海辺の夜
そこは、別荘とはいえとても大きかった。
いつか遠足で行った、神戸の異人館のような建物だが、もっと大きくしたような形だった。そこへ招き入れられて、美月はわくわくした。侍女が、ここにも何人か居るが、屋敷の方ほどではなくてとても落ち着いている。イサヤは、やっとの手を取って指差した。
「あの向こうの方向に、オレの国はある。今日は、お前に向こうの生活がどんなものか教えようと思ってな。」振り返ると、侍女達が着物を持って立っている。「あれに着替えろ。オレも、向こうの服装に換えるから。」
イサヤが出て行って、美月は侍女達に手伝われて、その着物に手を通した。中には白い襦袢のようなものを着て、外に豪華な刺繍を施されて、きれいに染められた打ち掛けを着せ掛けられた。髪は結い上げられて、簪や額飾りを付けられる。化粧をされると、まるで自分ではないようだった。
でも、遥か北の国なのに、着物…?
着替え終わって、美月が不思議に思っていると、イサヤが同じような着物姿で入って来た。
「美月…」
イサヤは、言葉を失って、ただじっと美月を見ていた。美月はイサヤがとても着物が似合うのに見とれていたが、あまりにイサヤが何も言わずに自分を見るので、気恥ずかしくて下を向いた。
「イサヤ…そんなに見たら、恥ずかしいわ。でも、イサヤ、とっても似合ってる。それが本来の姿って感じ。」
イサヤはハッとしたように、美月の手を取った。
「ああ…向こうではいつもこんな感じだからな。」と、美月を引き寄せた。「お前もとても似合っている。ここまでとは思わなかった。」
美月はさらに恥ずかしくなって、赤くなった。
「おかしくない?着物なんて、七五三の時以来よ。」
イサヤは笑った。
「ああ、覚えているぞ。七歳の時だったな。あれはあれで似合っていたと思う。ただ、オレ達の着物とは少し違ったがな。」
確かにそうだと美月は思った。こちらはどちらかと言うと、平安時代辺りの物に似ている。上の袿は、羽織っているだけなのだ。
「こうして、上の袿だけ替えるの?」
イサヤは頷いた。
「普段はな。公式の場などに出る時は、何枚も重ねて前を細い帯で縛る。だが重いぞ?母上がいつも文句を言っているのを聞いていたから知ってるがな。」
美月は想像して、身震いした。イサヤと結婚したら、王妃になるから美奈さんと同じなんだ…。
イサヤは、続けた。
「母上は、父上の一番最後の妃で、正妃になったんだ。父上には子が出来なくて、オレが最初で他には居ない。他の妃にも、子は出来なかった。」
美月は驚いてイサヤを見た。他の妃?
「え…もしかして、一夫多妻制?」
イサヤは頷いた。
「そうだ。だが、オレはお前しか要らない。そう父上にも言ってある。だから心配しなくてもいい。」
美月は頷いたが、複雑な気持ちだった。でも王ともなったら、そうも行かなかったりするんじゃないかな…よく分からないけど…。
美月の暗い表情を見て、イサヤは言った。
「何をそんなに沈むんだ。オレを信じろ、美月。」
美月はイサヤを見上げた。そうだ、イスリーク様のことを言っておかないと。
「イサヤ、私言っておかなきゃ。実はイスリーク様に小さい時に会ったことがあるの。イサヤが帰ってる時よ。まだ幼稚園だったと思う。」
イサヤは、表情を変えて海の方を見た。
「知っている。イスリークが言っていた。オレが日本に行っていると聞いて、どんな所か興味を持ったらしい。だから、オレが居ない時に見に来てたんだ。」
美月は下を向いた。
「それで…あの…私ね、思い出したのだけど、その時…」
イサヤは横を向いた。
「あいつの妃になると約した。」イサヤは言い放った。「そうだろう?」
美月は仕方なく頷いた。だって、そんな重いことだとは思わなかったのだもの。
「私、つくづく子供だったと思う。本当に何も考えていなかったのよ。その時そう思えば、うん、と答えていたのだと思うわ。確かに、イスリーク様のことも、お顔を見た時なんとなく覚えていたし、嫌いではないわ。でも、まだ再会したばかりだし、結婚とか言われても、私…イサヤと結婚するんだって思ってるから…。」
イサヤは、その言葉を聞いて驚いたように美月を見た。
「美月…いいのか?オレが王でも、お前はオレに嫁いでくれるのか?」
美月はイサヤに背を向けた。
「…だって、仕方ないでしょ?イサヤが好きなんだもの。でも、王様だって言うし…本当は、そんな地位って気が重いけど、でも、好きだから離れたくないし、我慢するしかないじゃない。」
