られると、アルマは癖でぽんと手を打った。納得した。この体と彼女は恋人関係であったとは。
それからなぜか大慌てしだしたマルグリットととある約束事を交わして、昨夜は別れたのだった。
第三話 There’s no use crying over spilt milk.
探偵事務所などというものに正直、金銭的な意味での期待があったわけではない。ビッケルという、見た目この体と同年代の青年が案内してくれた事務所内の資料室。過去の資料にある実績だけを見ると、探偵事務所というよりは揉め事の処理を行う便利屋、といったような感想を持った。
いなくなったペットの捜索から泥棒の特定、および確保。怪奇現象の確認、元凶の特定など。事件の下には担当した所員の名前も記述されており、キンリーは全体的な案件に、ビッゲルは対人関連のものに、マルグリットは――意外にも――戦闘を要するものに、そしてアーチは情報確保に多く携わっていた。なるほど確かに自分ではアーチの代わりにはならなそうだ、と思うのは落胆には繋がらなかったが、昨夜の黒い髪の彼女の顔がどうしても頭から離れなかった。
「アルマくーん、朝ごはんできたけどまだ読んでる?」
扉口からビッケルの声がして顔を上げると、にこにことした彼が手を振っていた。
事務所の三階には全部でふたつ部屋があり、ひとつは自分が借りることになり、そのもう一方はビッケルのものであった。聞くに彼はキンリーが探偵事務所を設立する前からここに住んでいたらしく、また所員としても最も古株であるそうだ。多方面で大先輩だな、と思うが常に飄々としている男であったから、なんとなくこちらの調子が狂わされた。
あの女性には――マルグリットには自宅があるそうで、昨夜部屋の準備をしてもらってから、やはり帰ります、と事彼女は務所を後にした。なんでも彼女の部屋は今ひどいことになっているとかで、掃除を後回しにしたくないそうだ。だから今、このビルにいるのはキンリーとビッケル、として自分だけ。
アルマは持っていたファイルを棚に戻した。
「本当に作ってくださったんですか。ありがとうございます」
「んー俺じゃないけどねえ」
「?」
ビッケルについていくと、事務所の片隅にある扉に入ることになった。そういえばここはなんの部屋なのだろう。アルマが足を踏み入れたその時ちょうど机にジャムを置いたキンリーと目が合って、彼の細い目が丸くなった。
「所長料理好きだからさあ、俺とマリーちゃんは昔からわりとご馳走になってるんだよ。お給料から差し引いてもらって」
エプロンもなにもつけていないが、キンリーはアルマを見てからきびきびとした動きをすぐに再開した。台所に戻り、慣れたようにフライパンから綺麗なオムレツをフライ返しに受け取ると、サラダの上に寝かせてやる。ケチャップを流す手も骨ばったそれからは想像できないなめらかさだ。机を見ると料理は三人分用意されていて、当たり前のようにアルマの分もあるのだと気づく。
いや、違うのか。
席について、ビッケルがテレビに電源を入れたところでキンリーがそのチャンネルはやめろ、と怒号を飛ばす。嫌ですよう俺この番組がいい、とリモコンを背中に隠したビッケルと上司は半ば取っ組み合いを始めた。
アーチという男が、ここにいたのだ。
焼きたてのトーストを手にしてみた。体にも記憶が残っているというならどうか、ここで普段あなたが口にする言葉を教えてください、などと小さく願ってみる。だが無論呼応はない。この体の魂は今や『自分』であってそれ以外の誰でもない。
アルマは隣で言い合いをする二人を、やはり静かに見ていることしかできなかった。一口かじったトーストに――この体になってほとんど初めてのまともな食事だというのに――あまり味を感じられないのは、妙な心持ちのせいに違いない。
