第二話
涅槃駅を出た後、木々の合間を走り続けていたモノレールは、ようやく森を抜け、広く開けた丘陵に出た。草に覆われただけの、視界を遮る障害物の無い丘陵の上を、ぶら下がり式のモノレールは、滑る様に走り続ける。
進行方向を向いて、左側の席に座っている真人達からは、進行方向の右側に広がっている、海が見える。真っ青な海は朝日を跳ね返し、煌めいている。
水平線の上に被さっている雲の厚みが、夏の到来が近い事を告げている。かっては初夏と夏の間には、梅雨と呼ばれる雨の季節があったのだが、温暖化の影響で梅雨は失われ、初夏が過ぎれば……そのまま夏が訪れる。
あと二週間もすれば、アタラクシア7は夏特有の、濃くて暑い大気に包まれるのだ。
「……天気に恵まれて、良かったですね」
向日葵が、海を眺めながら呟いた言葉に、真人は頷く。
「黄昏地区は、雨だと楽しめない所が多いからな……」
真人達が行く予定の、遊園地と動物園が併設された複合遊戯施設……黄昏動物公園や、海開き前の黄昏海岸は、どちらも屋外にあり、雨天では楽しめない。雨が降った場合のプランも、予め真人達は、用意していたのだが、やはり、晴れるに越した事は無い。
丘陵を走るモノレールが、緩めの角度で右折する。モノレールの車両自体が、ぐにゃりと曲がるような錯覚を、真人は覚える。五両編成のモノレールの連結部が、折れて曲がっただけなのだが。
モノレールが真直ぐに戻る際、一両前の車両の左側の席に座る、スーツ姿の木蓮の姿が、真人の目に映る。木蓮が監視の為、邪魔にならない様に尾行している事を、真人は向日葵から聞いて、知っている。
同じ主人に仕えるロボットは、殆どの場合、複数存在するので、ロボットの中の一人がラストデイトを迎えた場合、他のロボットがラストデイトの監視役に回るのが、通例なのだ。監視する目的は、ラストデイト中に、ロボットと主人が橋を渡り、外の世界に逃げる事を、防ぐ為である。
ロボットが十年の有効期限を過ぎても、生き続ける方法が、一つだけ存在する。黄昏海岸にある、外の世界に通じる橋を渡り、橋の上にある門を通って、アタラクシア7の時間信号が届かない場所に行く事が、その唯一の方法である。門の外までは、時間信号は届かないのだ。
しかし、ロボットは自分だけで橋を渡り、門の外に出る事が出来ない。主人である人間と共にで無ければ、橋を渡って門を越えて、外の世界に出る事が、許されていないのである。
アタラクシア7に住む人間には、橋を渡って門を抜け、アタラクシア7から離れる自由が与えられている。つまり、自分に仕えるロボットを、有効期限が過ぎても生かし続けたいと、主人である人間が望めば、それは可能な事なのだ。
だが、橋を渡って門を抜け、アタラクシア7から離れた人間は、二度とアタラクシア7に戻る事が出来ない。それが、アタラクシア7の掟なのである。ロボットを助ける為に、橋を渡って外の世界に行くという事は、人間にとって、アタラクシア7からの追放を意味している。
橋の向う……アタラクシア7の外の世界は、人間には生きて行く事が出来ないか、人間が生きて行くには辛すぎる世界しか、存在しない。そんな世界に、自分達の主人である人間が行く事は、主人である人間の安全や幸福を、最優先事項としているロボット達にとって、死よりも堪え難い事なのだ。
其れ故、ラストデイトを迎えたロボットを生き長らえさせる為に、自分達の主人が橋を渡ろうとした場合、それを止める為に、他のロボット達が、ラストデイトを監視するのである。
通常、ロボットは主人の命令には逆らえないのだが、主人の身の安全の為になら、命令に逆らう事が許されている。アタラクシア7から離れる事が、権利として許されてはいても、アタラクシア7から離れる事は、主人である人間の身の安全が、危険に晒される事を意味する。
つまり、ロボットは主人の命令に逆らってでも、主人のアタラクシア7からの逃亡を、止める事が出来る訳である。向日葵を生き延びさせる為、真人が橋を渡り、アタラクシア7から逃亡するのを防ぐ為に、木蓮は監視役として、ラストデイト中の真人達を尾行しているのだ。
モノレールが黄昏地区に近付くにつれ、遠くの方に、黄昏海岸が見えて来る。青く透き通り、所々で波が砕け、白くなっている黄昏海岸を見て、ソーダ水みたいだなと、真人は思う。
真人は、右隣に座っている向日葵を見る。向日葵も、海を眺めている。向日葵の目線を辿った真人は、向日葵が何を眺めているのかに気付いて、一瞬、胸を強く圧された様な気分になる。
向日葵の目線の先には、橋があった。黄昏海岸から、水平線の向うまで届いている、太くて長い橋が。
橋の、海岸から一キロ程離れた辺りには、大きな門が有る。門は、アタラクシア7と外の世界を隔てる、境界である。一度通り抜けたら、二度と引き返す事が出来ない……。
「……橋、渡りたい?」
真人は、言葉を飲み込みそうになりながらも、勇気を振り絞り、向日葵に尋ねた。どんな答を期待しているのか、真人自身が分からないまま。
向日葵は、深く考える素振りも見せず、首を横に振る。
「考え過ぎですよ、真人様」
