王子様を作り上げるのは
坂井千花の朝は早い。
六時に起床すると顔を洗ってパジャマから高校の制服のシャツとスカートに着替え、癖のない黒髪をサッと櫛でとかして服の上からエプロンをすると、自室のある離れから本宅へ移動、ある一室に向かう。
目的のドアをノックして返事も待たずに部屋に入る。部屋の主がまだ寝ている事が分かっているからだ。
ベッドの中で夢の世界の住人となっている一宮和成へと向かいながら声を掛ける。
「和成くーん?あーさーでーすーよー!」
上掛けから覗く金髪。日本人の父とアメリカ人の母から生まれたハーフで一宮家の一人息子の和成は母方の血が顕著に現れた。
「朝、朝、あーさ!おーきーてー!」
リズムを取りながら肩を掴んでユサユサ揺らす。少々の事では起きてくれないのだ。
「……う、うーん…」
うっすらと開いた青空を思わせる色の目がまた閉じる前に彼の腕を引っ張る。
「はい。起きて、起きてー」
無理矢理起こして洗面所まで連れて行き、洗顔、無精髭を電気カミソリで落として化粧水をつけさせる。備え付けの椅子に座らせると、千花は彼の後ろに立って液状の整髪料を霧吹きしてドライヤーと櫛で丁寧に髪型を整えてゆく。その間に洗顔で少しは覚めた彼の目はドライヤーの心地好い熱でまたうとうととしていた。
それが終わるとまた和成の部屋に戻り、着替えるように言うと千花は台所へと向かった。
「お母さん、おはよー」
「お早う。はい、これ運んで」
千花の母、百花は一宮家で住み込みの家政婦をしている。
元々は通いの家政婦だったのだが、千花が小学生の頃に父と母が離婚をした。
母は一宮家の仕事を止めて心機一転するか、新しくアパートを探して仕事を続けるか悩んでいた。
それを相談された雇い主である一宮夫妻は「だったら、離れがあるし、住み込みなさい」と、千花共々受け入れてくれたのだ。一宮夫妻は共に仕事を持っており、家の事はどうしても疎かになってしまう。新しく家政婦を探すより、信頼している母の方が良かった様で有難い話だった。
出来上がっている朝食をテーブルに運び終わる頃に和成が来る。
「百花さん、千花、お早うございます…」
「お早うございます、和成君」
「おはよー、ほらご飯、ご飯」
まだ眠たそうな和成と共に千花も朝食を取る。朝食が終わったら眠気覚ましのコーヒーを出し、飲み終わったら歯磨き。
その後はそれぞれの部屋に戻ってネクタイを結び、上着のブレザーを着る。
「支度出来たー?」
千花が和成の部屋の戸をノックし、「入っていいよ」と返事があったので戸を開けた。
ようやく眠気の取れた和成は、サラサラの金髪と笑うとちょっとだけ垂れ目になる優しげな青い目で千花の方を向く。
皺一つないブレザーの制服をピシッと着こなして立つ姿は外国の王子様の様だった。
(まぁ、アメリカに王子はいないし、中身は普通の男の子だけどね)
「和成君、忘れ物はない?」
「うん、大丈夫」
チラリと机の上を見る。
「机の上のプリントは必要ない?」
「えっ?あ、宿題!」
和成が慌ててプリントを鞄に入れるのを千花は苦笑しながら見ていた。
「あ、ちょっとネクタイ曲がってるよ」
毎朝寝ぼけ眼の和成を王子様の様に仕立て上げるのは千花の日課だった。
「よし!じゃあ、学校行こっか」
和成の世話をやくのは昔からなので千花は何とも思っていない。だが、周りはそうもいかない様で。
「あなた、一宮家のお手伝いさんなんでしょ?…だったら立場を弁えたらどうなの?」
「……はあ」
千花は目の前に立つ女子生徒の言葉にうんざりした気分で曖昧な返事をした。
和成を王子様にする弊害。
元がいいから何もしなくてももてるだろうが、千花がフォローする事により魅力を増した和成は女子達に人気があった。
(手伝いといえば手伝いだけど、あたしが一宮家に雇われている訳じゃないし、お母さんの手伝いだし)
千花は母の仕事のほんの少しの手伝いをしているだけで、一宮家から給金を貰っている訳ではない。雇われている訳ではないのだ。
だが、和成に好意を抱く女子達は千花が彼の一番近くにいるという事が許せず、五月蝿い言葉を吐き出す。
使用人の娘は使用人。どこかの古臭い言葉で千花を貶めようとする。
「なのに、お昼を一宮君と一緒にするなんて…」
(あーもー、めんどくさーい!)
