お隣の男の子
有住美月は、母の美雪に手を引かれて、未就園児の教室から帰って来た。来年からは、そこの幼稚園に通うので、慣れるようにと母に連れられていたのだ。
美月は、小さいながら美しい顔立ちの娘だった。美雪は、自分にも似ている所はあるが、他の何かがあるような、どこか気品のある顔立ちで、いったいどの血がそうさせるのだろうかといつも思っていた。生まれた時に、左手にしっかりと握り締めて来たあの指輪は、なんだったのだろう。それに、何か関係あるのかも…。
美雪は、我が子ながらそんな不思議な所のある美月を、高貴なものを見るような目で見ることも多かった。
そんな美月だったが、本人はまだ四歳でそんなことは分かっていなかった。ただ、道行く人にかわいいねえと言われて、少し嬉しそうにはするものの、世間の女の子のように、可愛い服を着たがったり、髪を結って欲しがったりはしなかった。逆に面倒だと思っている節もあった。どうも、男の子っぽい気がする…。美雪は少し残念な気持ちだった。
慣れ親しんだ幼稚園からの帰り道を行くと、家の前が何か騒がしい。見ると、隣の広い空き地に柵が付けられ、重機が入り始めていた。
「まあ。長く放って置かれてたのに、家が建つのね。」
美雪が興味深げに中を覗く。とても広い空き地で、美月は父とそこで凧揚げをしたり、かけっこをしたりと遊んでいた場所だった。
「もう、遊びに行けないの?」
悲しげに言う美月を美雪は優しく撫でた。
「おうちが建つの。もしかして、美月のお友達になる子が居るかもしれないわよ?そうしたら、遊べるわ。」
美月は気を取り直して笑った。
「そうね。きっと、おっきなおうちね。楽しみね、ママ。」
美雪は頷いて、騒がしい中を抜けて、自分の家に入った。
それから数ヵ月、美月は毎日二階の窓から見ていたが、本当に大きな家が建った。見たこともないような飾りの着いている屋根、白い石造りの大きな建物…。お城みたい、と美月は思った。
そしてそれが、大きな庭を真っ直ぐに抜けて正面に、遠く見えるのだ。回りには、同じような白い石造りの塀が建ち、そうしてその家は完成した。
「すごいねえ…。」
美雪も、美月と並んでその家を見ながら溜め息混じりに言う。大きすぎてピンと来ず、羨ましいより感嘆の言葉しか出て来なかったのだ。
あんな家に、どんな一人のが住むのだろうと思っていたら、来たのは外国人のようだった。黒髪にグリーンの瞳の美しい女性が、アッシュ系の暗い茶色の髪に、明るい茶色の瞳のこちらも美しい顔立ちの、不機嫌そうな幼児を連れて来たのは、それから数週間後だった。
美雪が言葉が分かるのかと戸惑っていると、その女性は微笑んで、きれいな日本語で言った。
「初めてお目にかかります。私は美奈・ミリオ。父が日本人なので言葉は分かります。ここから北の王国、ミリオナから参りました。こちらは息子の、イサヤ・黎貴・ミリオ。夫の仕事の関係でこちらへ滞在することになったのですが、まだ夫は参っておりませんの。これは執事のライナ。」と、背後に立つ若いスーツ姿の黒髪の男性を見た。「きっと、学校なども同じかと思いますので、よろしくお願いいたします。」
美奈というその女性の美しさに、美月がぼうっとしていると、美雪が言った。
「こちらこそよろしくお願いいたします。私は有住美雪。こちらは娘の美月といいます。来年五歳になりますの。この近くの、赤い屋根の幼稚園に通うことになっています。」
美奈が嬉しそうに微笑んだ。
「まあ。この子と同い年ですわ。幼稚園はまだ考えていないのですけど。」
美雪も、嬉しそうに笑った。
「いろいろ分からない事がありましたら、何なりとお聞きくださいね。」
美奈は頷いて、美月を見た。
「仲良くしてね、美月ちゃん。」
美月は頷いて、母を見上げた。
「ママ、この子も同じ幼稚園、行くの?」
美雪は困ったように美月を見た。
「まだ、分からないのだって。」
すると、じっと黙っていたイサヤが急に口を開いた。
「オレもそこへ行く。」驚いて美雪がそちらを見ると、イサヤは母を見上げた。「母上、オレも幼稚園とかに行く。」
美奈はう~ん、と首を傾げた。
「あらイサヤ、でもね、あなたは…、」
イサヤは幼いのに険しい顔をした。
「オレはそこへ行くと決めたんだ。」と、背後のライナを振り返った。「ライナ、準備をしろ。」
ライナは頭を下げた。
「はい、イサヤ様。」
美奈は肩をすくめた。こちらでは美雪が茫然としている…なんてわがままなのかしら。でも、執事はあんな小さな子供の言う事なのに何の疑いもなく、サッと出て行ったイサヤについて行った…。美奈は振り返って、弁解っぽく言った。
「申し訳ありませんわ。ライナは私の執事でなく、イサヤの執事なのです。」
美雪はびっくりして問い直した。
「え、息子さんの?」
美奈は苦笑した。
「理由はまた話しますが、あの子は一人息子なので…家の跡取りで。生まれた時から人の上に立つべく育てられましたの。まだ四歳ですが、何でも一人で決めるようにされていたので、あのように。」と、気遣わしげにイサヤの去った方を見た。「でも、私はそれが心配で…。」
