第29話 捕虜となった王太子。エルゼの足元で「帳簿係」を拝命する
「……は、離せ! 私は一国の王太子だぞ! 貴様ら、無礼であろう!」
朝靄の立ち込めるザイフリート広場。
パジャマ姿で震える数千の帝国兵の中に、一際「場違いな豪華さ」を纏った男が、衛兵たちに両脇を抱えられて引きずり出されてきた。
ジュリアン・ラ・ヴァリエール。
かつて私に「冷徹な人形」と吐き捨て、婚約破棄を突きつけた、あの元・王太子である。
「あら。帝国軍の艦隊の中に、なぜ王都の『落とし子』が混じっていらっしゃいますの?」
私は、ゲルハルト閣下の腕を借りて、壇上から彼を見下ろした。
ジュリアンの服は泥と酒で汚れ、かつての威光は見る影もない。彼は私と目が合った瞬間、救いを求めるように縋り付いてきた。
「エルゼ! ああ、エルゼ! 助けてくれ! 王都を逃げ出した後、帝国の船に拾われたのだ。だが彼らは私を賓客としてではなく、単なる『交渉のチップ』として檻に……!」
「――。貴様にエルゼの名を呼ぶ資格はない」
隣に立つゲルハルト閣下の殺気が、物理的な重圧となってジュリアンを地面にめり込ませる。閣下の大剣の鞘が床を叩く音だけで、ジュリアンは短い悲鳴を上げて失禁しかけた。
「閣下、落ち着いて。……この方は今や、金貨一枚の価値もない『不良債権』ですわ。殺してしまっては、これまでの滞納分が回収できませんもの」
私は、怯えるジュリアンの前に、一冊の薄汚れた帳簿を投げ捨てた。
それは、彼が王都で放蕩の限りを尽くし、我がアンハルト商会(クララ経由)が買い取った彼の「負債リスト」だ。
「ジュリアン殿下。貴方は帝国の捕虜ですが、同時に私の『債務者』でもあります。……帝国が貴方の身代金を払うはずもありませんし、王都に帰る場所もない。……わかりますわね?」
「な、何が言いたいのだ……」
「働いて返していただきますわ。……我が領では、計算のできない無能を養う余裕はありませんの。幸い、貴方は王族教育で最低限の算術は学んでいるはず。……ハンス様、彼を『第三倉庫の帳簿室』へ」
「はっ! 承知いたしました、エルゼ様。ちょうど、帝国から没収した備品の山に、誰の手も回っていなくて困っていたところです」
ハンスがニヤリと笑い、ジュリアンの首根っこを掴み上げる。
「待て! 私は王族だぞ! 事務作業など……あ、ああっ!?」
ジュリアンはそのまま、豪華な上着を剥ぎ取られ、ザイフリート領の「囚人労働用リネン」に着替えさせられて連行されていった。
かつて私を追放した男が、今は私の「黒字」を作るための端くれの歯車として、一生、数字の海に溺れることになる。……これ以上の「適材適所」が、他にあるかしら。
◇
「……エルゼ。やはり、あやつは処刑しておくべきだったのではないか」
執務室に戻ったゲルハルトは、未だに不機嫌そうに窓の外を睨んでいた。
彼の独占欲は、ジュリアンのような「過去の遺物」に対しても、一切の容赦がないらしい。
「閣下、嫉妬ですの? ……可愛いところがございますわね」
「……。嫉妬ではない。……不愉快なだけだ。貴様の過去を知る男が、この地で息をしていることがな」
ゲルハルトは私の腰を強引に引き寄せ、そのまま机の上に座らせた。
彼の瞳には、ジュリアンへの嫌悪を上書きしようとするような、深い、深い情欲の色が混じっている。
「……あんな男、私の中ではもう『計算外』の存在ですわ。……それとも、閣下が私を満足させてくださらないから、私が昔を懐かしむとでも?」
「――。抜かせ」
ゲルハルトが私の唇を奪おうとした、その時。
控えめな、けれど確固たる意志を持ったノックの音が響いた。
「……お取込み中、失礼するよ。辺境伯、そして魔女殿」
扉を開けて入ってきたのは、レガリア帝国第三皇子、ユリウス。
彼は捕虜となった自軍の兵士たちの惨状を見てもなお、一切の動揺を見せず、洗練された一礼を捧げた。
「皇子。……貴様、まだこの地に用があるのか。……それとも、今度は貴様が帳簿係になりたいのか?」
ゲルハルトが私を離さず、座らせたままユリウスを威圧する。だがユリウスは、その光景をむしろ「仲睦まじいことで」とでも言いたげに微笑んで受け流した。
「いや、私は『敗者』として来たのではない。……エルゼ殿。君が昨夜見せた『眠りの香り』。……あれは、戦場を無力化するだけではない。……人間の『本音』を引き出す効果もあるのではないかな?」
私は、ユリウスの瞳の奥にある真意を読み取ろうと、視線を細めた。
「あら。……自白剤としての転用を、既に見抜かれましたのね」
「確信に変わったよ。……そこで、商談だ。……レガリア帝国の内部には、皇帝陛下を盲信する狂信的な軍部――『黒鷲派』がいる。彼らは私の和平案を邪魔し、君を暗殺しようとした連中だ。……彼らを一掃するのに、君の『毒』を貸してくれないか?」
ユリウスが、懐から一通の『全権委任状』を取り出し、テーブルに置いた。
「もし君が協力してくれるなら、帝国はザイフリート領を『大陸唯一の自由貿易特区』として承認し、関税を永久に撤廃しよう。……どうかな、魔女殿。……帝国を、君の香水で『浄化』してみる気はないかい?」
静寂が流れる。
それは、単なる降伏勧告ではない。
帝国という巨大な権力構造そのものを、エルゼの「知恵」で解体し、再構築しようという……あまりにもえげつない、けれど魅力的な『投資』の提案だった。
「……ふふ。クララ、帳簿を。……レガリア帝国の『掃除コスト』、見積もりを出して差し上げましょう」
私はゲルハルトの腕の中で、最高に不敵な微笑みを浮かべた。
かつての婚約者は、倉庫で泥にまみれ。
新たな敵は、自ら首を差し出して、私の『知恵』を乞う。
ザイフリートの黒字は、ついに大陸の国境線さえも書き換えようとしていた。
第29話、お読みいただきありがとうございました!
ついに再登場したジュリアン王太子!
しかし、かつての威光はどこへやら、エルゼ様の「無給帳簿係」として最底辺からの再スタートです。パジャマ姿の帝国兵と一緒に算盤を弾く彼の姿、まさに「ざまぁ」の極みですわね(笑)。
そして、そんなジュリアンへの嫉妬を隠さないゲルハルト閣下の独占欲……。
「嫉妬ではない」と言いつつ、エルゼ様を離さない彼の執着っぷりに、ニヤニヤしていただけましたでしょうか?
次話、ついにユリウス皇子との「禁断の共同戦線」が始動。
帝国という巨大な巨像を、エルゼ様がどうやって「お掃除」してしまうのか。
そして、新章の締めくくりとなる『大陸の女王』への道が見えてきます!
「ジュリアンの転落っぷりが最高!」「閣下の独占欲、もっと重くして!」
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次回、大陸の女王へ。帝国皇帝との「対等なる決闘(商談)」。
お楽しみに!




