第5話 廃液の川と、異臭を放つ『悪魔の草』
翌朝、私の目は猛烈に熱を持っていた。
三時間の仮眠。慣れない安物のランプの灯りで夜通し書類を読み耽った代償だ。けれど、鏡に映る自分の顔は、不思議と王都にいた頃よりも生気に満ちている。
「お嬢様、やはり本日もその……『作業着』で?」
アンナが困惑したように、昨日の泥汚れを落としたばかりの綿のスカートを差し出す。
「ええ。今日は領内の水系と植生を確認しに行きますわ。絹のドレスで河原を歩くほど、私は情緒的な人間ではありませんから」
私は手早く着替えを済ませると、ハンスを伴って城の外へと向かった。
案内役のハンスは、どこか私を試すような足取りで、わざと険しい山道を選んで歩いていく。
「……お嬢様、あれがこの領地を流れる『赤錆川』です」
彼が指差した先には、昨日馬車から見たよりもさらに無残な光景が広がっていた。
かつては清流だったであろう川は、上流の廃鉱山から流れ出る廃液によって不気味な赤茶色に変色している。川岸には一切の魚影がなく、漂ってくるのは喉を焼くような酸っぱい刺激臭と、金属が腐ったような嫌な臭いだ。
「ひどいものですわね……」
「ええ。この水は作物には使えません。無理に使えば根が腐り、土地が死ぬ。我々は遠くの湧水まで水を汲みに行かねばならず、それがこの地の貧しさの根源となっております」
ハンスの声には、隠しきれない呪詛が混じっていた。
私は黙って河原に降り、膝をついた。高価な靴が赤茶色の泥に染まるが、気にも留めない。川の水にそっと指先を浸し、その感触を確かめる。
(……この収斂味。相当な強酸性ね。鉄イオンと硫酸イオンが飽和状態だわ)
現代の知識が、私の脳内でこの「汚水」を化学式へと分解していく。
そして、その川岸に、しぶとく群生している「それ」に目を向けた。
肉厚で黒ずんだ緑の葉。その中心から、毒々しいほど深い赤紫の花を咲かせている植物。領民たちが『悪魔の草』と呼び、家畜さえも避ける忌み草だ。
「お嬢様! 近寄ってはいけません。その草の露に触れれば肌が爛れ、嫌な臭いが三日は取れなくなります!」
ハンスが慌てて私を止めようとする。
私は構わず、その花を一輪、素手で摘み取った。
「――っ、お嬢様!」
「案ずることはありませんわ、ハンス様。爛れるのは、この草が身を守るために分泌している強酸性の精油のせいです。……そしてこの臭いも」
鼻を近づけると、ウッとなるような強烈な青臭さと、焦げたゴムのような異臭がした。
だが、その奥。
揮発していく香りの「芯」に、私は確かな確信を掴んだ。
(間違いない。これ、前世で嗅いだ『最高級のムスク』の合成前の香りに酷似しているわ。特定の触媒で中和し、熱を加えて不純物を飛ばせば……)
この悪臭は、あまりに濃度が濃すぎるがゆえの拒絶反応だ。
希釈し、精製すれば、それは人の心を惑わすほどの芳醇な残り香へと変貌する。
「ハンス様。この草は、この強酸性の土壌でしか育たないのではないかしら?」
「ええ……。他の植物が死に絶える場所でだけ、この草ははびこるのです。ですから領民は、これを呪いの象徴だと思っております」
「呪い、ですって? ふふ……」
私は思わず、小さく笑い声を漏らした。
泥だらけの手で、その「悪魔の草」を愛おしげに撫でる私を見て、ハンスは幽霊でも見るような顔で後ずさった。
「これは呪いなどではありません。この地が、私たちに遺してくれた『最後の宝物』ですわ」
「宝……? こんな、悪臭を放つ雑草がですか!?」
「ええ。ハンス様、急いで城へ戻りましょう。職人たちを集めて。特に、銅細工や鉄細工に長けた者を。……それから、大きな釜と、長い管が必要ですわ」
「一体、何を始めるおつもりで……」
「錬金術ですわ。……いいえ、もう少し現代的な言い方をしましょうか」
私は立ち上がり、赤茶色の川を見据えた。
「――この鉄の匂いを、王都中の貴婦人が跪く『奇跡の香り』に変える。その第一歩ですわ」
その時、川向こうの崖の上に、一騎の黒い馬が止まっているのが見えた。
こちらを見下ろしているのは、あの「鉄仮面」ゲルハルト閣下だ。
彼は無言で、泥にまみれた私の姿を、その鋭い瞳に焼き付けていた。
お読みいただき、ありがとうございます!
「汚物」として嫌われていたものが、ヒロインの手によって「宝」へと変わる――。
内政モノの真骨頂である、知識による価値の逆転を描きました。
エルゼが見つけた「悪魔の草」が、どのような香りに化けるのか。
そして、それを見つめるゲルハルトの真意とは……?
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