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第25話 「この女を帝国へ連れて行く」 ――ゲルハルト、人生最大の逆鱗

「……信じられん。これが、あの『悪魔の石鹸』の威力だというのか」


 ザイフリート領の北港を見下ろす高台。使節ヴィラールは、自軍の兵士たちが整然と並び、配布された温かい湯と石鹸で身体を洗っている光景を、信じがたいものを見る目で凝視していた。

 つい昨日まで、不機嫌に皮膚を掻き毟り、いつ反乱を起こしてもおかしくなかった荒くれ者たちが、今は子羊のように大人しく、ザイフリートの配給員に感謝の言葉すら述べている。


「ヴィラール様。……兵たちの士気は劇的に回復しております。ですが、問題が……」


 部下が震える声で報告を続ける。


「……彼ら、ザイフリートから支給される『乾燥したタオル』と『消毒済みの下着』がなければ、二度と黒鉄の鎧を着たくないと……そう、申しておりまして」


「……っ、馬鹿な! 帝国の誇りはどこへ行った!」


 ヴィラールが拳を壁に叩きつける。

 誇りでは、痒みは止まらない。そして一度知った「清潔」という快感は、どんな軍律よりも強く人間を縛り付ける。


 ◇


「あら、意外と早かったわね。帝国の兵士の方々は、よほど繊細な肌をしていらっしゃったのかしら?」


 城のテラスで優雅に朝のハーブティーを楽しむ私の前に、一枚の『追加発注書』が届けられた。

 そこには、石鹸、飲料水の浄化剤、そして疥癬かいせんの治療薬……。帝国の軍資金を、湯水のごとく消費するリストが並んでいた。


「エルゼ。……計算通りなのだろうが、顔が怖くなっているぞ」


 背後から、低い、けれど甘い声がした。

 ゲルハルト閣下が、私の椅子の背もたれに手を置き、覗き込むようにして耳元で囁く。彼の纏う鉄と冷気、そして微かな石鹸の香りが、私の鼻腔を心地よく刺激した。


「怖くなんてありませんわ、閣下。私はただ、商談の結果が数字として現れるのを喜んでいるだけですもの」


「……。貴様がそうやって笑う時、大抵どこかの国が破滅に向かっている。……だが、その顔も嫌いではない」


 ゲルハルトの大きな掌が、私の肩を抱く。指先が鎖骨をなぞるような、執着を感じさせる動き。

 

「……。閣下、帝国の使節がまた参りますわよ。今度は、ただの物乞いではなさそうですけれど」


 港の方角から、帝国の旗艦より一隻の豪華な小舟が近づいてくるのが見えた。

 乗っているのは、あのヴィラールではない。

 純白の外套を翻し、一際洗練された空気を纏った、若き男。


 ◇


 謁見の間に現れたのは、レガリア帝国第三皇子にして、大陸最強と謳われる魔導軍団の総帥、ユリウス・レガリアだった。


 彼はヴィラールのような下品な傲慢さは持ち合わせていなかった。

 代わりにあったのは、冷徹なまでの「品定め」の視線。


「――お初にお目にかかる、ザイフリート辺境伯。そして、現代の魔女殿」


 ユリウスは優雅に一礼したが、その瞳は真っ直ぐに私だけを射抜いていた。


「我が軍の兵士たちを、泡一つで骨抜きにした手腕。……感服したよ。君の知識は、もはや一領地の『特産品』として埋もれさせていいものではない」


「……お褒めにあずかり光栄ですわ、殿下。ですが、私の『特産品』は、相応の対価を支払える方にしかお売りしませんの」


「対価か。……いいだろう。帝国は、金貨で解決できるような段階を既に超えていると判断した」


 ユリウスが、一歩、私との距離を詰める。

 その瞬間、ゲルハルトが音もなく私の前に立ちふさがった。


「……皇子。その距離は、死を招くぞ」


「……。相変わらずだな、ザイフリート。だが、私は君に用があるのではない」


 ユリウスはゲルハルトの殺気を平然と受け流し、私に向かって手を差し出した。


「エルゼ・フォン・ザイフリート。……帝国は、君を『帝都首席賢者』として招待したい。いや、もはや命令に近い。……君の身柄と、その頭脳さえ手に入れば、帝国はこれ以上の侵攻を止めてもいい。……どうだ? 辺境の男の隣で石鹸を煮るより、私と共に、世界そのものを書き換えてみないか?」


 静寂。

 空気そのものが、発火しそうなほどに熱を帯びる。


 私は、ゲルハルトの背中越しに、ユリウスを見つめた。

 それは提案ではなく、明確な『略奪』の宣言だった。


「……ふふ。おかしなことを仰いますのね、殿下。世界を書き換えるのに、なぜ他人の妻が必要なのですか? ご自分の筆をお持ちにならないのかしら?」


「エルゼ。冗談を言っているのではない。君を渡せば、この領地の安全は永遠に保証される。……ザイフリート、君も領主なら分かるだろう? 一人の女と、数万の領民。どちらを救うべきか」


 ユリウスの言葉が終わるか終わらないかのうちに、室内に凄まじい『音』が響いた。


 ゲルハルトが、腰の剣を鞘ごと床に叩きつけたのだ。

 石畳が砕け、部屋中が地震のような衝撃に震える。


「――皇子。貴様は、致命的な計算違いをしている」


 ゲルハルトの声は、もはや人間のものではなかった。

 氷の下で煮え立つ溶岩のような、剥き出しの狂気と独占欲。


「この女は、俺の魂だ。……俺から彼女を奪うということは、この地を救うことではない。……俺が、帝国という国そのものを、この地上から消し去るための理由を与えるということだ」


 ゲルハルトの瞳が、深紅の輝きを帯びる。

 

「エルゼを帝国へ連れて行く? ――やってみろ。……その前に、帝都の空を、貴様ら皇族の血で赤く染めてやる」


 ゲルハルトの手が、私の腰を痛いほどの力で引き寄せる。

 

「……。閣下、少し……苦しいですわ」


「……。放さん。……死んでも、貴様をどこへも行かせん」


 私は、彼の胸の中で、そのあまりに重く、あまりに激しい愛を感じていた。

 

 帝国。

 貴方たちが狙ったのは、ただの賢者ではありませんでしたわね。

 貴方たちが呼び覚ましてしまったのは、愛する女のためなら、世界さえも灰にする『怪物』の怒りなのですから。

第25話、お読みいただきありがとうございました!

ついに現れた帝国の本命、ユリウス皇子。

彼が提示した「エルゼの身柄」という要求が、ゲルハルト閣下の逆鱗をこれ以上ないほど激しく踏み抜きました!


「俺の魂だ」と言い切るゲルハルト。独占欲がカンストして、ついに『怪物』の本性を現し始めましたね。

これぞ、愛するがゆえの狂気。読者の皆様、ゲルのブチ切れ具合にニヤニヤしていただけましたでしょうか?


次話、ユリウス皇子のさらなる工作が始動。

しかしエルゼ様は、ゲルの怒りを「火力」に変え、帝国を根底から揺さぶる『ある発明』を完成させます。


「ゲルの嫉妬、もっと見たい!」「エルゼ様を奪おうなんて百年早い!」

と思ってくださった方は、ぜひ【下部の☆☆☆☆☆】をポチッと押して評価、または【ブックマーク】をお願いいたします!

皆様の応援が、ゲルの独占欲をさらに重くさせますわ!


次回、ザイフリートの夜に咲く『鉄と火の薔薇』。

お楽しみに!

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