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第8話 初めての商談。王都の豪商を『香り』で跪かせる

「……目が覚めたか」


 低く、重厚な声。

 視界を埋めていた白い靄が晴れると、そこは見慣れない清潔な寝室だった。

 私は跳ね起きようとしたが、鉛のような身体の重さに声を上げた。


「……っ、あ、アンナ、抽出の……精油の回収はどうなりましたの!?」


「落ち着け。回収はハンスが行った。一滴も無駄にはしていない」


 声の主――ゲルハルト閣下が、ベッドの脇の椅子に腰掛けていた。彼はいつもの軍服姿だが、その手には不釣り合いなほど小さなティーカップが握られている。


「二日も眠り続けていた。公爵家は、娘に限界を超えるまで働く教育でもしているのか」


「……三ヶ月で結果を出せと仰ったのは、閣下ですわ」


 私は乱れた髪を整え、彼を睨み返した。

 二日も眠っていた? それはまずいわ。計算では、そろそろ王都からの「ハイエナ」が到着する頃のはず。


「閣下、お客様が来ているのではありませんこと?」


「……。鼻の利く連中だ。昨日の朝、王都の大商会『ガリエラ』の主、ゴードンが到着した。お前の噂を聞きつけ、この地の鉱山利権を叩き売らせようと手ぐすねを引いている」


 ゴードン。

 王太子の腰巾着であり、利益のためなら平然と人を裏切る強欲な商人だ。


「ちょうどよろしい。……アンナ! 私の正装を。それから、昨日抽出した『一番瓶』を持ってきてくださる?」


「エルゼ、まだ動ける身体では……」


「閣下。戦場に、好機を逃して寝ている将軍がいて?」


 私の言葉に、ゲルハルトは一瞬だけ口角を上げた。


「……いいだろう。貴様の『戦い』、見届けさせてもらう」


 ◇


 城の応接室。そこには、金糸の刺繍が入ったけばけばしい服を着た太った男、ゴードンが不機嫌そうに座っていた。


「いやはや、ゲルハルト閣下。いつまで待たせるおつもりか。この死に体となったザイフリート領を助けてやろうという私の慈悲を、無下にするのは感心しませんな」


 ゴードンは、鼻をつまみながら嘲笑った。


「この街の、鼻を突くような錆び臭さと、あの毒草の異臭。……これでは、鉱山利権を安値で引き取るのも骨が折れます。金貨五百枚。これが限界ですな」


 金貨五百枚。この領地の価値を考えれば、あまりに無礼な叩き売りだ。

 扉を開け、私は凛とした足取りで部屋へ入った。


「五百枚? ゴードン様。貴方の目は、その贅肉に埋まって節穴になられたのかしら?」


「なっ……エルゼ・フォン・クロムウェル令嬢! 追放されたと聞いていたが、まだ生きていたのか」


「ええ。死の淵から、お宝を掘り当てて戻ってまいりましたわ」


 私はゴードンの正面に座り、ゲルハルトが私の背後に控える。

 彼は一言も発さないが、その巨躯が放つ威圧感だけで、ゴードンの顔から余裕が消えた。


「お宝だと? 鉄も出ないこの土地に、何があるというのだ」


「これですわ」


 私は、テーブルの上に小さなガラス瓶を置いた。

 アンナが、音も立てずにその栓を抜く。


 刹那――。

 応接室に漂っていた、湿ったカビの臭いとゴードンの安物の香水の臭いが、一瞬で「消滅」した。

 芳醇で、神秘的で、魂を揺さぶるような『悪魔の草』の精油の香りが、空間を支配する。


「……っ!? な、なんだ、この香りは。花? いや、香木か? 私は王都中の香水を扱っているが、これほどの……」


 ゴードンが、あえぐように空気を吸い込んだ。その瞳が、欲望で爛々と輝き始める。


「ゴードン様。この精油一滴で、王都で売られている最上級の香水十瓶分を凌駕する香気が得られます。……さて、これを独占販売できる権利。金貨五百枚で買えると本気でお思い?」


「……ひ、一千枚! いや、二千枚出そう!」


「お話になりませんわね」


 私は冷たく微笑み、手帳を取り出した。


「王都の貴婦人たちの年間香水消費額、および新作への渇望を計算すれば、この精油がもたらす利益は年間で金貨一万枚を下りません。独占権が欲しければ、まずは金貨五千枚の前払い。そして、売上の四割を我が領に納めること。……これが私の『最低条件』です」


「な、四割だと!? 馬鹿な、そんな暴利――」


「拒否なさるなら、明日にはお隣のアンハルト商会に話を振るだけですわ。あちらなら、五割でも首を縦に振るでしょうね」


 ゴードンが、脂汗を流しながら私を睨む。

 だが、私の横でゲルハルトが、無言で腰の剣の柄に手をかけた。その金属音が、ゴードンの心胆を寒からしめる。


「……っ、わかった! 契約だ。その代わり、今すぐその瓶を渡せ!」


「ええ、喜んで。……あ、それから。この領地の『鉄鉱石』ですが、先ほどお提示された金貨五百枚の十倍、五千枚でなら、将来の採掘権をお売りしてもよろしいですわよ? 香水で潤ったこの地が、いずれ新しい静脈を掘り当てるのは時間の問題ですから」


 ゴードンは、まるで狐につままれたような顔で、震える手で契約書にサインをした。


 一時間後。

 ゴードンが逃げるように去った後、応接室に残ったのは、ずっしりと重い金貨袋と、一枚の契約書だった。


 ハンスが、腰を抜かして床にへたり込んだ。


「き、金貨五千枚……。これだけで、領民の冬の食糧どころか、新しい用水路の建設まで……!」


 私は、その帳簿をゲルハルトの前に突きつけた。


「閣下。これで最初の『黒字』ですわ。文句はございませんわね?」


 ゲルハルトは、契約書と、勝ち誇った私を交互に見た。

 彼はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で止まった。


「……エルゼ」


「はい、何かし――」


 言いかけた言葉は、彼が私の腰を引き寄せたことで遮られた。

 鉄の匂いに、私が作った甘美な花の香りが混ざり合う。


「貴様は……とんだ魔女だな」


 その声は、これまでで一番低く、そして熱を帯びていた。

 彼の指が、私の頬に触れる。

 冷徹な氷の令嬢であるはずの私の心臓が、生まれて初めて、計算の合わない速さで鐘を鳴らし始めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

最初の勝利、そして最初の黒字!

「数字」と「香り」で強欲な商人を屈服させるエルゼの姿、楽しんでいただけましたか?


そして、ようやく始まったゲルハルトとの甘い(?)時間。

不器用な二人の距離が、仕事を通じて少しずつ近づいていく様子を描いていきます。


「もっと甘い展開も見たい!」「次の内政改革は何?」

と思ってくださった方は、ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと幸いです。


次回、領地に「富」がもたらされたことで、エルゼを信じていなかった領民たちの心にも変化が――。

お楽しみに!

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