呼び出される度に毎回似たり寄ったりの嫌み。いつもは受け入れない理不尽もこの日三度目ともなると我慢の限界だった。
「分かりました」
「…えっ?」
「和成君に近付かなければいいんですね?では、なるべくそうします」
「…分かればいいのよ」
拍子抜けした様に女子生徒は去っていった。
「ただいま〜」
一宮邸に帰ってきて自分の部屋で普段着に着替えてから椅子に座って考える。
「正直、手伝う事でお小遣い多めに貰えているのに…」
でも、高校生にもなって寝ている男子の部屋に入り込むというのは、やはり不味いかなと考える。それに嫌みはもうたくさんだ。
「……アルバイトするか」
幸い千花の通う高校はアルバイトする事は禁止していない。
「お母さーん」
部屋から出て台所で夕飯の支度をしている母に声を掛ける。
「お帰りなさい、千花」
「うん、ただいま。ねぇ、お母さん?あたしアルバイトしたいんだけど…」
「えっ?アルバイト?お小遣い足りないの?」
「自立するためです!」
(あたしじゃなくって、和成君がね!)
「それでね?あたし、和成君を毎朝起こしているでしょ。それ止めようと思うんだけど。もう高校生なんだし」
「そうねぇ…私だけでは決められないから旦那様達にも相談しないと」
という事で、一宮夫妻が帰ってきた後、全員で会議となった。
千花が先に述べた理由を言うと一宮夫妻からは反対の声は上がらなかった。
「そうね、いつまでも一人で起きられないなんて…」
「和成、これからは自分でしっかりやれ」
両親からそう言われ、一人反対する事など和成には出来なかった。
「じゃあ、明日からは自分の力で起きてね?」
千花は自分の目覚まし時計を和成に差し入れして激励した。
「…俺が寝起きが悪い事を知っているだろう」
和成が恨みがましい目で見るが、もう決まった事だ。
「だから、目覚まし時計貸してあげるし、スマホのアラームのかけ方教えたじゃない」
「……それに身支度の最終チェックは?」
「鏡があるでしょ?あと、あたしアルバイト探すから暫く一人で行動するからー」
「……はぁ。分かった…」
観念した和成は溜め息を吐いた。
次の日の朝、いつもより少し遅めに起きた千花は本宅に朝御飯を食べに向かった。台所で母に挨拶して朝食を貰い、ダイニングに移動する。
千花が朝食を食べている間に和成はやって来なかった。
「和成君、起きてこないわねぇ…」
母が心配そうに聞く。
「まぁ、始めは仕方ないよ」
千花は一人でいつも通りの時間に登校して教室に入った。
「おはよー」
先に教室にいた人達も返事を返す。
「おはよう」
「おはよー」
「おは…あれ?一宮君は?」
いつも一緒に登校してくる筈の和成がいない事に女子生徒が直ぐに気付く。
「ああ、今日から別々に登校する事になったの」
「えっ?何?喧嘩でもしたの?」
驚いて聞いてくるクラスメイトの女子の目は心配というよりは期待の色をしていた。
「…違うよ。まぁ色々とね。後から来るから心配しなくても大丈夫だよ」
――しかし、和成はホームルームの時間になっても来ず、担任が聞いても千花は「分かりません」としか答えなかった。
その和成が姿を現したのはホームルームが終わる直前だった。
「…すみません。遅刻しました」
後ろの引き戸から申し訳なさそうに入ってきた和成に千花以外の教室にいた全員が唖然とした。
いつもサラサラの髪はアチコチはねまくり、ブレザーの釦はとめられず、シャツから下がるネクタイは曲がって結ばれている。