朝食を食べ終えた三人が隣に事務所に移動し終わるとちょうど、マルグリットが事務所に出勤してきた。やることのなかったアルマは玄関までおはようございます、と出迎えに行ったが、鋭い視線が見上げてきた。怒っている、と反射的に判断して足を止めると、近くにいるアルマにしか聞こえない程度の声量でマルグリットが囁いた。
「内緒、ちゃんと守ってるでしょうね」
「大丈夫です」
なんだそんなことかと胸を撫で下ろす動作をすれば、マルグリットは二秒ほど見上げ続けてたのちに歩き出してくれた。こちらに対して信用がないわけではないようだし、その行動に自分が安堵を覚えたのも事実だった。
つ、付き合ってたのは所長もビッケルも知らないから、絶対他言無用なんだからね、破ったら殺すわよ。
「大丈夫ですよ」
昨夜顔を真っ赤にして言った彼女とおんなじその人の背中を、愛おしいと思わないわけではなかった。自分は男であるし、どんな人間だあったあであれ異性の、しかも綺麗な女性に心が何も思わないとは言わない。
死んだこの肉体と魂は、きちんとここに生きていた。
「私はアーチさんではありませんから」
記憶をよこさないくせに、こんな感情は残すのか。記憶が戻らないままなのに、こんな感情はいだくのか。あなたは、アーチという男は、一体どんなにやさしい人間だったのだろう。いやそれとも、これはまだ知らない『自分』という人間の心なのだろうか。
死人でもない、かといって完全な人間でもない曖昧な自分をやすやすと迎え入れてくれる三人の抱く理由を、アルマはどうしてか、考えられなかった。考えようとすることさえ、嫌だった。
勤務初日、とも言うべきなのだろうか。何をするのかと身構えていたところ、マルグリットに案内されて歩いているのは裏路地であった。
「アーチの葬式、わりと盛大にしたのよ。それなのにあなたがうろうろしてたら、みんな卒倒しちゃう」
なるほど、とアルマは思った。社会的な立場が安定している体を得たのは幸運であったが、これからを思うとこの土地で生きるのはやや困難のようである。ではどこに行くのだろうか、と問いかけてもマルグリットは困ったように眉をひそめるだけ。説明しづらいのよ、とだけ返答を受けてからは黙って彼女についていくことにした。
ここ――ウォンネスの街は、この大陸の中でも有数の先進街に入るのだと思う。アルマが体を得て降り立ったのはウォンネスの南側の外れ、貧民街とも名高い場所であった。だから中心部に向かってきたのは正解だっただろう。人間が多い方が【道化師】が紛れ込むのも安易であろうし、なにより道中でマルグリットに出会えた。ひとつの魂も摂取することができた。あの酒場を嗅ぎつけなかったなら、などと考えると恐ろしいものがあった。
しかし、いくら都会といえど、一切汚れていない場所があるかといえば、そうではない。マルグリットが数センチ横を歩き去っても自分の餌を漁るほど強靭な――もしくは貪欲な心を持ったカラスたちがいたり、彼らが啄んでいくゴミの袋がここにはあったりした。
足がやや痛くなる程に歩いたのち、マルグリットはひとつの扉の前に立ち止まった。ドアについたノッカーをひとつ、ふたつみっつよっつ、いつつむっつ、とリズム良く鳴らす。すると、扉はひとりでに引き開いた。
「ありがとう。私の連れだから覚えてやって」
進みいると地下に続く階段が見え、それからマルグリットが声をかけたことで扉の裏にボーイのような人物が立っているのに気付いた。いたのか。全く気付かなかった。殺気には敏感になったこの体だが、一切の無感情には疎い。黒を塗りつけただけかのような冷徹な瞳と目が合ったが、むしろ尊敬すら覚えて笑みを知らない会釈を返した。はたから見れば、どちらも冷たい表情だったことだろうが。その自覚はある。
コンクリートの階段を降りるうち、先が地下街のように店を連ねているのが見えた。どの扉も暗く閉ざされていたが。
「ここは」
「あんまり公にできないようなお店の集まり」
「どうしてそんなところに」
「喧嘩の賭けができるとこだから。いろいろ事務所で使えるものがあるから。あとは私の知り合いが多いから」
「喧嘩?」
