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第3話 冷酷辺境伯との初対面。「お前のような温室育ち、明日には帰れ」

「……今、なんと? 私の帳簿に間違いがあると言ったのか」


 ゲルハルト・ザイフリート辺境伯の声は、地鳴りのように低かった。

 彼は持っていた羽根ペンを置き、組んだ手の隙間から、凍てつくような視線を私にぶつけてくる。並の令嬢なら、この視線だけで失神して運び出されていることでしょう。


 けれど、私は動じない。

 王都の財務省で、脂ぎった老執政官たちを相手に予算を分捕り合ってきた日々に比べれば、この程度の威圧感はむしろ心地よいほどだ。


「ええ。第百二十四ページの、鉱山労働者への支給食糧費。それから、運搬路の補修費。計三箇所ですわ。単純な計算ミスだけではなく、この帳簿、項目ごとの関連性が全く考慮されておりませんのね」


 私は、彼の机に無造作に置かれた分厚い帳簿を一瞥し、すらすらと指摘した。


「馬鹿な。それはハンスが三日がかりで精査し、私も確認したものだ」

「ならば、お二人の目は節穴だったということですわ。……ハンス様、失礼。ペンと紙をお借りできます?」


 私は唖然としているハンスから筆記具を奪い取ると、立ったまま、余白にさらさらと「複式簿記」の概念を簡略化した表を書き込んだ。


「現在のこの領地のやり方では、収支が一直線に並んでいるだけ。これでは『どこに無駄があるか』ではなく『手元にいくら残ったか』しか分かりませんわ。この項目を資産と負債に分け、さらに……」


 数分後。

 私は彼らの計算が「年間で金貨五十枚分」も過大評価されていることを証明してみせた。

 金貨五十枚。この貧しい領地なら、全住民の数ヶ月分の食糧を賄える大金だ。


 部屋が、しんと静まり返る。

 ゲルハルト閣下の眉間の皺が、さらに深くなった。彼は無言で私が書いた紙を手に取り、食い入るように見つめている。


「……貴様、なぜこれほどの技術を」

「王宮で暇を持て余しておりましたので。不毛な舞踏会のステップを覚えるより、数字の配列を覚える方がよほど有意義ですもの」


 私は背筋を伸ばし、凛とした態度を崩さない。

 閣下は、椅子の背にもたれかかり、深いため息をついた。


「ハンス、事実か?」

「……は、はい。確認いたしました。確かに、お嬢様の仰る通りです。我々は、昨年の資材在庫の減価償却という概念を、完全に見落としておりました……」


 文官長であるハンスが、ガタガタと震えながら、私を見て戦慄していた。

 無理もありませんわ。彼らにとって私は、王都で贅沢三昧をしていた「敵」だったはずなのですから。


「閣下。私を追い出すのは自由ですわ。ですが、その前に一つだけお聞きしたい。……この領地の現状を、貴方は良しとしていらっしゃいますの?」


 私は部屋の隅にある窓を指差した。

 そこからは、夕闇に沈む、錆びた川と枯れた大地が見える。


「鉄鉱石が採れなくなれば、この地は死にます。貴方が守るべき領民も、共に飢えることになる。それでも、私の知恵を拒みますか? ――単なる『女の遊び』だと切り捨てて」


 ゲルハルト閣下が、ゆっくりと立ち上がった。

 巨躯が私の前に立ちはだかる。鉄の匂いが強くなり、彼の影が私を覆い尽くした。

 彼は私の顎を、手袋を嵌めた指先でクイ、と持ち上げた。


「……エルゼ・フォン・クロムウェル。貴様、何が目的だ」


 瞳の中に、不信感と、それ以上の――「得体の知れないものを見た」という戸惑いが見えた。


「目的? 決まっていますわ。私は、無能だと笑った者たちを見返したい。そして……」


 私は彼の指を、そっと、けれど力強く振り払った。

 そして、生まれて初めて、自分でも驚くほど穏やかな声で言った。


「泥にまみれても、立ち上がろうとする人たちが、不当に飢えるのは……好きではありませんの」


 一瞬、彼が息を呑んだのが分かった。

 「氷の令嬢」の仮面の裏側にある、ほんの少しの――領民を想う「熱」に、彼が触れた瞬間。


 ゲルハルト閣下は視線を逸らし、再び椅子に深く腰掛けた。


「……ハンス。空いている執務室をこの女に与えろ。客室ではない、執務室だ」

「閣下!?」

「三ヶ月だ。三ヶ月以内に、帳簿の数字で俺を納得させてみせろ。……それまでは、この領地の泥を吸って生きるがいい」


「――ええ。望むところですわ」


 私は、勝者の微笑みを浮かべた。

 扉を閉める直前、背後から「……おい、ハンス。あの複式という計算、明日詳しく説明させろ」という低い声が聞こえたのは、内緒にしておいてあげましょう。

お読みいただき、ありがとうございます!

「数字」で辺境伯を黙らせるエルゼ様。これぞ内政モノの醍醐味です。

しかし、数字だけではお腹は膨れません。


次回、エルゼが領地の外へ飛び出し、あの「悪魔の草」をその手で摘み取るシーンへと繋がります。

果たして彼女の白い指が、泥に汚れる日は来るのでしょうか?


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