相合傘
始業のベルが鳴ると、社会科担当の矢野がやってきた。
――徹だ。
私は、慌てて視線を落とした。実際の徹より年齢が上で、二十八才くらいだろう。顔そのものは『矢野』という入れ物になっているが、どことなく徹の雰囲気が残る。外見は多少変化するが、味方の『戦士』同士ならば、すぐにわかる。ただし、登場人物が、我々戦士に変わったところで、周りの人間はそれに気が付かない。女神のおぼしめしというやつだ。
「……というわけで、今日は、関ヶ原に至るまでの経緯だな」
矢野がそう言って、教科書をめくる。
私は教科書を見るフリをしながら、斜め前に座る山岸を見た。
山岸は、モブのわりに目鼻立ちが整っている。アシスタントがつい美形に描いてしまったのではないか、というタイプのモブキャラだろうか。
そう言えば、山岸は「園原さん」ではなく、「亜美さん」と呼んだ。
随分、馴れ馴れしい。ヒロイン、園原亜美は、クラス男子から名前呼びされているタイプではないだろう。(そう呼びたいと思う男はたくさんいるだろうが)そう考えると、彼は、単なるクラスメイトではなく、サブレギュラー的な役回りを持っているキャラなのかもしれない。
――資料は、一通り読んだけどなあ。
もっとも、その資料は、園原亜美と常盤晴彦が結ばれる原作をダイジェストにした資料である。サブキャラなどは、あまり触れられてはいない。
「……それじゃあ、天木、後でみんなのノートを集めて、職員室に持ってきてくれ」
さりげなく、徹はそう私に言いつけて、授業を終えた。
――焦っても仕方ない。
私は、首を振り、提出用のノートを集めて、職員室へと向かおうとした。
「天木さん、一人で大丈夫?」
声をかけてくれたのは、ヒロイン、園原亜美だった。
「ええ、平気よ。ありがとう」
私が微笑むと、「半分持つわ」と言って、ノートを半分私から受け取ってくれる。
――天使だ! このコ、マジ、天使だわ。
自分が男だったら、『仕事』を間違いなく忘れてしまうところだ。
キラキラした瞳が、眩しいくらいに綺麗だ。
「矢野先生も酷いわ。天木さん一人に、持ってこいなんて」
ぷくっと、亜美は頬をふくらました。
徹は、何か意図があって、私を職員室に呼びたかったのだろうが、そんなことは、亜美は知るはずもない。だから、そんなふうに思っても仕方がない。私は思わず苦笑した。
「ごめんね。園原さんに迷惑かけちゃって」
私は首を振った。
「……それから、さっきもごめん。酷いこと言われていたのに、助けに行かなかった」
いくら任務優先とはいえ、いじめをスルーしたのは後味が悪い。
「いいよ。長月さんに睨まれたら、天木さんにも迷惑かけるから」
ぽつり、と、寂しそうに亜美は微笑む。
「山岸君と、仲がいいの?」
さりげなく探りを入れる。
「え? 塾が一緒なだけだよ。まさか、あんなふうに助けてくれる人とは思わなかった」
少し頬を赤らめる亜美。
「塾、ね……」
何にしても、いじめを助けてくれるイケメン……それこそ、恋愛ものの王道である。
エンディングの勝利条件に入っていないからといって、邪魔するのも変だなあ、と、私は首を振った。
職員室にたどり着き、私は亜美と一緒に、矢野の元へと向かう。
矢野……徹は、私と一緒の亜美を見て、一瞬だけ、私に抗議の表情を向けた。
「すまんな、天木……園原まで。ご苦労さん」
「先生、女の子一人で、クラス全員のノートを持ってこさせるなんて、ひどいわ」
亜美が口をとがらせる。滅茶苦茶可愛い。
案の定、矢野の目に動揺が浮かび、私は思わず、吹きそうになった。
「悪かった。天木が一番、言いやすかったから」
適当なことを言う矢野。正義感の強いヒロイン亜美は、ムッとした顔で矢野を睨みつけた。
このままではさすがに矢野が可愛そうである。
「園原さん、矢野先生、私の部活の顧問だから、私に言いやすいの。こうみえて、先生、結構、内気なんだ」
天木は、部活の所属などは設定にないから、私がそう決めれば、それが事実として設定されていく。これは、女神が私たちにくれた特殊能力だ。
「え? 戦国史研究部だったの?」
亜美が驚く。
――しまった!
