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第4話 誇りまでは捨てていませんわ。泥にまみれた初日の執務室

案内された「執務室」の扉を開けた瞬間、背後でハンスがわざとらしく溜息をつくのが分かった。


「……あいにくですが、王宮のようなふかふかの絨毯も、金糸のカーテンもございません。ここにあるのは、先代から積み上げられた埃と、解決の目処すら立たない陳情書の山だけです」


 鼻を突くのは、古い紙が放つカビの臭いと、換気の行き届かない部屋特有の澱んだ空気。

 窓は煤けて外の光を遮り、巨大な机の上には、もはや地層のように積み重なった書類の束が崩れかかっている。


 普通の令嬢であれば、裾を汚すことを恐れて一歩も中に入れないでしょう。あるいは、あまりの不潔さに泣き出して逃げ出すか。ハンスの目は、明らかにそれを期待していた。


 私はゆっくりと室内を見渡した。

 埃。湿気。乱雑な管理。……そして、その奥に眠る膨大な「情報」。


「……アンナ。荷物の中から、私の『作業用』の着替えを出してくださる?」


「畏まりました、お嬢様」


 アンナは心得たように、公爵家では決して見せることのなかった、丈夫な綿のブラウスと膝丈の動きやすいスカートを取り出した。

 私はその場で、宝石のついた重苦しいドレスを脱ぎ捨てた。ハンスが慌てて顔を背け、部屋の外へ飛び出していく気配がしたけれど、構わない。


 私は長い金髪を一本の紐で無造作に束ね、袖を肘まで捲り上げた。


「さあ、始めましょうか」


「お、お嬢様……本当に、ご自身でなさるのですか?」


 アンナの心配そうな声を背に、私はまず窓を全開に放った。

 入り込んできたのは、ザイフリート領特有の、冷たくて錆びた鉄の匂いが混じる風。けれど、閉ざされた部屋の悪臭よりは数倍マシだ。


 私は雑巾をバケツに浸し、まずは机の上を拭き清めた。

 一拭きするごとに、漆黒の木目が顔を出す。その感触を確かめながら、私は散乱した書類を一枚ずつ手に取った。


『三年前の炭鉱事故による遺族への補償未払い』

『主要運搬路の橋の崩落、放置三ヶ月』

『肥料の価格高騰による、農村部からの減税嘆願』


 どれもが、この領地が抱える「悲鳴」だった。

 ゲルハルト閣下は、これらを一人で処理しようとしていたのだろうか。武力には秀でていても、行政の合理化を知らない彼は、文字通りこの書類の山に埋もれかけていたに違いない。


 私は三つの大きな籠を用意させ、書類を「緊急」「保留」「破棄」に分類し始めた。

 指先が黒く汚れ、爪の間に埃が入り込む。王都での生活では考えられなかったことだ。けれど、不思議と心は澄み渡っていた。


(……これだわ。私が求めていたのは、この手触りだ)


 誰かに与えられた贅沢ではなく、自らの手で混沌を秩序に変えていく快感。

 

 数時間が経過し、日が傾き始めた頃。

 扉が遠慮がちにノックされ、ハンスが戻ってきた。彼は私の姿を見て、持っていた茶器を落としそうになるほど硬直した。


「な、なんという格好を……! クロムウェル公爵家のお嬢様が、這いつくばって床を磨くなど……!」


「ハンス様。埃の中で書類を読んでも、正確な判断は下せませんわ。それに、領民の命が懸かった帳簿が汚れていることの方が、私にはよほど耐え難い屈辱です」


 私は汚れを拭いもせず、冷徹な視線で彼を射抜いた。


「貴方は、この領地の惨状を『仕方のないこと』として諦めていらっしゃいましたね? でも、私は違います。この山のような陳情書は、裏を返せば、領民たちがまだ『助けてほしい』と声を上げている証拠。希望があるということですわ」


 私は整理したばかりの書類の束を、ハンスの胸に押し付けた。


「これは『緊急』を要するもの。特にこの三件については、今すぐ現状の予算から捻出できる解決策を記しておきました。明日の朝までに閣下の承認を得ておいてください」


「あ、朝までに……!? しかし、こんな短時間で……」


「時間は作るものですわ。……それから、ハンス様」


 私は窓の外、庭の隅に自生している「悪魔の草」――赤黒い花を指差した。


「明日から、あの草を十キロほど集めるよう、手の空いている者に伝えて。根こそぎではなく、花の部分だけを。汚れていても構いません」


「あんな毒草を!? 何に使うとおっしゃるのです!」


「毒か薬か、あるいは『黄金』か。……それは私の腕次第ですわ」


 私は、汚れのない真っ白なハンカチで、最後の一枚の書類を拭いた。

 氷の令嬢は微笑まない。

 けれど、その瞳には、かつて王都で見せていたものとは違う、静かで熱い闘志が宿っていた。


「さあ、ザイフリート領の夜は長そうですわね。アンナ、次はランプの用意を。今日は寝る暇などありませんわよ」

お読みいただき、ありがとうございます!

豪華なドレスを脱ぎ捨て、泥と埃にまみれながらも「お嬢様」としての誇りを失わないエルゼ。

彼女のこの覚悟が、少しずつ周囲の頑なな心を溶かしていきます。


「仕事ができる女性はかっこいい!」と感じていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと嬉しいです。


次回、ついに「悪魔の草」を使った最初の実験が始まります。

そして、様子を見に来たゲルハルト閣下が目にする、エルゼの意外な姿とは――?

お楽しみに!

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