微笑みながら、そう言った後、向日葵は目線を海に戻す。
「……青く澄んだ海も綺麗ですけど、夕陽も綺麗なんですよね、黄昏海岸は……」
アタラクシア7の西端にある黄昏海岸では、水平線に沈む夕陽と朱に染まる空、黄金色に煌めく海を見る事が出来る。真人も向日葵も、黄昏海岸から眺める夕陽が、大好きだった。
「五時になる前に、黄昏海岸に行こうか。今の時期なら、丁度その頃が、夕陽が綺麗な時間の筈だから……」
真人の言葉を聞いた向日葵は、嬉しそうに頷く。その笑顔を見て、真人は胸が締め付けられる様な気がした。真人は改めて、自分が向日葵の笑顔が大好きだった事と、この笑顔を、もうすぐ見れなくなるという現実を思い知り、沈みそうになる。
そんな真人と向日葵の様子を、前方の車両の座席に座りながら、木蓮は観察していた。人間より、遥かに優れている五感を持つ木蓮は、離れた距離からでも、真人の様子が分かるのだ。
無論、様子だけでなく、どんな事を考えているのかも、八年間、真人と生活を共にし続けた木蓮には、想像がついていた。想像がついてしまうが故に、木蓮の表情は、少しだけ曇る事になる。
「間もなく、黄昏動物公園前に到着します。お降りの方は、お荷物をお確かめ……」
突如、車内放送が鳴り響き、モノレールが目的の駅に辿り着く事を告げる。真人と木蓮は、車内放送に救われた様な気がしていた。
程なく、モノレールは黄昏動物公園駅のプラットフォームの中に、滑り込んだ。
駅を出た真人と向日葵は、二分程歩いて、黄昏動物公園の前に辿り着いた。ファンタジー映画に出て来る城の外壁をイメージして、黄昏動物公園の正門は作られている。正門の向うには、観覧車やフリーフォールなどのアトラクションや、タワー型の水族館が見える。
朝日を浴びて、所々が煌めいている観覧車を見て、向日葵の瞳が輝く。
「黄昏動物公園で一番楽しみなの、観覧車なんです!」
「だったら、観覧車に乗るの、最後にする?」
「はい! 楽しみは最後にとっておいた方が、盛り上がりますから」
「動物園と水族館を見てから、遊園地に行って観覧車に乗って……四時半頃までに遊園地を出れば、黄昏海岸にも、余裕で行けると思うよ」
「観覧車にも乗れて、黄昏海岸で夕陽も見れるんだ……。良かった」
嬉しそうに、向日葵は微笑む。向日葵が喜ぶ事は、真人にとって嬉しく、それ以上に切ない。
程なく、真人と向日葵は正門に辿り着く。真人はポケットから財布を取り出し、自動販売機で二人分のチケットを買う。交通機関であれ遊戯施設であれ、ロボットのチケットは、人間同様に必要なのだ。だからこそ、ロボットも人間同様に楽しむ事が、一応は許されるのだが。
正門の改札口付近には、五人程の先客がいた。真人達は他の客達に続いて、正門の自動改札機にチケットを潜らせ、黄昏動物公園に入園する。
真人達が、黄昏動物公園の中に消えた一分後、正門の前に木蓮が現れる。木蓮も、向日葵同様、正門の向うに見える観覧車を、少し眩しそうに眺めた後、自動販売機でチケットを買い、自動改札口から、黄昏動物園の中に消えて行った。
「空いてるな……。本当に、ここで良かったの?」
正門の内側は、広場になっている。広場には、真人達を含めて、二十人程度の客しかいない。黄昏動物園の寂しい状況を見て、真人は改めて、向日葵の意志を確認する。
「ラストデイトは、ここに連れて来てもらうって、決めてたんです。ここには、真人様と一緒に過ごした想い出が、沢山ありますから……」
向日葵は、過去を懐かしむ様に呟く。
「そう言えば、向日葵達と遊びに行くのは、黄昏地区が多かったよな。動物園や遊園地で遊んだ後、近くの黄昏海岸で、泳いだりして……」
「最近は、余り連れて来て……貰ってませんでしたけど」
そう言いながら、向日葵は拗ねた様な顔で、真人を見る。
「……ごめん。受験と高校が忙しくて……」
真人は素直に謝る。生前の両親に連れられて、黄昏地区に遊びに来る事が多かった事もあり、真人は向日葵や木蓮とも、良く黄昏地区に、遊びに来ていたのだ。
しかし、去年から今年の春にかけては、高校受験の受験勉強が忙しくて、殆ど遊びに来れなかったのである。その上、今年の春、高校に進学してからは、新しい環境や人間関係に慣れる為、忙しい生活を送っていたので、休日を向日葵達と、黄昏地区で過ごす事が、減ってしまっていた。
「謝まっても、許しません」
「向日葵……」
「これは、お仕置きです」
向日葵は、真人の耳朶に、吐息を吹き掛ける。さり気なくでは無く、露骨に。
敏感な耳元を刺激されたせいで、全身を軽い快感の信号が駆け抜け、真人の身体が、軽く震える。真人の顔が、見て分かる程に、紅潮する。
「ひ……向日葵!」
初心な乙女の様に、顔を赤らめて抗議する真人を見て、向日葵は楽しそうに、くすくすと笑う。
「今ので許してあげますから、動物園に行きましょう、真人様」
何か、釈然としないものを感じながらも、向日葵が楽しんでいるなら、それでいいのだと、真人は思い、向日葵と共に、動物園の入り口の方に向って、歩き出した。
二人の後をつけていた木蓮も、真人達の後を追って、動物園に向って歩き出す。