-9-
リビングでしゃくりあげる陽菜の近くへ、濡れた髪をタオルで拭きながら父親がリビングに入ってきた。
そのまま黙って陽菜と母の間に座ると、父親は頭を拭き続けた。
陽菜も言葉が出ず、沈黙がリビングを支配する。
すると母親が突然立ち上がり、陽菜も父親も露骨にびくっと肩を震わせたが、母親は黙ってもう一本赤ワインを持って来るとソムリエナイフで器用にコルクを抜いた。
そのまま自分のグラスにワインを注ぐと、母親はどちらにともなく声をかける。
「飲む?」
この場にまったくそぐわないセリフを穏やかに吐くと、父親が立ち上がって自分のグラスを持ってきた。
「・・・もらおうかな。」
母は陽菜が泣いていることなど気にしない様子で自分と父親にワインを注ぐと、またひと口含んだ。
「陽菜。」
口を湿らせた父親が低い声で陽菜を呼んで、陽菜はしゃくりあげながらも顔をあげる。
怒っているのかと思ったら、そこにいたのは風呂上がりの無防備な体制で不安そうに娘を見つめる、一人の父親の姿だった。
陽菜の名前を呼んだもののその先を続けるわけでもなく、また父親が黙り込んだ姿に母親が何かを言おうとしたとき、陽菜が口を開いた。
「おとう・・・さん。 これまで・・・逃げて・・・ばかりで・・・ごめんなさい・・・。 私、亮一・・・亮一のことが、だい・・・大好き。 お店を・・・持つってことは・・・これまでかん・・・考えた・・・こともな・・・なかったけどっ・・・。 亮一がバーをする・・・って言った時、自然と自分の・・・自分が・・・カフェを運営・・・する姿・・・浮かんだの・・・。 仕事辞めたことも・・・後悔してない・・・。 今、休みが・・・少ないこと・・・あるけど、前より・・・毎日家に・・・帰れてる・・・。 お父さん、私、亮一と・・・ソレイユ・・・頑張って・・・したい・・・。 認めて・・・ください・・・私の好きな人の・・・こと・・・。 私たち・・・の小さなお店・・・のこと・・・。 自分で決めた・・・ことだから・・・この一年、苦労なんて・・・したと・・・思ったこともない・・・お父さん・・・お願い・・・します・・・。」
・・・どうして、このことが素直に言えなかったんだろう。
泣きながらもなんとか自分の口で紡いだセリフを反芻しながら、陽菜は心がフッと軽くなったことを実感した。
・・・どうして、これをお父さんに伝えようと思わなかったんだろう。
どうして、これだけのことを言うのに一年もかけてしまったんだろう・・・。
一度言葉にしてしまうと、あまりに自分が情けなくて別の意味での涙が頬を伝う。
それと同時に、父親と母親に対する素直な感情が込み上げてきて、陽菜はまた声を出して泣いた。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい! ごめんなさい! っく・・・ごめ・・・んなさい!」
ずっとフローリングを睨んでいた父親がグイッとグラスを空けると、目を細めて笑った。
「陽菜はいつの間にこんなに大きくなったかなあ!」
それは三十路の娘にかけるには少し的外れなセリフだったので、母親が遠慮なく吹きだしてカラカラと笑った。
「やだ、陽菜ももうアラサーって年齢なのに、何、そのセリフ! それって、成人式とかで振袖姿の娘見て呟くセリフでしょう! 陽菜は30だよ、30!」
あまりに年齢を連呼するので、泣きながら陽菜も突っ込む。
「お母・・・さん! 30、30・・・言わないで!」
女性二人の会話を、また目を細めて見ていた父がそっと手を伸ばして陽菜の頭を撫でた。
「・・・お父さんも大人げなかったね・・・ごめん。 毎回、これじゃいけないって思ってたし、あまりに子供じみた逃げ方をしているのもわかってたけど、お父さんは昔から折れどころがわからない。」
母親はそっと赤ワインをグラスに注ぐ。
「陽菜が小さい頃から、陽菜が幸せに暮らしていけるように、可愛いお嫁さんになって可愛い孫を連れてこの家に帰ってきますように、って。 そう思っていたよ。 ・・・前に言ったけど、飲食業は不安定だよ・・・景気のあおりを真っ先に受けるし、このネット社会ではちょっとしたことで顧客を失うこともある。 いい人ばかりじゃない世の中で夜のお店をするっていうのは、今でもお父さんは心配だよ。 陽菜の気持ちも亮一くんの気持ちも全く無視すると、そこそこの企業でのんびり事務職の仕事して、仕事のあとは充実して遊んだらいいじゃないか、って思う。 お父さんは、可愛い子には旅なんて無理、させられない・・・陽菜はたった一人の、お父さんとお母さんの可愛い娘なんだ。 ただ、心配だっただよ。」
そう言うと父親はもう一度陽菜の頭を撫でた。
「・・・陽菜を信じて応援するよ・・・これまで悪かった。」
「おとうさあん!」
陽菜は父親に飛びついて、そのまままた声を上げて泣いた。




