第15話 鉄の荒野に、奇跡の香りは舞い降りる
王太子の馬車が巻き上げた砂埃が、北の地平線に消えていった。
嵐が去った後のザイフリート城には、かつての重苦しい沈黙ではなく、穏やかで誇らしげな空気が満ちていた。
「……お嬢様。これ、領民たちからですわ」
侍女のアンナが差し出したのは、銀細工の小さな小箱だった。
蓋を開ければ、そこには私たちが精製した最高級の精油を染み込ませた、香木の花束が入っている。不格好ではあるけれど、職人たちが一つ一つ手作りしたことがわかる温かみがあった。
城の外を見れば、赤茶色だった川は透明度を増し、浄化設備を通った水が畑へと流れ込んでいる。
かつて死に体だった鉱山からは、今や「鉄」ではなく、世界を魅了する「香り」という名の黄金が産み出されていた。
「エルゼ。……少し、付き合ってくれ」
背後から声をかけられ、私は振り向いた。
そこには、正装を纏ったゲルハルト閣下が立っていた。鉄仮面と呼ばれた彼の表情は、今や私だけに見せる、深い情愛を秘めた穏やかなものへと変わっている。
彼に導かれ、私たちは領内を一望できる丘へと向かった。
沈みゆく夕陽が、ザイフリートの地をオレンジ色に染め上げる。風が吹くたびに、工場の煙突から漂う「花の香り」が、領民たちの笑い声と共に運ばれてきた。
「……半年だ。貴様がここへ来てから、まだ半年しか経っていない」
ゲルハルトが、感慨深げに呟く。
「貴様は、この死にゆく地に息を吹き込んだ。……そして、俺の凍りついていた心にもな」
「私は、ただ数字を合わせただけですわ。……この地を信じ、私を支えてくださったのは、閣下ではありませんか」
私は、彼の無骨な掌に自分の手を重ねた。
王都にいた頃の私の手は、白く滑らかで、けれど空虚だった。
今の私の指先には、ペンだこがあり、微かな火傷の跡がある。けれど、この手で掴み取った「黒字」と「未来」は、どんな宝石よりも私を輝かせていると確信できる。
ゲルハルトが、私の前に膝をついた。
戦場を駆け抜けた猛将が、一人の女性の前で、最も無防備な姿を見せる。
「エルゼ・フォン・クロムウェル。……いや、エルゼ。俺は、貴様の知性に心酔し、その魂に恋をした」
彼は懐から、一つのリングを取り出した。
それは金でもプラチナでもない。この地の誇りである「鉄」を精鍛し、その中心に最高級の香水瓶を模したダイヤモンドを埋め込んだ、世界に一つだけの指輪。
「俺と共に、この地の未来を築いてほしい。……ビジネスのパートナーとしてではない。我が妻として、生涯俺の隣にいてくれないか」
夕陽を背にした彼の瞳に、迷いはなかった。
王太子から与えられた、お飾りのような婚約ではない。
泥を啜り、汗を流し、共に戦い抜いた果てに辿り着いた、魂の契約。
「……。閣下、一つだけ条件がございますわ」
私は、震える声を抑えて不敵に微笑んだ。
「私の愛は、非常にコストがかかりますのよ? ――一生、私を退屈させないと、帳簿に誓っていただけますか?」
ゲルハルトが、初めて子供のように快活に笑った。
「ああ。……一生をかけて、貴様の計算を狂わせてやろう」
指輪が、私の指に嵌められる。
鉄の匂いがする腕に抱き寄せられ、唇が重なった。
鼻腔をくすぐるのは、私たちが作り上げた、気高く甘美な香。
かつて、追放された夜。
私はすべてを失ったと思っていた。
けれど、今ならわかる。あの絶望は、この愛すべき居場所へと辿り着くための、道標に過ぎなかったのだと。
鉄の荒野に、奇跡の香りは舞い降りた。
けれど、私たちの物語は、まだ始まったばかり――。
私は彼の胸に寄り添い、新しく刻まれるはずの、幸せな未来の帳簿に思いを馳せた。
第1章『鉄の荒野に、奇跡の香りは舞い降りる』――完。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
「氷の令嬢」エルゼと「鉄仮面」ゲルハルトの戦いと恋、楽しんでいただけましたでしょうか?
王太子を撃退し、ついに結ばれた二人。
ですが、ザイフリート領の快進撃は止まりません!
第2章では、エルゼの香水が「海」を越え、隣領の毒舌聖女クララと共に世界市場を席巻する『商戦編』が始まります。
「二人の結婚生活が見たい!」「新事業で世界を跪かせてほしい!」
と思ってくださった方は、ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと、白鷺ユウの執筆速度が3倍になります!
第2章の開始をお楽しみに!




