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アラサー気づいたら異世界へ

作者: 虎太郎
掲載日:2026/10/17



 三十歳を前にした真白七海は、仕事帰りにいつものように手芸店へ寄った帰り道、ふっと白い光に包まれた。


 気づくと、そこは見たこともない草原だった。


「えっ、ここどこ」


 スマホは圏外。道路も電柱もない。代わりに、風に揺れる銀色の草と、遠くに石造りの小さな町が見えた。


 七海はしばらく呆然としたあと、深く息を吐いた。


「泣いても仕方ない。まずは状況確認だよね」


 昔からそうだった。困ったときほど、手を動かすと落ち着く。


 町へ向かう途中、道ばたに落ちていたつる草を見つけると、七海は反射的に編みはじめた。指先が覚えている。数分後、小さなかごがひとつできあがった。


「うん。少し落ち着いた」


 そのかごを抱えて町へ着くと、門番のおじさんが目を丸くした。


「嬢ちゃん、それを今そこで作ったのか」 「はい。なんとなく」 「なんとなくで作る出来じゃないな」


 こうして七海は、異世界で最初の仕事を手に入れた。





 七海が住むことになったのは、町はずれの古い空き家だった。家賃は安いけれど、机はぐらぐら、棚は傾き、窓辺はすきまだらけだった。


 けれど七海は、むしろわくわくした。


「直せるってことは、楽しいってことだよね」


 木切れを拾い、古い布を洗い、壊れた椅子にクッションをつける。かごを編み、刺しゅう入りの布巾を作り、小瓶に野花を飾る。


 少しずつ、家は居心地のいい場所になっていった。


 それを見た近所のパン屋の娘ミーナが言った。


「七海さんのおうち、入るとほっとする」 「そうかな」 「うん。あったかい匂いがする」


 七海は照れくさく笑った。


 その日から、七海は頼まれごとを受けるようになった。ほつれた服の繕い、子ども用の袋作り、店先に置く木の看板の飾りつけ。派手な魔法は使えないけれど、暮らしを少し良くするものなら、いくらでも作れた。





 季節がひとつ巡るころには、七海の家は小さな工房になっていた。


 窓辺には色糸。棚にはかごや布小物。壁には木のスプーンと飾り棚。表には手書きの札が下がっている。


 暮らしの工房 ななみ


 朝はパン屋へ布袋を届け、昼は広場で小物を売り、夕方は子どもたちに編み物を教える。


 忙しいけれど、心は不思議なくらい穏やかだった。


 ある日、常連の老婦人が、七海の作ったひざ掛けを抱きしめながら言った。


「これをかけるとね、冬が少しやさしくなるよ」


 その言葉に、七海は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


 売れることもうれしい。役に立つこともうれしい。でも、それ以上に、自分の作ったもので誰かの毎日が少しだけ明るくなるのが、たまらなく好きだった。




 ある夕暮れ、工房の前に椅子を出して空を見ていると、ミーナが焼きたてのパンを持ってきた。


「はい、お礼」 「何のお礼?」 「今日の新しいパンかご、すっごく評判よ」 「そっか。よかった」


 パンはまだあたたかく、空は茜色で、通りには夕飯の匂いが流れていた。


 七海はパンをひとくち食べて、笑った。


「異世界って、もっと大変な場所かと思ってた」 「大変じゃないの?」 「大変なこともあるよ。でも、ちゃんとごはんが食べられて、眠る場所があって、作ったもので誰かが喜んでくれるなら、けっこう幸せ」


 ミーナも笑う。


「七海さんらしい」 「そうかな」 「うん。たぶん、七海さんはどこの世界でも、ちゃんと幸せを作れる人なんだと思う」


 風がやさしく吹いて、工房の札が小さく揺れた。


 真白七海は、異世界に転移した。


 けれどそこで失くしたものばかり数えるのではなく、手の中にある糸と布と木切れで、新しい暮らしをひとつずつ作っていった。


 特別な力なんてなくてもいい。


 好きなことをして、  誰かに喜んでもらえて、  あたたかいごはんを食べて眠る。


 そんな毎日を、幸せと呼ぶのだと、七海はもう知っていた。

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