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「お先に失礼します。」
6時半を少し過ぎた頃、荷物をまとめて帰ろうとしたらエレベーターホールで円は後ろから声をかけられた。
「あ、木元さんもう帰る? ちょっと待ってて、片付けるから一緒に出よう。」
さらりとそんなことを言ってきたのは、この間異動でやってきた藤代隼人だった。
「え? 藤代さん、まだ仕事あるんじゃ・・・。」
藤代はギクッとした表情を隠さず見せて笑った。
「あと数時間残っても明日の朝の大勢に影響なし。 ・・・メシ、つきあってよ。」
最後は小声で言われたので円は少し赤い顔をして俯いた。
「ああ、そうは言っても片付けてメール一本打ってたら20分はかかる。 電話するからどこか入って待っててくれる? ・・・あ、もしかして何か用事あった?」
そこまできてやっと円の予定を聞いてきた藤代に向かって円は吹きだした。
・・・ホントに憎めない人・・・。
円は笑った。
「帰りに便利だからS駅に行ってます。 連絡くださいね。 お先に失礼します。」
誰が聞いているわけでもないのに挨拶は大声ですると、吹きだした藤代を置いて円は事務所を出た。
・・・藤代さんが来てもうすぐ3か月。
歓迎会から2か月半。
こうやってたまに食事をするようになって2か月。
キスして、一緒のお布団にくるまって寝てから2か月。
・・・その間、特に進展なし・・・代わりに、同期の伊藤明音から藤代さんが好きだと相談されたのがこの月曜日・・・。
はーっとため息をつくと、円は駅に向かった。
「お疲れ、木元さん。」
「・・・どこが20分ですか!」
たっぷり1時間以上待たされた円はさすがにうんざりした顔で飄々とカフェに入って来た藤代を睨む。
藤代は悪びれた様子もあまり見せず、それどころか薄くなったカフェオレを円の前から一気に横取りした。
「ごめん、ごめん、新田さんと大江さんに捕まって。 お詫びにご馳走するよ、何が食べたい? フレンチのフルコースでもどんと来い!」
円がじろっと藤代を見上げた。
「今からフルコースなんて、終わるの何時よ! ・・・近くに美味しいビストロがあるの、そこでどうですか?」
『一人暮らしでいつも晩御飯が冴えないから、外食は美味しいものを食べたい』と言った藤代のセリフを忠実に守り、円は毎回趣向を変えて店を提案している。
藤代はニコッと笑った。
「お、木元さん推薦のビストロなんて興味ありまくり。 行こうか。」
軽く腰に手を当ててエスコートしてくれるかのように藤代が円と並んで歩き出す。
また明音の顔が浮かんで、円は俯いた。
藤代と円の対面は9月の人事異動で藤代が円の部署にやってきたのが始まりだった。
円は家電メーカーの研究開発の仕事をしており、商品化につながる開発をする、いわば花形の部門に配属されていた。
工学部卒の円には願ってもない職場で毎日楽しくやっていた。
別の部門でやり手と噂されていた藤代は、見た目はやり手とは思えない優男だったが、一緒に仕事をし始めるとすぐにその噂に納得した。
判断力に優れているのか、仕事が早い。
上からの指示を実にわかりやすく下へ振り分ける。
自分の仕事のみならず下についたスタッフの仕事も把握している。
マネージャーとしては当然のスキルだが、雑務に追われておろそかになりがちな中、仕事も大量に抱えながらも下で働くスタッフのことを大事にしてくれる姿に皆がその能力を認めた。
最初は円も一緒に働く同期の明音も大して興味はもっていなかった。
「見た目ぼーっとしてんのに仕事すごいね。」
二人で行った居酒屋で早速藤代をさかなに飲む。
「早速上への報告会で予算の増額取り付けたらしいよ? あのケチ役員たちからどうやってせしめたのか、って、うちのリーダーびっくりしてた。」
明音もビールを空けながらそれでも褒める。
「バツイチっていうから仕事に明け暮れてたかと思ったら、昔から毎日8時には帰るんだって。 うちの会社では早い方じゃない? なんで別れたのかな、坊やもいるのにね。」
明音のセリフに思わず円がのけぞる。
「よく知ってるね!」
明音が笑った。
「藤代さんの部署の人たちから聞いた。 ヤニラーネットワーク、なめんな!」
喫煙者の明音は喫煙所で色々と藤代のことを聞いてきたらしかった。
「人事異動もなぜかヤニラーネットの方が早いもんね。」
笑いながら円もジョッキを傾ける。
明音がタバコの話で思い出したかのようにカバンからタバコを取り出して火を点けた。
「円、来週の歓迎会行くよね?」
「行くよ。 なんかちょっと興味あるなあ、しゃべりかけてみよう、っと。」
その頃はその程度のものだった。
次の週の藤代の歓迎会の日は、みんなで移動しようとしたら円宛に電話がかかってきたので円は後から行くことにした。
結局急いで資料が欲しいと言われ、30分ほど遅れて会場へ走り込む。
「遅れました、お疲れ様です!」
息を切らして座敷へ上がると、主役の藤代が手を振った。
「木元さん、お疲れ! ここしか席ないんだ。」
藤代は自分の右隣りをさして、ニコッと笑った。
「え?」
座敷の入り口で円は思わず固まった。