美雪も、イサヤの方を見た。ライナを後ろに従えて歩くイサヤの小さな背中は、とても美月と同い年には見えなかった。
4月になり、幼稚園の入園式には、本当にイサヤがライナと共に居た。
とても父親には見えないライナに付き添われて、一人堂々としていた。他の泣き叫んだり暴れたりする子供たちに混じって、イサヤはただじっと指示通りに座っていて、他の子との違いは歴然としていた。美月もそれを見て、うきうきと父と母を振り返ってばかりいる自分が恥ずかしくなり、じっと座って前を見ていた。
そのうちに、何人かの子供たちがそれに倣い、同じクラスの子供たちは本当に静かに座っていた。これには先生達のほうが驚いたようで、式は滞りなく終わったのだった。
美月が父と母に挟まれて手を繋いで歩いている時、イサヤがこちらへ歩いて来た。美月が緊張気味に見ていると、イサヤが言った。
「今日、オレの家で母上が入園祝いというのをなさると言っていた。お前も来い。」
美月はびっくりして、美雪を見上げた。美雪は戸惑いがちに訊いた。
「美月も行って、よろしいの?」
イサヤは頷いた。
「オレがいいと言ったらいいのです。」と、美月を見た。「お前は来たくないのか。」
美月は首を振った。
「ううん、行きたい。おっきなおうちの中が見たいの。お城みたいだから。」
イサヤが笑った。美雪はその顔を見てびっくりした…なんだ、子供らしい所もあるのね。
「じゃあ、お邪魔させてもらう?美月、着替えてから行きましょう。」
美月は頷いた。
「うん。じゃあね、イサヤくん。」
美月は父から手を離して、小さな手を振った。イサヤはそのしぐさに戸惑ったような顔をしたが、同じようにぎこちなく手を振った。それを見てから、美月は微笑んでまた父親の手を握り、母と二人に挟まれて歩いて行った。
「イサヤ様、お車へ。」
ライナが頭を下げる。イサヤは美月を見送りながら、言った。
「…ライナ、なぜ手を振るんだ?」
ライナは首を傾げた。
「きっと、別れの時にする習慣でしょう。」
イサヤは車に向かいながら言った。
「また、すぐに会うのに?」
ライナは眉をひそめた。
「人は、分からない所がありまするから。」
今、ライナは「人は」と言った。
しかし、イサヤは頷いて、車に乗った。
「学ばなきゃならないな。」
車は、美月達を追い越して、屋敷奥へと入って行った。
美月は、一番いい服を着せられて、迎えに来たライナと共に、母に持たされた駅前の花屋で買った小さな花かごを持って、隣のお城とみまごう大きな屋敷へと招き入れられた。
「いらっしゃい、美月ちゃん。」あの美しい母の美奈が出て来てイサヤと共に美月を迎えた。「他にもお客様をと思ったのだけど、イサヤが面倒がるので、美月ちゃんだけの内々のお祝いにしたの。」
美月はイサヤを見た。
「イサヤくん、はい。お花、きれいでしょう。ママと選んだの。」
その小さな花かごを見て、イサヤは驚いた顔をしたが、受け取った。
「…オレは何も用意していなかった。」
美月は首を傾げた。
「え、ここに遊びに来ていいって言ってくれたからよ?」
美奈は微笑んだ。
「まあ、ありがとう。でも、今度からはこんな気を使わないでいいってお母様に伝えてね。いつでも、気軽に遊びに来て良いのよ。」
美月はパアッと明るい顔をした。
「本当?嬉しい、私、ここに何もなかったとき、かけっこしたりしていたの。お庭で遊びたい。」
美奈は微笑ましく美月の頭を撫でた。
「そう。では、イサヤと行っていらっしゃい。」
美月はイサヤを振り返った。
「わあ!イサヤくん、行こう!」
美月はイサヤの手をグッと握ると、ためらうイサヤを引っ張って庭のほうへ駆け出した。イサヤは驚いて美奈を振り返ったが、美奈は微笑んでいるだけだ。
イサヤはその母の顔に微笑み返すと、美月と共に庭へ駆け出して行った。
「まあ見て、ライナ。あんなイサヤを見るのは初めてね。」
ライナはその大きな窓から、庭を見た。
「はい。あのようなお顔をなさるのは、初めてお見上げ致しまする。」
ライナは、イサヤが生まれた時から世話係としてついて来た男だった。全てにおいて優秀で、何かの時には命を懸けてイサヤを守るのがライナの務めだった。赤子の時から笑うことが少なかったイサヤが、今は普通の子供のように笑っている…。
美奈は手を口元にあててフフと笑った。
「無理を言って、こちらへ来て良かったこと。ライナ、私があちらへ戻っても、よろしくお願いするわね。」
ライナは、頭を下げた。
「はい。お任せくださいませ。」
美奈はイサヤを見つめ続けた。同じ時に生まれた、王国、ラミナスの子も同じように育っていると聞いている。いくら地を二分しているとはいえ、そちらの子のことも気なった。まして、その母は自分の妹なのだ。姉妹で二大勢力に分かれて嫁いでしまった…。
美奈は、空を仰いだ。美香、あなたの子はどうしているのかしら…。
美奈は、今は亡き妹、美香を思ったのだった。