第16話 聖女の亡命。クララ・フォン・アンハルトの正体
ザイフリート領に春の兆しが見え始めた頃。
城門の前に、一台の質素な馬車が滑り込んできた。王家の紋章を隠すように泥が塗られ、御者も持たぬ、逃亡者のような風体。
降りてきたのは、薄汚れた修道女の服を纏った、一人の女性だった。
「……あら。王都の『聖女様』が、こんな僻地で巡礼かしら?」
私は、ゲルハルト閣下の腕を借りて、城の玄関先で彼女を出迎えた。
かつて私から王太子の婚約者の座を奪った(とされている)、クララ・フォン・アンハルト。可憐で、儚げで、誰からも守られるべき「聖女」……。
だが、私の前に立った彼女は、ふい、と猫被りの微笑みを脱ぎ捨てた。
「……ハッ。相変わらず嫌味な女ね、エルゼ。……水。それから、まともな椅子を用意して。三日三晩、あの無能な王太子から逃げてきたんだから」
その声は、王都で聞いた鈴を転がすような甘いトーンではない。
低く、どこか冷笑的な、実務家の響き。
私は、隣にいるゲルハルト閣下を一瞥した。閣下は不審そうに眉を寄せているが、私は確信を持って彼女を応接室へと誘った。
◇
「さて、クララ様。……いいえ、アンハルト商会の御令嬢。王太子殿下との『真実の愛』はどうされたの? 今頃は王宮で、私のいない予算表に頭を抱えているはずでは?」
私が差し出した最高級の紅茶を一口飲み、クララはふぅ、と深い溜息をついた。
「……愛? そんな非生産的なもの、一週間で飽きたわ。あの男、私が『エルゼ様ならこうします』と助言するたびに逆上して、最後には王室の裏金を引き出して宝石を贈ってきたのよ? 経済破綻の足音が聞こえているのに、なんて無能なの」
クララは、懐から一冊の汚れた手帳を取り出し、テーブルに叩きつけた。
「これは、私がアンハルト商会の名義で王都中から回収した『債権』のリストよ。……エルゼ、貴女なら分かるわね? これをどう使えば、あの王太子を物理的に路頭に迷わせられるか」
私はリストを一瞥し、思わず眉を上げた。
……恐ろしい女。彼女は、王太子に愛される「聖女」の仮面を被りながら、その裏で王家の経済的な急所をすべて握っていたのだ。
「貴女、私を売りに来たわけではないようですわね」
「当たり前でしょう。……エルゼ。貴女がこの領地で始めた『香水ビジネス』、あれは天才的だわ。けれど、物流とブランディングが甘すぎる。……私を、ザイフリート領の『通商局長』として雇いなさい。そうすれば、半年以内にこの地の香水を『大陸の通貨』に変えてみせるわ」
クララが、獰猛な肉食獣のような瞳で私を見つめる。
そこには、王太子に媚びていた「聖女」の姿は微塵もなかった。
「……閣下。いかがいたします? 彼女は王都では指名手配される身となるでしょう。ですが、彼女の持つアンハルト商会の物流網は、我が領の発展に不可欠ですわ」
ゲルハルトは腕を組み、しばらくクララを品定めするように見つめていた。
「……。エルゼが信じるなら、俺は何も言わん。だが……」
彼は私の肩に手を置き、クララに向かって地を這うような声を向けた。
「エルゼの仕事を増やすような真似をしてみろ。……アンハルトの商脈ごと、この地の土に埋めてやる」
「……っ。怖い辺境伯様ね」
クララは肩をすくめたが、その口角は吊り上がっていた。
「面白いわ。追放された氷の令嬢、鉄仮面の辺境伯。そこに、王都を捨てた偽聖女。……最高のチームだわ。ねえ、エルゼ。一緒に世界中の男たちから金を毟り取ってやりましょう?」
私は、思わず小さく笑い声を漏らした。
まさか、自分からすべてを奪ったはずの女と、こうして握手を交わす日が来るなんて。
「ええ、いいでしょう。……ですが、クララ局長。私の『帳簿』は厳しいわよ? 覚悟しておいてくださる?」
「望むところよ、エルゼ社長!」
ザイフリート領に、新たな「牙」が加わった。
香水、物流、そして圧倒的な知略。
大陸全土を揺るがす、新生ザイフリート連合の快進撃は、ここから加速していく。
……その頃、王都。
金庫も、愛する聖女も、有能な元婚約者も失ったジュリアン王太子が、誰もいない舞踏会で叫び声を上げていたが――それは、もう私たちが知る由もないことだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第2章の開幕、まずは心強い(?)相棒の登場です。
「聖女」の正体は、実はエルゼ以上に毒舌なビジネスウーマンでした。
有能な女性たちが手を組み、自分たちを軽視した世界を塗り替えていく爽快感!
「女同士の友情、熱い!」「クララさんの性格、最高!」
と思ってくださった方は、ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと幸いです。
次回、エルゼとクララの「香水ブランド化戦略」が始動。
ですが、成功を妬む近隣諸国が、禁断の「魔法コピー品」を市場に流し始め――?
お楽しみに!