呆気にとられて静かになった教室に和成の腹の音が響いた。
我に返った担任が聞く。
「一宮…?一体どうした?」
「すみません…寝坊をしてしまって」
「寝坊?」
「はい」
和成は恥ずかしそうに俯いた。いつもの姿なら女子達が胸をときめかせる動作も、今の魅力は半減以上だった。
一番近くで和成を見ていた女子はその口元からうっすらと白い線が走っているのを見た。
(涎のあと…)
どうやら顔も洗わず、急いで登校してきたらしい。よく見れば無精髭もある。
(ないわー…)
彼女の中の夢が覚める音がする。目覚まし音は和成の腹の音だった。
和成の遅刻はその後も続いた。
毎朝ホームルームの時間中、時には一時限目の授業中にヨレヨレの姿で申し訳なさそうに教室に入ってくる。そして朝食を食べずに来るから腹の音が響きまくる。
その姿を見て王子様幻想をする人は激減したが、逆に「助けてあげたい」と庇護欲が湧いた人もいる様で。
乱れた髪や服装を整えてあげたり、ちょっと摘まめるチョコレートやクッキー、キャンディを差し出したりする子が現れる。
「私が毎朝モーニングコールしましょうか?」と、積極的に言う女子もいた。
千花はそれを横目にスマートフォンやフリーペーパーで求人案内を見ていた。
千花が和成から距離をおいた事でその後釜を狙うように女子達は彼に群がった。
――だが、朝に彼のスマートフォンにいくら電話を掛けても一向に応答がない。挙げ句にはコール中に切られる始末。登校してきた和成に電話の事を尋ねると、「ご免。全く聞こえなかった」と言われる。
朝っぱらから何度も電話を掛けた事で親に怒られたと女子は愚痴っていた。
和成の乱れた髪を整えようと櫛を取り出して彼の髪をいじる女子には「爪が痛い」、「自分でやるから」と逃げ出し、お菓子を差し出す女子には「腹は減ってるけど、朝っぱらから甘いものは…」、「自分で持ってきたから」と断られる。
毎朝登校はしてくるが、毎朝ヨレヨレの姿。
以前の彼との差と世話のしがいのなさに次第に女子達は一人、二人と離れていった。
――代わりに女子達は千花に詰め寄った。
「一宮君をどうにかして!」
「……え〜?」
「毎朝毎朝、ヨレヨレの姿にお腹の音…もう嫌なのよ」
目の前にいる女子達は千花が和成の傍にいる事に反感を抱いていた。
千花はストレートに聞いた。
「みんな、あたしが和成君の傍にいるの嫌がってたじゃないの」
「それは…そうだったけど。もういいのよ」
「…いいって?」
「彼は観賞用。見ているだけでいいの。だから前の彼に戻して!」
女子達が「そうそう」と頷く。
「ええ〜…」
そんな事を言われても、アルバイトで受けた喫茶店は採用されたばかりで直ぐに辞めるなんて出来ない。和成に割く時間が無くなり、余裕があるから働く事にしたのに。
女子達は大きく溜め息を吐いた。
「だって…彼は毎朝あれでしょう?お世話して気付いたのよ。…もし、彼と恋人になってデートの約束をしたけど…やって来ない彼。……それでもお付き合いを続けて、もしも結婚したら?…毎朝彼を起こすのに苦労する自分…」
苦々しい顔をする女子達。
「それに、世話をする事で他の人達から新しい召し使い呼ばわりされるし…」
「なのに彼に近付くどころか世話をやこうとすると顔がひきつってゆくし…」
女子達は彼に近付こうと躍起になった結果、彼にドン引きされたらしい。
望みの無い恋心は冷めていった様だった。
(あたしは、どうしたらいいの?)
