第一話 After a storm comes a calm.
安いホテルを借りて6日目になった。こんな路地裏にあるホテルだからか、支配人もお金を払いさえすれば出て行けなどと言いそうな嫌な顔もしなかった。割れた皿とガラスが散り、ワインで浸された床のある家よりはずっとずっと綺麗で清潔で、部屋のサービスは標準的な小さなホテルだった。ヒステリックの勢いで家を飛び出したにしては私はちゃんとありったけのお金を持ってきていて、生活するのには困っていない。近場に男臭いのが難点だが酒場も食事処もある。最初、私一人で乗り込んだ時は太い手が伸びてきたりしたけれど、一旦捻り潰した今では道さえ開けてくれる始末だから、まあ居心地もいいくらいだった。
別に、もともと一人暮らしだから家のことはどうでもいい。
これからのことも正直どうでもよかった。
あの人がいない世界なんて、もう。
また眼球を熱い熱いものが包み始めて、マルグリットはずず、と情けなく鼻をすすった。
枕に逆戻りしたその時、すぐ近くでけたたましいベルの音がした。携帯電話だ。ちくしょうちくしょう、電源を切っておけばよかった。でも思わず切りもせず取ってしまったのは、声が、誰でもいいわけではない、少しでも親しい人の声が聞きたかったからだ。
家出生活初日にも聞いた声はその時と違って、柔和で、春風がわずかな隙間をぬってサンルームに潜り込むような、あたたかでなめらかな勢いをもってマグリットに届いた。
『食事はとってんのか』
「……おいしいですよ所長。町外れも案外馬鹿にできませんよ」
『ひでえ声してんな、やっぱ帰ってこい。仕事はいいからとりあえず仕事場に来い』
「所長の煙草のない環境のがわりと健康的です」
『うるせえ』
マルグリットが所属する仕事場はいわゆる探偵事務所なるもの。我らが所長・キンリーの性格からはとても想像できない優しいお言葉に、マルグリットはお遊び好きの仲間の仕業じゃなかろうかと疑った。へらへらしたビッケルの顔が脳から剥がれず、しかしそれだって嫌じゃないのだ。
「あの、所長、ビッケルがなんか背後に見える気がするんですけど」
『あ、なんか僕の名前が聞こえたぁ。マリー、お元気?あっちょっと、何するんですか』
『お前がなにすんだって話だろうがアホ、電話を盗るな』
想像通りの笑い声がいきなり聞こえた直後、早口の所長の声が近くなった。ああだこうだと喧嘩の素振りをする二人の映像がすんなり思い浮かぶ。そこにもうひとつの姿が無いのに気づいてしまったとき、喉がしゃっくりを上げた。
電波の先の声がやんだ。
それから、さっきと同じような声が鼓膜を震わせたけれど、なぜかまったく、今度は、マルグリットは仲間のちょっかいのせいだと疑うことをしなかった。
『帰ってこい、そんで飯食いに来い。お前好きだろ、俺の作ったロールキャベツ』
あっ俺も好きですよう。こもった声がしたと思ったらひどいノイズと何かぶつかるような、ぶつけるようなそれはまあ修羅場の音が続いて。笑えるけどなつかしい音がして。
マルグリットは傷めた目元にまた塩を塗りこむ羽目になった。泣きはらした目から涙が止まらない。
仕事仲間にして最愛の人・アーチが死んだのは7日前のこと。
マルグリットは6日ぶりにあの場所に帰ることにした。
第一話 After a storm comes a calm.
