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父親に久しぶりに頭を撫でてもらって号泣した陽菜は、時間が経って落ち着くとさすがに恥ずかしくなってきて、そっと体をずらして父親の手からはずれた。
そのままソファにもたれてしばらく呼吸を整えていたら、また全く空気を読んでいないかのような声で母親が言った。
「陽菜ちゃん、明日はお店なくってよかったね。 そんな泣いたらきっと目が腫れて大変なことになるよ。」
陽菜は母のセリフに思わず吹きだして笑った。
「お母さん、ほかにセリフないの!」
陽菜の涙声に父親が視線を泳がせたが、母親は一瞬黙ったあとで続けた。
「で? あなたたち、どうして今夜は急に素直になったの? もっと早くにこういう夜を迎えてもおかしくなかったと思うの。 お母さん、これでも頑張って我慢したわ。 一度こじれたら折れどころがわからないところなんて、本当に親子ね。 本当は、お母さんがアレンジする前にこうなってほしかったわ。」
普通に見えていたが、母親はどうやらお酒の力を借りてこのセリフを絞り出したようで、少し赤い頬に潤んだ目で二人を見ながらそう言った。
「・・・ごめんなさい・・・。」
陽菜がまた小声で俯くと、父親がポンッと頭を叩いた。
「前にお父さんと亮一がもめた時、怖かったの・・・。 もうあの姿を見たくないと思ったら、どうしても一歩が出なかった。 亮一には、お父さんはこじらせたらややこしいからもうちょっと待って、って言って。 お父さんには亮一のことをきちんと紹介や話をする時間を作らないまま話を聞いて、って一方的だった。 ・・・いやだったんだもん、二人がケンカになるの・・・。 でも、お母さんの言葉で目が覚めた。 お父さんが話聞かないから悪い、って、どこかで思ってた。 ・・・そうじゃなかった。 きちんと向き合わない、私が一番悪かった。 一番の当事者なのに他人事のようにやりすごしてた私が悪いって、初めて気づいた。 ごめんなさい。」
もう、心は軽くなっていた。
父親も苦笑いをした。
「・・・大事な陽菜と婚前に同棲だなんて、そりゃ、頭に血も上るだろうが・・・。」
その前に仕事を辞めることや店を一緒にすることに反対したことは全く棚に上げてそう言うと、母親がくすっと笑い、父親はさらに気まずそうに苦笑いした。
「・・・明日はまだ会わない。 でも、来週以降、亮一くんをここに連れておいで。 ちゃんと陽菜が自分の彼氏を親に紹介するところから始めよう。 いいね?」
・・・お父さんの精一杯の譲歩だ。
陽菜はそんな父親がとても愛しく思えた。
「はい。 亮一と時間決めてまた連絡します。」
陽菜のセリフを聞くと、それまで余裕を見せていた母親がグラスをテーブルに置いたかと思うと、フーッとソファに身を沈めて、陽菜も父親もびっくりした。
「ちょっと、お母さん!」
母親は泣き笑いの顔で目を閉じて言った。
「もう、本当にお父さんと陽菜は! 二人ともいいトシなんだから、こんなことでお母さんの神経すり減らさないで! 陽菜! 本当に好きなんだったら、彼氏の紹介くらいきちんとしなさい! それから、お父さん! いいトシした娘の真剣な話は正面から受け止めなさい! もう・・・ほんとに・・・もうっ!」
閉じた母親の目元から一筋涙がこぼれた。
父親がそっとティッシュを取って母親の顔にかぶせて、陽菜はそれをみて泣きながら笑った。
「縁起悪いよ、お父さん!」
「まだ生きてます!」
母親はそのティッシュでぎゅっと目を押さえると大笑いした。
「・・・陽菜、お風呂行っておいで。」
唐突な母親のセリフに一瞬固まった陽菜だけれど、きっとこの後夫婦で何か話をしたいんだろう、と察して黙って自分のグラスを下げると浴室に向かった。
陽菜が浴室に入るのを待てずに母親がむせび泣く声がかすかに聞こえて、陽菜はそのまま浴室で何度も顔を洗って涙を洗い流した。
お風呂から上がってリビングに入ると、母親がソファに横たわっており布団までかけてもらっている。
ダイニングに座っていた父親が小声で笑った。
「お母さん、気が抜けたら酔いが回ったらしい。 しばらくこうしておこう。」
陽菜は背もたれの方を向いて寝ている母親の姿を見て、また涙が出そうになったけれど、ふと思いついて父親に笑いかけた。
「紅茶いれるね。 私、資格持ってるし、上手に入れられるよ。」
「ああ、仕事の合間に通ってたね。」
紅茶好きが高じて取った資格がここにきて生きてくるとは考えてもみなかった。
・・・毎日お客さんには紅茶入れてるのに。
お父さんのためにお茶いれるの、何年ぶりだろう・・・。
陽菜はまた涙が浮かびそうになったが、ぐっと歯を食いしばるとやかんに勢いよく水を入れた。