千花は心の中で呟いた。
夕食を終えた後、千花は和成の部屋を久しぶりに訪れた。
「ねぇ和成君。あたし、明日の朝からまた起こそうか?」
「……本当か?」
「行き成り一人で起きろっていうのも無茶ぶりだったかな〜ってね」
和成が安堵の笑顔を見せる。
「よかった…。俺、やっぱり千花じゃないと起きられないみたいで困ってたんだ」
「まぁ、電話でモーニングコールくらいじゃ無理っぽそうだったもんね」
「うん、他のやつじゃ駄目だ。…朝にスマホに誰かから電話掛かってきても、こいつじゃないって思って…起きられなかった」
和成の言い回しに千花は首を傾げた。
「……うん?…目は覚めてたの?」
「うん。…コールが鳴ってるの気付いてもさ、出る気にならなくて…その内、千花が来ないかなって待ってたらそのまま寝ちゃって…」
「……何、それ?」
「俺を起こすのは千花がいい。これからもずっと千花に起こされたい」
「……そんな事言われても、あたし一宮家で働くつもりはないよ?」
「そうじゃなくて!…千花は俺の事どう思ってる?」
「どうって…?」
千花の顔に困惑の色が浮かぶ。
「千花…俺と、結婚を前提に付き合ってくれないか?」
高校生らしからぬ台詞に千花は自分の耳を疑った。
「……は?今、何て言ったの?」
「俺と付き合ってほしい」
「な…何?何でそうなるの?」
「さっきも言った。千花にずっと起こされたいって。一生傍にいてほしいって事だよ」
「え〜…っと、……和成君、あたしの事…好きなの?」
「……好きだよ」
「だって…あたし、使用人の娘なのに…」
「は?何それ?いつも千花はそんなの関係ないって自分で言ってるだろ」
千花は唇をギュッと噛み締めて俯いた。
「千花?」
「人に言われるのと、自分でそう考えるのとじゃ大違いなのよっ!」
叫んだ後、千花はポロポロと泣き出した。
「わっ!?何で泣くんだ?」
「だって…皆が、ずるいって…、…立場を…弁えろって…」
千花は零れる涙を手の甲で拭い続ける。
ずっと胸の内に隠れていた気持ちが涙と一緒に溢れてくる。
――小学生の頃は遠慮なんてない只の友達の関係で良かった。
けれど、中学生から高校生へと異性に興味を持つ年頃になると和成に好意を寄せる女子達は千花を目の敵にした。
『立場を利用して傍にいるなんてずるい』
『彼は使用人の娘なんて相手にしないわよ』
『身の程を弁えたら?』
言われる度に跳ね返してきたが、それでも心の奥底に降り積もり和成に対する気持ちを見えなくさせた。
「千花…俺の事、好きか?」
先程、千花が問い掛けた言葉を今度は和成が問う。
泣き顔の千花が顔を上げて和成を見た。
「……好きだよ」
そっくり同じ言葉が返ってきた和成は更に問う。
「毎朝、俺の事起こしてくれる?明日も、明後日も…それから先も毎日、ずっと一緒にいてくれる?」
「…うん」
「ははっ!やった!」
和成が千花を抱きしめて笑う。
千花は和成の腕の中で今度は嬉し涙を流した。
「ちょっとリビングの方に行こうか?」
千花が泣き止んだのを見計らって和成が言う。
「…うん?……うん」
和成に手を引かれてリビングに行けば、和成の両親と千花の母が長椅子で寛いでいた。
「父さん母さん、百花さん、俺と千花は付き合う事になったから」
和成の宣言にリビングにいた三人は呆気にとられた顔をした。
「「まだ付き合ってなかったの!?」」
「……とっくの昔に付き合っていたと思っていたぞ」
すでに親公認の仲だったらしい。
千花と和成の関係は告白の日から変わった。
だが、朝になれば――、
「和成くーん!おっきなさーい!」
前と変わらずに今日も千花は和成を起こすのだ。