旅行をしたことのない人生だったなあ、とマルグリットは思った。知らない景色を見渡したときに真っ先に思い浮かんだのが旅行という単語だったからである。いや、正確に言えば家を飛び出した時一度通った道であるから覚えていないだけなのだけれど、落ち着いてみるとそうやって妙な感嘆を覚える結果に至った。今私は、事務所のあるウォンネスの街に帰る道をたどっている。
アーチという23歳の青年は景色が好きな男だった。写真を撮るのが好きで、大好きな電車で世界中を回っていたそうだ。探偵事務所ではそのフットワークの軽さと長年の旅で得た人脈をいかんなく発揮してくれたことだ。
ビッケルとは違ったふわりとした笑顔をいつもめいっぱい広げていた男だった。
柔らかい子犬のような声と顔をする男だった。
そんな男が、私は好きだった。
そんな男はあろうことか大好きな電車に轢かれて死んだ。
私を押しのけて。
私の目の前で。
不意に顔を向けた店の窓ガラスにひっどい顔が映った。むろん私である。ず、と一回、そしてもう一回だけ鼻をすすって歩くのを再開する。
言えば良かったな、一回くらい好きだって。
「言いたかったな」
その一言だけ声に出してしまったのは、どうしてだろう。
町外れから次第に明かりの多い都会に戻ってきたのがどうしようもなく寂しくて、心臓が痛い。アーチに突き飛ばされた肩がまだ痛い。一週間も経ってるっていうんだからたぶんなんとなくの記憶が痛いと思わせてるんだろうけど。まあどうせあの笑顔はみんなのものであって、それでもいいから。なんだっていいから。なんて終わったあとに思ったって。
思考がぐるぐると巡って雁字搦めになるのに、足がまた止まった。止めてしまった。
立ち止まったのは細い路地の前。奥の看板に見えるは酒場の文字。
お酒かあ。
夜はもうどんどん深くなる。どうせ今日中にはウォンネスにもつくまい。その闇にのまれるくらいなら、とマルグリットの足は進む方向を変えた。
客はマルグリット一人だったが、バーテンダーの壮年の男はあたたかく迎えてくれた。こんな外れの店だ、怪しい者のひとつやふたつ、と警戒はもちろんしていたものの、メニューに並ぶ酒は安価とはいえないが丁度いい値段であったし、こぎれいな店内と流れる適当に音符を並べただけみたいなジャズのメロディに思わずカウンターに腰掛けていた。
おいしいカクテルをちょうだい、と言って出てきたのは緑の酒だった。上にちょこんとチェリーが乗っているから、まるでメロンソーダのようだ、と思う。
「これ、おいしいんですか」
「ええとっても。リピートの女性が自らこれを頼むほど」
「へえ。名前は」
「ビバーナム、と申します」
グラスの首を持ち上げ、すんと香ってみるとそれはそれは爽やかな甘い香りがした。なるほど女が好みそうだ、と口をつけてみればビンゴ、と脳内で鐘が打ち鳴らされた。
「おいしい!」
「ふふふ、見た目にそぐわず可愛らしい反応をなされる」
「……」
「きれいな顔に怖い表情をしておられたものですから」
たくわえた口ひげの下で笑う声に目を細めたが、すぐに視線をそらすことになってしまった。図星ですとも。というかそんな顔してるのか。そういやしてたな。
マルグリットは小さく溜息をついた。一人だし、マスター慣れてそうだし、ごめんなさいね。そうして口を開く。
「ちょっと、悲しいことがあったんです」
「ほう」
「それだけです」
でもすぐに嫌悪が這い上がってきたから、ぐいと酒を一気に煽った。自分のことを話すのは慣れていない。アルコールはほぼないに等しいようなもので、喉はまったく焼けない。涙のほうがよっぽど痛いくらいだった。
メグさんはあまり女性っぽくないですね。だって、俺の知ってる女性はよく自慢をするものだから。
そう言って笑った男はよく考えたらひどいこと言ってるな。いやどっちに対しても。でもあばたもえくぼと言いまして、恋は盲目と言いまして。あーあ。
空っぽになったグラス越しにマスターが見えた。マスターはきれいに笑っていた。笑顔にもたくさん種類があるなあ。
「マスター」
「はい」
「もういっぱい」