「あーれマリー久しいじゃない。お金たんなくなっちゃったの?」
女性の口から聞こえるべき単語ではないものが聞こえたと思ったら、唐突に肌が震えるほどの声量が張り出したのに驚いて顔を向けると、自分と同じ高さにあったブルーの瞳がぱちくりと瞬きをするところだった。つまりはかなり長身か。
「ん?なあに、もしかしてマリーちゃんのコレ?ベル坊よりも無愛想だけど」
分厚いブラウンのコートを着た、ブロンドの女性――?――は小指を立てるが、マルグリットはてんで気にしないまま懐からメモ程度の小さな紙を取り出した。事務所の出発前にキンリー所長から受け取っていたものだ。
「これ、弾丸の注文。今日は賭けをしに来たわけじゃないの」
「あっそう。まあこんな昼間にこられても客もいないし試合も組めないけど」
高い高いヒールを鳴らして店の一つの奥に進んでいく彼女――と呼んでいいのか迷うのはもう二度目なのだが、その、やはりどちらか決めるのは難しい――の背から目を移し、アルマは腰をかがめた。
「あの、マルグリットさ――」
耳元に囁いた瞬間、首に巻いていたマフラーを思い切り引かれて視界が揺れる。
「マリーよ、ここではそう呼んで。ミリアン以外にはそれが本名だって通してる」
囁き返された吐息に潜む静かな圧迫感に、アルマは息を呑んだ。ただの女性の腕力にしてはあまりに強いそれに、小さく咳き込む。わかりました、と口の中で呟いてから、遮られてしまった言葉を再開する。
「マリーさん、ここは」
一見するとお立ち台と華美な装飾の並ぶ、やや薄暗いバーである。しかしマルグリットが先程注文したというのは弾丸であった。並大抵の店ではないことは入口の時点でなんとなくわかっていたが、それなりの地位と思しき女――もうそれでいい。いいだろう――とマルグリットが親しそうであるのに違和感を覚えた。
マルグリットはハイライトの見えない角度でこちらを見上げてくる。彼女は時折、こんなような影を持った顔色をするな、とアルマは思った。
「いろんな荒くれ者と曲者が集まるバーよ。あと、さっきのひとがミリアン。私の親みたいなものと思ってくれたらいい」
どうしてそんなところに。口を開こうとすると、金属のぶつかる音と共にピンヒールが床を蹴る甲高い音が近づいてきて、悪いことをしているような気分になって思わず口を紡いだ。
マルグリット自らが親だとさえ言う、割合男性的な綺麗さを持つミリアンは、声質もやはり男性的なそれでふふんと鼻を鳴らした。
「はい、こっちのベルトが二本分と、在庫が今ちっちゃい方はなくってね。入り次第連絡しても遅くなーい?」
「大丈夫、急ぎのものじゃないし」
「どーも。んで、こっちのボーイは」
「別にベルベルみたいな使用人じゃないわよ」
「あらそう、だってやけに辛気臭い顔なんだもの」
ミリアンは遠慮もなしにモノを言う、というよりはわざとその言葉を選んでいるかのような口ぶりでこちらを見た。同時にマルグリットからも目が配られる。明らかこの土地生まれの様相のミリアンと並んでいるからか、黒髪と重い色をした瞳を持ったマルグリットがやや不思議に見えた。
マルグリットの口がなまえ、と小さく動いた。促されていると気づいて、アルマは応じることにした。
「アルマ、と申します。マリーさんとは……」
「同業者よ。まだ仕事残ってて忙しいから今日はこんだけで帰るね」
「アルマ?……えーもう行っちゃうの?お酒くらいなら今でも出すわよ」
「まだ昼前なんだからやめてよ」
「あんただってお酒好きでしょーに。ボーイくんはお酒好き?」
「ミリアン、だから」
「ボーイ、というのは私の呼び名でしょうか」
「……」
「それっぽいからボーイくん。いいでしょ?ベル坊のお仲間だわ」
勝手に話を進めだした自分よりも背の高い二人をじとりとマルグリットが見る。もういい、と懐から取り出した硬貨をじゃらりとカウンターに叩きおいて、彼女は先にずんずんと帰っていってしまった。
ミリアンはそれがおかしくてたまらないというように肩を揺らした。
