アラサー気づいたら異世界へ
三十歳を前にした真白七海は、仕事帰りにいつものように手芸店へ寄った帰り道、ふっと白い光に包まれた。
気づくと、そこは見たこともない草原だった。
「えっ、ここどこ」
スマホは圏外。道路も電柱もない。代わりに、風に揺れる銀色の草と、遠くに石造りの小さな町が見えた。
七海はしばらく呆然としたあと、深く息を吐いた。
「泣いても仕方ない。まずは状況確認だよね」
昔からそうだった。困ったときほど、手を動かすと落ち着く。
町へ向かう途中、道ばたに落ちていたつる草を見つけると、七海は反射的に編みはじめた。指先が覚えている。数分後、小さなかごがひとつできあがった。
「うん。少し落ち着いた」
そのかごを抱えて町へ着くと、門番のおじさんが目を丸くした。
「嬢ちゃん、それを今そこで作ったのか」 「はい。なんとなく」 「なんとなくで作る出来じゃないな」
こうして七海は、異世界で最初の仕事を手に入れた。
七海が住むことになったのは、町はずれの古い空き家だった。家賃は安いけれど、机はぐらぐら、棚は傾き、窓辺はすきまだらけだった。
けれど七海は、むしろわくわくした。
「直せるってことは、楽しいってことだよね」
木切れを拾い、古い布を洗い、壊れた椅子にクッションをつける。かごを編み、刺しゅう入りの布巾を作り、小瓶に野花を飾る。
少しずつ、家は居心地のいい場所になっていった。
それを見た近所のパン屋の娘ミーナが言った。
「七海さんのおうち、入るとほっとする」 「そうかな」 「うん。あったかい匂いがする」
七海は照れくさく笑った。
その日から、七海は頼まれごとを受けるようになった。ほつれた服の繕い、子ども用の袋作り、店先に置く木の看板の飾りつけ。派手な魔法は使えないけれど、暮らしを少し良くするものなら、いくらでも作れた。
季節がひとつ巡るころには、七海の家は小さな工房になっていた。
窓辺には色糸。棚にはかごや布小物。壁には木のスプーンと飾り棚。表には手書きの札が下がっている。
暮らしの工房 ななみ
朝はパン屋へ布袋を届け、昼は広場で小物を売り、夕方は子どもたちに編み物を教える。
忙しいけれど、心は不思議なくらい穏やかだった。
ある日、常連の老婦人が、七海の作ったひざ掛けを抱きしめながら言った。
「これをかけるとね、冬が少しやさしくなるよ」
その言葉に、七海は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
売れることもうれしい。役に立つこともうれしい。でも、それ以上に、自分の作ったもので誰かの毎日が少しだけ明るくなるのが、たまらなく好きだった。
ある夕暮れ、工房の前に椅子を出して空を見ていると、ミーナが焼きたてのパンを持ってきた。
「はい、お礼」 「何のお礼?」 「今日の新しいパンかご、すっごく評判よ」 「そっか。よかった」
パンはまだあたたかく、空は茜色で、通りには夕飯の匂いが流れていた。
七海はパンをひとくち食べて、笑った。
「異世界って、もっと大変な場所かと思ってた」 「大変じゃないの?」 「大変なこともあるよ。でも、ちゃんとごはんが食べられて、眠る場所があって、作ったもので誰かが喜んでくれるなら、けっこう幸せ」
ミーナも笑う。
「七海さんらしい」 「そうかな」 「うん。たぶん、七海さんはどこの世界でも、ちゃんと幸せを作れる人なんだと思う」
風がやさしく吹いて、工房の札が小さく揺れた。
真白七海は、異世界に転移した。
けれどそこで失くしたものばかり数えるのではなく、手の中にある糸と布と木切れで、新しい暮らしをひとつずつ作っていった。
特別な力なんてなくてもいい。
好きなことをして、 誰かに喜んでもらえて、 あたたかいごはんを食べて眠る。
そんな毎日を、幸せと呼ぶのだと、七海はもう知っていた。