美月は、後ろからイサヤに突然抱きしめられて、びっくりした。「ちゃ、ちょっとイサヤ?」
「よかった…」イサヤは、本当にホッとしたような声で言った。「お前は、イスリークと行ってしまうんじゃないかって、それは心配して…。あいつのほうが、約したのは先だったしな。」
美月はイサヤを見上げた。
「後先は関係ないわ。だって、私がはっきりそういうことが分かるようになってから約束したのは、イサヤでしょう?愛してるもの…本当に。」
イサヤは、柔らかく微笑んだ。
「美月…。」
イサヤの胸が背中に暖かくて、美月はイサヤに身を預けてそのまま抱かれていた。
イサヤは、国の話をしてくれた。使っている言語は日本語と英語、そして昔からその地で使われているランツ語という古代の言葉なのだという。そのランツ語は、もっぱら儀式の時にしか使わず、外交時には英語、普段は日本語なのだという。どうして着物といい、言語といい、習慣といい、日本と繋がっているのかは分からなかったが、嫁ぐにあたって、それは美月にとって心強かった。
そんな話をしていると、とても楽しくて時が経つのを忘れていたら、見る間に空が暗くなって来た。夕食の準備が進められる中、イサヤが緊張気味に美月の肩を抱いて、言った。
「なあ、今日はここに泊って行かないか…?」
美月はイサヤを見上げた。
「いいけど、明日は学校よ?いきなり出て来たから、教科書とか置いて来ちゃったし。」
「そうじゃねぇ。」イサヤは、普段から屋敷に泊らせているのを少し後悔した。「オレの部屋へ来いってことだ。」
美月は、その意味を悟って一気に耳まで真っ赤になった。それって…今夜…そういうこと?
「い、イサヤ…。」
美月は下を向いた。何の心の備えもしていなかった。いつも一緒に居るし、こうして二人で過ごすことにも慣れていたから。でも、昨夜のことを思うと、誰かとそんなことになる前に、イサヤにあげてしまった方がいいんじゃないだろうか。美月は、つくづく昨日何も無くて良かったと思った。初めては、イサヤがいいに決まってる…。
意を決して顔を上げると、イサヤが真剣にこちらを見ていた。美月は、言葉が出て来ず、ただ頷いた。
それを見たイサヤが、ホッとしたように美月を抱き寄せた。
「じゃあ今夜…待ってる。」
侍女が入って来て頭を下げた。
「お食事の準備が出来ましてございます。」
イサヤは頷いた。
「すぐに参る。」
歩いて行くイサヤの背中を見ながら、美月はドキドキするのを抑えられなかった。
別荘にある露天風呂に入って出て来ると、脱衣所には綺麗に畳んだ新しい襦袢が置かれてあった。袿は、軽いものに変わっていて、きっと寝る前に着るものなのだろうなと美月は思った。
少しもたつきながら着物に腕を通すと、美月はまた心臓が激しく拍動するのを感じた。どうしよう…イサヤの所に行くのが、なんだか怖いような、でも早く会いたいような…。
のろのろと歩いていると、前から同じような着物に身を包んだイサヤが歩いて来た。
「美月。よかった、あんまり遅いんでのぼせちまったかと思った。」
美月は、慌てて手を振った。
「大丈夫よ、ほら、元気。」
イサヤは微笑んだが、急に真面目な顔になった。
「じゃあ、行こう。」
差し出されたイサヤの手を取って、美月も更に緊張しながら、一緒にイサヤの部屋へと歩いて行った。
部屋に入ると、明かりが落とされて、薄暗かった。美月がためらっていると、イサヤが振り返って美月を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
「美月…。」
ベットに入ると、イサヤは美月の上の袿を脱がせて、自分もそれを脱いだ。寝る時は襦袢だけなんだなと美月は思った。
そして、イサヤは美月を上から見て口付けた。
「…ずっと待ってた。お前がオレのものになるのを。」
美月は頷いた。
「これからは、ずっと一緒…?」
イサヤは笑った。
「これからも、だろうが。」イサヤは、美月の頬を撫でた。「もう離れるんじゃねぇぞ。そしたら、オレが絶対に守ってやるから。」
美月はまた頷いた。
「うん。ずっと、傍に居るね。」
「愛している。」
イサヤは、また美月に口づけながら、美月の腰ひもを解いた。やっとこの時が来た…。
美月は、イサヤに愛されながら、潮騒の音を聞いていた。