マルグリットの話から鑑みるに、アーチはここに来たことがないはずである。葬式を盛大に済ませた、ということは少なくとも彼女が自分を知人のいるところにわざわざ連れてくると思えなかった。つまりミリアンはアーチと会ったこともないはずであるから、本当の初対面だ。いや、自分からしたら誰だって初対面であるけれど、記憶が戻ってない今はなんとも言えない。だから、彼女が、マルグリットが親だといったけれど、そこを詮索するのは不躾か。
思案をなんとなく巡らせていたら、ミリアンが追わなくていいの、と語尾を上げて言った。
「あ、すみません。考え事をしていて」
「いっつも考えてるみたいな顔してるからわっかんないわ。また遊びに来ていいわよ、見たところひょろっこくもないし大丈夫でしょ」
「……?」
「稼げるわよって話。まあいいわ、マリーちゃん大事にしてやってね」
「はい、了解しました。ありがとうございます」
アルマは頭にある言葉をなんとなく、反射的に返してからマルグリットを追った。
再び静かになった地下で、ミリアンがふうと息を吐く。
独り立ちするのだと言って出て行った、珍しい黒髪の娘。あの子は無駄に真っ直ぐで、真面目で、不器用で、こちらを疑うという考えさえちっとも持たないような子だった。
「あの子、アーチって名前じゃなかったかしら」
それも最近、多くの人に惜しまれて空に昇っていった、あの。
あまりに色のない瞳を思い出して、ミリアンは口元にマニキュアを塗った指を添えた。
マルグリットはどこにいったのだろう。廊下までやってきたが、狭いこの地下で姿が見当たらないというのは。
階段を見上げると、ボーイ、とミリアンに呼ばれた男性がまだ立っていた。うすら明るい中で見ると、男性、というよりはまだ幼さの残る顔立ちをしている。しかし軍服のような重々しい服装を身につけた彼に声をかけるのはなんとなく気が引けて、一度息を吸ってから声を吐く。
「マリーさんは外に出られましたか」
問いかけた声に応えのは、何やら小さなキュウ、という声だった。アルマがやや目を丸くすると、男性――ベルベル?というのだろうか――の肩に小柄なリスが乗っているのが見えた。こんな路地裏に、寒いから森から降りてきたのだろうか。黙っていると、ボーイは外が見えるらしい小さな窓を覗いて、緩く頷いた。
本当に先に出てしまったのか、と肩を落とす。
「そこで待ってる」
しかしほんの、ほんの僅かな囁きが頭上から聞こえてきて、肩は逆に驚きで上がった。
確かに呟いたボーイはそれきり、やはり黙ったまま同じ角度で扉の裏にたち続ける。これが彼の仕事なのだろうか。彼が教えてくれたのは、どうにもマルグリットはそこにいるらしい、ということ。
こちらの様子を伺ってくれたのだろうか。
ともかくありがたく思って、足を踏み出した時だった。
唐突に喉が渇いた。
急速に背筋が冷えた。
吐き気がする。めまいがする。だが同時にどうしようもない欲が湧き出てくる。
――匂いがする。
今できる最大限の驚きが顔に広がるのを感じながら、アルマは振り向いた。
そこには他のいくつかと何ら変わらない扉があった。
アルマは古びた扉の隙間に迷わず糸を飛ばした。
だがその瞬間。
「動くなよ、パペッター」
背後から首に長剣が添えられる。向かいからは額にハンドガンが当てられる。
もの低い響くような声を発した女性は、片手に握ったハンドガンをもってしてアルマに殺気で楯突いた。目前の扉がいつ開かれたのかも、伸ばした糸がいつのまにか切られていたのも、そして背後にあのボーイがいつ立ち腰から剣を引き抜いたのかもわからない。集中する先はただ一つ。誰だ、なんだ、なんでこの女から『匂い』がする。
右目に眼帯をした、赤々とした金髪の女性は、煙草を噛んだまま銃を下ろした。
「そのままついてこい。ベルベル、お前もだ」
アルマは首元の銀の刃を見下ろし、唐突な乾きに上がった動悸も相まって、小さく溜息を吐いた。