前編
暇を持て余している。降って湧いた幸運が、こんなにも退屈を生むとは思わなかった。
自由時間とは意外に自由ではない。人間は自由にやってくれと言われると、本来は数多あるはずの選択肢の中から一つを選択しなければならない。そして個別の選択肢をメリットデメリットで天秤にかけると、現実的な案など数えるほどしかないからだ。まさか学校の授業担当者がインフルエンザで休んだからといって、教室で大砲をぶっ放す奴などいないだろう。
4限の開始時間を少し過ぎた頃、担任の牧田がクラスに入ってきた。この時間に行われるはずだった社会を担当するのは、男子学生に絶大な人気を誇る平沼女史だ。俺も少なからず彼女の信奉者なのだから間違いない。時間割など把握していない俺でも覚えていることだ。断じて牧田のような鍛えに鍛えぬいた鋼の肉体を持つ野獣ではない。押しに弱い平沼女史の来訪を想像していた我々にとっては、恐ろしいまでの不意打ちにほかならなかった。
嵐のように去って行った牧田の口が告げたのは、平沼女史からインフルエンザの診断結果が出たという報告だった。予定を変更して4限は自由時間になるとのことだ。
「節度を守って過ごすように」
口癖らしいお決まりの台詞を残した牧田の後姿を見送る。ガラガラと立てつけの悪くなった引き戸が閉められる。磨りガラス越しなので牧田はシルエットでしか見えない。
俺はその姿に唐突な違和感を覚えた。なぜだろうか。
牧田のことを考えるのは、自由時間にするべきではないだろう。というか、いつだって奴のことを思い描けば鉄拳のイメージがついてまわる。徒にトラウマ候補の記憶を掘り起こしたくなどない。まさか読書感想文の内容にケチをつけられるとは夢にも思わなかった。自分では手抜きをしたなど思っていない。たまたま読んだ小説の登場人物と同じ題材にしただけだ。動機は不純であったが、拳骨を食らうほどかと問われれば否と答えるだろう。
さて、では何をするか。確か5限の数学には宿題が出ていたな。朝のホームルームで、数学担当の大柳本人が説明を加えていったので覚えている。しかし正直に言って、あの課題に意味があるとは思えない。ひたすら教科書の例題に出てくる数字を書き換えるだけだ。まだ理解できない難しい公式は出ていないので、やる気の有無ではなく必要性を感じない。大体大柳は定年間近の古株教師で、生徒が宿題をまともにやってこないと熟知している。頑張る生徒をより応援し、堕落する生徒には特になにもしないのだ。牧田のように補習を課して、人格矯正の儀式を執り行ったりはしない。
しかし数学以外にやれることが思い浮かばない。
仕方なく俺は机に肘をつき、惰眠を貪ることにした。仕方なくだ。今の俺にできるのは、これくらいのものだろう。冬の寒さは今日も厳しいが、教室に設置された暖房器具は問題なく稼働している。昼食前ゆえに空腹感のせいで少し手間取ったが、俺の優秀な睡魔はすぐに仕事を始めた。
やはり机で寝ても浅い睡眠しかとれないな。時間にして精々15分くらいか。授業時間丸々眠れた経験など皆無だ。まあ運動部でもない俺が体力回復に努めないといけない理由もなし、むしろ勉強くらい頑張らなければダメなのか。でもなあ、頑張ればできるという言葉は、そいつが頑張れる優秀な人物だったならの話だ。やればできるのではなく、やらないからできない。俺には努力する力が足りない、充電が済んでいないのだろう。何が必要かと言われれば、やはり十分な休息をとることだ。
益体もない言い訳を考えていると、教室後方から小さな言い争いが聞こえてきた。他のクラスに配慮して小声で話しているのだろうが、せっかくの自由時間にケンカとは物好きな奴らだ。ひょっとすると俺が起きたのもあいつらが原因かもしれない。もう少し眠れていたら勉強を頑張れたのに。ああ残念だ。
「みやじまー、起きたんならこっちきてー」
後方から間延びした声が聞こえる。同級生だから当然だが、聞き覚えのある猫撫で声だ。そしてまずい。奴が猫撫で声を出すのは、大抵厄介な問題を誰かに押し付けるときなのだ。俺は二度寝の姿勢に入る。ちょうどもう一眠りしようと思っていたところだ。首を軽く鳴らしてから再び机に伏せた。
「来いっつーの」
女子に首根っこを掴んで運ばれる系男子中学生。無様だ。しかし逆らうのも時間と体力の無駄になるか。どうせ無理やり連行するつもりのようだしな。無抵抗で運ばれているのは、決して相手がクラス内のヒエラルキー上位者だからというわけではない。俺は保身のためにプライドを捨てたりはしない。絶対にだ。
「平沼先生のお見舞いに行こうかと思って」
強制連行の犯人、古畑実夏は自分の椅子にふんぞり返っている。実に偉そうだ。取り巻きに男女入り混じって10人ほどとは、相変わらず女王様然とした佇まいだな。本当に中学2年生かと疑問を呈したくなるが、クラスでの立ち位置の関係から手を出すのはやめておこう。俺が平和主義者を掲げている以上、わざわざ藪をつつく必要はないだろう。
「勝手に行けばいい」
しまった、別のことを言おうと思ったらつい本音が漏れた。すぐさま取り巻きの中から、ヒステリックで定評のある女子が厳しい視線を向けて睨んでくる。
「それがちょっと揉めててね」
しかし古畑が気にせず会話を続けたので、なんとか事なきを得た。
ところでお見舞いで揉めるとはどんな状況だ?