矢野がしかめっつらになった。そうか。矢野は『戦国史研究部』の顧問という設定があった。
確か、黒沢和樹が所属していたはずだ……もっとも、原作ストーリーにほとんど、その部活シーンはない。一度、文化祭でのパネル作成の資料集めを、黒沢が、亜美に手伝ってもらう…というシーンがあった。
「ほぼ、幽霊だけどね」
慌てて、私は付け足した。表ルートじゃない部分だし、幽霊部員が一人増えたところで、それほど逸脱はしないはずだ。
「……たまには、マジメに来い」
話を合わせる彼に、引きつった笑顔で私は頷いた。
「あら、先生、それが言いたかったのですね」
くすくすと、亜美は笑った。
「天木さん、可愛いですものね」
「……園原、誤解を招くようなことを言うな」
矢野がそう言って、首を振った。
ヒロイン亜美の妄想に呆れながら、私は、ふーっと溜息をつき、職員室をくるりと見回す。
矢野から少し離れた席に、常盤晴彦が、女の教師に呼ばれて何か話をしている。あれは確か、数学の教師で、晴彦の担任だった幸島沙也加のはずだ。
私の視線の先に気が付いた矢野が、私にだけわかるように、ニヤリと笑みを返した。
――ふむ。あの教師がアヤシイと、言いたいわけだ。
「じゃあ、先生、私たちはこれで」
「おう。悪かったな」
「私が、ちゃんと、今日は部活に行かせますね」
亜美がニコリと笑い、矢野が少し、渋い顔をした。
放課後。
私は、亜美に引っ張られるように戦国史研究部の教室へ連れて行かれた。
どうでも良いが、そこまで、何故世話を焼くのか、理解が出来ない。天木は、単なるクラスメイトで、別に、亜美の親友ではない。彼女の親友は、彼女と同じ、手芸同好会にいるのだから。
「あれ? 天木さん、珍しいね」
黒沢が私の顔を見てそう言った。
特殊能力が働いて、『戦国史研究部』の幽霊部員という設定が、すでに浸透しているらしい。
私は、首をすくめて、他の部員を見回す。
黒沢以外、目立つ人間は一人もいない。しかも、この部には、いわゆる歴女は私しかいないようだ。
「じゃあ、和樹、天木さんをよろしくね」
「ああ」
なんだかすっかり、保護者のようになった亜美が私を黒沢に託して去っていく。
「あれ、今日は、天木さん、来ているの?」
山岸が、びっくりしたように入ってきた。
――オマエも、ここかい?
私は、思わずため息をついた。
突然、雨が降り出した。
靴を履き替え、空を見上げ、園原亜美は首を振る。
意を決して、足を踏み出そうとした、亜美に、黒い大きな傘が後ろから差し掛けられた。
「常盤君?」
振り返ると、そこに立つのは、常盤晴彦だった。驚いた亜美に、晴彦は笑った。
「濡れるよ。駅まで、入っていきなよ」
「うん……ありがとう」
二人は、顔を赤らめながら、駅までの道を、相合傘で歩いていく。
――イベント「相合傘」成功だ。
校舎の窓から、校門を眺めていた私は、密かにガッツポーズを作る。
二人の後方で、矢野が幸島と話をしているのが見えた。詳細は聞いてみないとわからないが、矢野がうまくセッティングしたに違いない。
これで、ヒロイン亜美と、ヒーロー晴彦の距離がグンと近くなるはずだ。
――黒沢君には悪いけど、やっぱり、本来、条件1が、一番、王道よね。
ぼんやりとそう思って、黒沢に視線を向けると、うっかり目があってしまった。
「……決まった?」
黒沢の言葉に、私は、今、何をしていたかを思い出した。文化祭で発表するパネルを何にするかを話し合っていたのだった。
「えっと。やっぱり、関ヶ原じゃないっすか?」
超テキトーに発言する。
「関ヶ原?」
部員Aが、聞き返す。やばい。理由をなんか言わないとイケナイ空気だ。
「知名度ナンバーワンじゃないですか。その、戦場にもドラマが多いですし」
「なるほどねー、知名度高いのも大事かなあ」
部員Bが頷いている。
「俺は、桶狭間の戦いがいいけどなあ」
「えー、やっぱりさあ賤ヶ岳じゃねえ?」
それも、結構メジャーだと思うし。どうでも良いと思い、私は舌戦から身を引く。
「んー、俺も、関ヶ原がいいなあ」
山岸がニコッと笑う。
「そうだねえ、天木さんがそう言うのなら」
黒沢がそう締める。やはり、部に女一人というのは、目立つ。しかも発言権が大きいらしい。
――うわっ、私、王道クラッシュしてないよね? 大丈夫だよね?
私は、思わず頭を抱え、窓の外を眺めた。
相合傘をしたヒロインたちの後姿は、もう見えなくなっていた。
私が、王道を見失いつつあったりして…
なんだか「王道クラッシュ」している自覚がある…