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第9話 ゲルハルト様、計算が3箇所間違っていますわよ

金貨五千枚という「軍資金」を得たザイフリート領の空気は、一変していた。

 あれほど冷ややかだったハンスや文官たちは、今や私の姿を見るたびに「エルゼ様、次はこの書類を!」と目を輝かせて駆け寄ってくる。

 現金なものだと思いつつも、彼らの瞳に「諦め」ではなく「欲」が宿り始めたことは、統治において非常に好ましい変化だわ。


 深夜。

 城の執務室には、二つのランプだけが灯っていた。


 シュッ、シュッ、とペンが紙を滑る音だけが室内に響く。

 私の向かい側には、眉間に深い皺を刻んだゲルハルト閣下が座っている。彼は、私が提案した「赤錆川の浄化と新規用水路の建設計画」の予算案を、不器用な手つきで精査していた。


「……閣下。ペンを止めていただけます?」


 私が顔を上げると、ゲルハルトが視線をこちらに向けた。

 ランプの灯りに照らされた彼の横顔は、彫刻のように深く、鋭い。けれどその瞳には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。


「なんだ。不備があったか」


「ええ。三箇所ほど、致命的な計算間違いがございますわよ」


 私は席を立ち、彼の隣へと歩み寄った。

 ドレスの衣擦れの音が、静まり返った部屋に小さく響く。

 彼の肩が触れそうなほどの距離で、私は机の上に広げられた書類を指差した。


「ここ。資材の運搬コストを、冬季の積雪を考慮せずに算出していますわ。それからここと、ここ。……予備費の計上を忘れています。これでは、不測の事態が起きた瞬間に工事が止まってしまいますわよ?」


「……。雪か。そうだな、この地の冬を甘く見ていた」


 ゲルハルトはペンを置き、背もたれに深く身を沈めた。

 いつもなら「貴様に何がわかる」と反論してくるところだが、今の彼は、素直に私の指摘を受け入れている。その変化が、私の胸に微かな甘やかさを運んできた。


「閣下、少しお休みになった方がよろしいわ。武勇で鳴らした辺境伯も、数字の戦場では少々無理が過ぎているようですもの」


「……貴様に言われたくない。三日間不眠不休で抽出器に張り付いていたのは、どこのどいつだ」


 ゲルハルトが、低く笑った。

 皮肉ではなく、心からの親愛が混じった笑み。

 彼はそのまま、私の汚れた指先――抽出作業でついた小さな火傷の跡――を、そっと大きな掌で包み込んだ。


「……っ、閣下?」


「この傷……まだ治っていないな。領主である俺が、女をここまで酷使していいものか」


 彼の指先は、戦い抜いてきた男らしく硬くて無骨だ。けれど、その触れ方は、壊れ物を扱うようにどこまでも優しかった。

 鉄の匂いがする彼の手から、熱が伝わってくる。

 王都の男たちが口にしていた、洗練された愛の囁きよりも、この不器用な気遣いの方が、ずっと深く私の心を揺さぶった。


「……仕事ですもの。私は、対価に見合う成果を出しただけですわ」


「対価、か。……エルゼ。貴様は、金や名誉のためにここまでやる女ではないだろう」


 ゲルハルトが、私を射抜くような視線で見つめてくる。

 その瞳には、もはや「不信感」の欠片もなかった。

 あるのは、深い尊敬と――言葉にするのを躊躇うような、強い独占欲。


「貴様は……この地を救った。俺が諦めていたこの荒野を。……俺は、貴様を二度と王都へ返すつもりはない」


 それは、求婚プロポーズにも似た宣言。

 領地を繁栄させるための「駒」としての執着か、それとも――。


「……困りますわ。私をここに縛り付けておきたいなら、それ相応の『居心地の良さ』を提供していただかなくては」


 私は赤らみそうになる頬を隠し、わざと挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「居心地、だと?」


「ええ。例えば……そう、仕事の合間に美味しいコーヒーを淹れてくださるとか。閣下が自ら、ですわよ?」


 ゲルハルトは呆れたように眉を上げたが、やがてふっと顔を綻ばせた。


「……我が儘な女だ。だが、いいだろう。……少し待っていろ」


 彼は席を立ち、棚から豆を取り出した。

 辺境伯自らがミルを回し、お湯を沸かす。その無骨な後ろ姿を眺めながら、私は自分の胸の鼓動を数えていた。


 やがて、執務室には苦くて香ばしいコーヒーの香りが満ちる。

 私たちが作った香水の香りとはまた違う、安らぎの香り。


 夜はまだ深い。

 けれど、山積みの書類を前にしても、不思議と疲れは感じなかった。

 

(……ここが、私の居場所)


 帳簿の数字を見つめる私の瞳に、ランプの灯りが優しく反射していた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

二人の距離がぐっと縮まった深夜の執務室回。

「鉄仮面の辺境伯がコーヒーを淹れてくれる」というギャップ、いかがでしたでしょうか。


仕事のパートナーとして認め合い、それが次第に「手放したくない」という想いに変わっていく過程を、これからも丁寧に描いていきます。


「ニヤニヤが止まらない!」「エルゼ様、もっと甘えてもいいのよ!」

と思ってくださった方は、ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと、執筆の糧になります!


次回、領地経営は次のステップへ。

用水路の建設現場で、エルゼを狙う新たな影が――?

お楽しみに!

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