「いかがなさいましょう」
「おんなじのがいいです」
眠くなりたくて来たのに同じものを注文したのは、純粋においしかったからだ。天国から見ていろアーチよ、私はすぐにでも事務所に帰ってバリバリ働いてやるからな。
透明なグラスを少しだけ掲げて、動き始めたマスターをなんとなく追って透かして見る。ガラス越しのままの姿がなんとなくおもしろかった。それがふと目があった。あれマスター、笑顔がぐにゃぐにゃしていますよ。マスター。ガラスで歪んでるからかな。あれ、ちがうな。
「まだ、飲まれますか?」
うん、と私は深く首を捻った。アルコールに浮かされたみたいに視界がぼやけている。歪んでいるのは私の視界だ。マスターがまたちがう笑い方をしている。かたん、とカウンターに身を寄せたマスターが私の黒い髪を撫でた。私のおじいちゃんの遺伝子がおばあちゃんにもお母さんにもお父さんにも勝って残った、黒くてまっすぐな私の髪。この地では珍しい純粋な黒。
あの人が好きだと言ってくれた、私の大切な髪。
それをマスターはぐしゃりと握りつぶした。
「い、っ!」
「大丈夫です、すぐに意識は落ちます。いや本当にきれいな顔をしておられる」
無理矢理に持ち上げられ、力の抜けた身体を置き去りに首をそらす体勢になる。睡眠薬か、そんな。眼球はなんとか動かせる。思い切りにマスターを睨むけれど、視界までは自由ではなかった。ぐるぐる、ぐにゃぐにゃと動いて、吐きそうな微睡みが襲ってくる。
暴力団か、なんだ。どうされる。腕を上げようとしたけれど、くそったれ、力が入らない。ああもう所長にまた怒られる。ビッケル、ビッケルだって、あんたたまには働きなさいよ。助けに来てよ。誰か。ねえアーチ、アーチ、ねえ。
「私は、わたしは、ああ、きれいな女が欲しかった。女の体が欲しかった。どうしても欲しかった」
男は笑ったまま話しだした。だがその声のトーンはなんだか違和感を覚えた。妙にやわらかく、踊るようで。
「ずっときれいな女を探していたけれど、いいわねその髪。きれいよとっても。こんなオジサンの体なんてもううんざり。やっと『願い事』が叶うんだわ」
まるで――女の人のようじゃないか。
いつのまにか瞑っていた目を、ゆっくりと、なんとか開く。いひ、と気持ちの悪い笑顔が近くにあって、悲鳴をあげることさえできなかった。マスターの背後で酒瓶が次々と浮かび出す。瓶が宙に浮く。なんだこれ、なんだこれ。なんだこれ。
「神様もほんと【道化師】にするならするでもっと使える職業にしてくれたらよかったのに。【曲芸師】なんてねえ、使えないったらない、と思ってたんだけど」
そのうちのワインボトルのひとつが頭上までやってきたのをマルグリットはただ眺めていた。それしかできなかったのだ。
ぴえろってなんだ。ジャグラーって、何の話だ。
意識が揺れると同時、しわがれた声が楽しそうにさよなら、と弾むのが聞こえた。
耳元で空気の切れる音がした。
瞬間、身体が引かれた。椅子を、重力を無視して、とんでもない力で。背後がどんと何かにぶつかったかと思うと、椅子が床に倒れ落ちるのが見えた。
「そう、力を大きく使うとにおいますよ。私でもにおうくらいには、実際しました」
コートを身にまとったしっかりした腕が身体を支えるように回ってきた。意識がなぜかはっきりしている。目はずっとあの衝撃から見開いたままだ。だから頭上から若い男の声が聞こえても、これ以上目を丸くすることはできなかった。
それは、大好きな声だった。
見上げる角度は『いつも』とは違う。それは、こんな近くから見上げたことなんかなかったからだ。
大きな体と少し長いトウヘッド。垂れた深いグリーンの瞳はいつもみたいに笑ってはいないけれど、その声もなにもかもが、大好きな、大好きな。
「アーチ」
まさにその男がそこにいた。死んだあの男が。
わたしは酔いすぎて夢を見ているのだろうか。
ちら、と緑の瞳と目が合って肩が跳ねた。
「勝手にすみません、なにか薬が入っていたようなので解毒を進めさせていただきました」
「へ」
「すぐに終わらせますので」
