第7話 抽出開始。荒れ地に漂う、あり得ないほどの『甘い香り』
夜明け前の、最も深い闇。
地下鍛冶場の熱気は、朝の冷気を撥ね退けるほどに高まっていた。
「火力を落とすな! 水を絶やすな!」
私の声に応え、煤まみれのバルトたちが必死にふいごを操る。
中央に据えられた巨大な銅製の釜――『アランビック』からは、シュウシュウと蒸気が漏れ、接続された冷却管からは絶え間なく水が流れ落ちている。
釜の中には、昨日摘み集めた十キロの『悪魔の草』。
煮え立つにつれて、最初はあの鼻を突くような、焦げたゴムと生臭さが混じった異臭が部屋中に充満した。職人たちは顔を顰め、鼻を布で覆いながら、「やっぱり毒を煮てやがる」と吐き捨てていた。
けれど、私は温度計(自作の、アルコール膨張式の簡易的なものだ)を凝視し、沸点を厳密に管理し続けた。
(……来るわ。不純物が飛び、香りの『核』が抽出される瞬間が)
不意に、音が変わった。
釜の中で何かが弾けるような音がし、冷却管の出口から滴り落ちる液体の色が、濁った白から透明へと変わっていく。
その瞬間だった。
「――っ!?」
バルトの手から、ふいごの柄が滑り落ちた。
隣で薪を運んでいた男が、その場に立ち尽くす。
地下室に漂っていたあの忌まわしい異臭が、一瞬にして「消えた」のだ。
代わりに溢れ出したのは、冷たく澄んだ冬の朝に、何万輪もの白い花がいっせいに開いたような――目も眩むほどに甘美で、どこまでも気高い芳香。
「な、なんだ……これは。花畑か? それとも、天国か?」
バルトが夢遊病者のように呟く。
それは、ジャスミンのような可憐さと、サンダルウッドのような深い温かみを併せ持った、神秘的な香り。鉄の匂いと煤に支配されたこの地には、およそ存在するはずのない「奇跡」そのものだった。
私は、受け皿に溜まった数滴の液体を見つめた。
水の上に浮かぶ、黄金色の油分――最高純度のエッセンシャルオイル。
「成功……ですわ」
緊張の糸が切れ、膝が震えた。
三日間、ほとんど一睡もせず、泥と書類と煤に向き合い続けてきた。公爵令嬢としての誇りだけで繋ぎ止めていた意識が、その芳香に包まれて、ふわりと軽くなる。
「……見事なものだな」
背後から、低い声が響いた。
いつの間にか、ゲルハルト閣下が立っていた。彼はいつもの鉄仮面のような表情を崩していなかったが、その瞳は、受け皿に溜まった黄金の雫に釘付けになっていた。
「これがあの、誰もが見捨てた『悪魔の草』から生まれたものだというのか」
「ええ。閣下……。この世に、価値のないものなど存在しませんの。ただ、その価値を引き出す知恵が足りないだけ……」
私は彼を振り返り、誇らしげに胸を張ろうとした。
けれど、立ちくらみが襲い、視界がぐにゃりと歪む。
「お嬢様!」
アンナの悲鳴が聞こえるより先に、強い力が私の肩を支えた。
鉄の匂いがする、無骨な腕。
見上げれば、ゲルハルトが険しい顔で私を抱きとめていた。
「……無茶を。あれほど、休めと言ったはずだ」
「……まだ、仕事が残っておりますわ。この精油を……王都の相場で換算すれば……」
気を失う間際まで数字を語ろうとする私を見て、彼は呆れたように、けれどどこか熱を持った溜息をついた。
「仕事の話は、目が覚めてからだ。……よくやった、エルゼ」
初めて、彼に名前を呼ばれた。
鉄仮面が、一瞬だけ、朝陽に溶ける氷のように和らいだ気がした。
私は彼の腕の中で、その微かな「安心感」に身を委ね、深い眠りへと落ちていった。
城の地下室には、まだ、甘美な奇跡の残り香が漂い続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、鉄の領地に「香り」が生まれました。
最悪の出会いだったエルゼとゲルハルト。けれど、この香りが二人の間の「不信感」を「尊敬」へと変えるきっかけになります。
「これぞ内政モノのカタルシス!」「ゲルハルト様が意外と過保護でニヤニヤする」
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次回、この香水を持って、エルゼが王都の商人と対峙します。
氷の令嬢、本領発揮の「商談無双」が始まります――!