男の右手の指がぐいと動くのに、その腕が先程からずっと伸び続けているのに気がついた。指ひとつひとつを動かすような仕草を目で追っていると、きらりと光る糸が見えた。彼の髪と同じ色をしている。男の腕の先を更に追えば、あのマスターが棚に張り付いているのが見え、身体が震える。マスターの目が白目をむいて泡を噴いていたからだ。銀色の糸が繋がれた肉体はぴくりともしない。アーチ――?――は私の体がしっかり立ったのを確認してから腕を離すと、カウンターに近づき、指を曲げたままの腕を引いた。マスターの身体が連なってカウンターに寄せられる。
「意識はありますね」
アーチが問いかけても応答はない。
「私も【道化師】になって日は浅いですから、よい経験になりました。これだけでもにおうものだと学ぶことができました。ですので手早く失礼致します」
くいと骨ばった白い中指が手のひらにつくほど丸くなる動作で、糸はマスターの身体からぷつんと切れた。ちがう、切れたように見れたのだ。マスターの体から赤く光る小さな玉引きずり出され、糸の先に絡め取られたそれはどんどんアーチの顔に近づいていく。
あ、と口が大きく開かれる。
マルグリットは間抜けにその様子を見ていた。
「すみません。いただきます」
ガリ、と飴のような音とともにアーチが玉を噛み砕くと、同時、マスターの身体が金色の光に、泡のように溶けて消えた。
ガリガリ、バリボリ。
「あ、あの、アーチ……?」
口全体を動かして無表情で食べ進める――あれは飴なのか?というかマスターはどうした?というかあの糸はなんだ?それよりもこの、彼は、なぜ、アーチが、ああ頭が痛い!――男に向かって一歩を踏み出した。するとはらりと私の体からあの糸が落ちて、否、この己の身体から離れた糸がアーチの左手に吸い取られたのを見た。
「おからだは大丈夫ですか」
「え」
「勝手に操作しましたから、少し支障があるかもしれないと思いまして」
アーチよりも堅苦しい敬語を使って、なんて私は何を思っている。彼はアーチだ、どう見てもそうだ。でもおかしい、と思ってしまうような口ぶりで男は淡々と言った。どこまでも優しく丁寧なはずの言葉なのに、壁のような距離を感じる。マルグリットは自分の身長ほどの距離を置いて立ち止まった。
大丈夫の意を込めて首を横に振っては、そうですか、とまた色のない声がする。
なぜか不安がよぎって、顔の筋肉が強ばった。
男がこちらをじっと見下ろす。
「そのアーチというのは、人名ですか」
不安が一気に形を持った。別人だ、という確信が追ってやってきた。絶望もついでにひきずられてきて、しかし安心も覗いて見えた。
結局マルグリットは肩を落としそうになって――最後に勝ち残ったのは希望だった。
だって声だって、顔だって、身長だって、私の大好きな彼なのだ。マルグリットはきっと強く見上げた。
「そう、そうよ。あなたの名前じゃない」
「私の?」
「覚えてないの?記憶喪失?もしかして幽霊なの?」
一歩、また一歩と詰め寄ると男の瞳がうっすらと丸くなった。驚いているのだろうが、アーチはもっと反応の大きい人間だった。だった。
「――あなた、死んだじゃない」
声が震えるのをこらえきれないまま言ったから、ものすごくださくなった。それでも男は少し驚いた顔を維持してまばたきを繰り返す。そしてかくんと首を傾げる。二人きりの部屋ではその音すら聞こえるような気がした。夢にしては余りにもリアルだった。
すると男はぽん、と演劇めいて手を打った。
「あなたは、この体をご存知なのですね」
「はい?」
色のない瞳と声はそのままなのに、なぜかきらきらと輝くようなエフェクトが感じられた。
この男は今、何と。
男は右手をその胸にちいさく添えると、恭しく一礼をした。
「自己紹介が遅れました。私、【道化師】のアルマと申します。職業は【傀儡師】、願い事はまだ思い出せませんが、どうかあなたとお話がしたい」
アルマ?
アーチ、と呼びそうになった唇から声がどうしてもでなくって。よろしいでしょうか、と男が無表情のまま見据えてくるのに、マルグリットの心臓がまた痛くなった。