第13話 飢えているのは誰かしら? 宝石よりも香りを求める貴婦人たち
王都――ラ・ヴァリエールの社交界は、阿鼻叫喚の図頭に包まれていた。
「……どういうことですの!? 来週の夜会用の『ザイフリート第3番』が届かないなんて!」
「申し訳ございません、公爵夫人……。ザイフリート領からの荷が、国境ですべて差し止められておりまして……」
宝石店や香料店では、淑女たちが店主に詰め寄り、扇を激しく打ち鳴らしている。
エルゼが放った「輸出停止」という矢は、王都の華やかな生活の根底を容赦なく射抜いていた。一度その至高の芳香を知ってしまった彼女たちにとって、これまでの安価な香水は「ただの混ざり物」にしか感じられない。
この不満の矛先は、当然、輸出を止めさせた原因――すなわち、エルゼへの不当な圧力を強めた王太子ジュリアンへと向かう。
「ジュリアン殿下、説明していただきたいわ。あんな有能なエルゼ様を追い出し、挙句に私たちの愉しみまで奪うなんて……。これでは次の舞踏会、何を纏って出席すればよろしいの?」
母妃や有力な公爵夫人たちからの冷ややかな視線に、ジュリアンは冷や汗を流しながら立ち尽くすしかなかった。
◇
一方、嵐の元凶であるザイフリート領は、奇妙なほどの静寂と充足感に包まれていた。
深夜。
執務を終えた私は、火照った身体を冷ますためにバルコニーへと出た。
夜風に乗って、遠くの工場から微かに花の香りが漂ってくる。かつての「鉄の匂い」は、もう思い出せないほど遠い。
「……こんな時間に、冷えるぞ」
背後から掛けられた、聞き慣れた低い声。
振り返るよりも早く、肩にずっしりと重厚な毛皮のショールが掛けられた。
ゲルハルト閣下だ。
「ありがとうございます、閣下。……王都の方は、今頃大変なことになっているようですわね」
「ハンスの報告では、王太子への嘆願書が山のようになっているらしいな。……貴様は、最初からこうなることが分かっていたのか?」
「ええ。美しさは、時に食糧よりも人を狂わせますの。……ましてや、一度手に入れた『最高』を奪われる苦しみは、プライドの高い彼女たちには耐えられませんわ」
私は手すりに寄りかかり、暗闇に沈む領地を見下ろした。
そこには、新しく整備された街灯の火が、ポツリポツリと温かく灯っている。
「……閣下。私は、この光を守りたいのです。王都のあのお飾りのような生活ではなく、ここで泥を払い、明日を夢見る人たちの暮らしを」
ゲルハルトが、私の隣に並んだ。
彼の大きな掌が、手すりの上で私の手に重なる。
「……。貴様がここへ来た時、俺はただの王都の跳ね返りだと思っていた。だが、今は違う」
ゲルハルトの視線が、熱を帯びて私を射抜く。
彼は私の手を持ち上げ、指先ではなく、掌の真ん中に深く、熱い口づけを落とした。
「エルゼ。貴様は俺の絶望を溶かし、この地に奇跡をもたらした。……もはや、貴様なしのザイフリートなど想像もできん。王太子が何を言おうと、俺は貴様を離さない。……例え、この命と引き換えにしてもだ」
その言葉は、もはや領主としての義務感ではない。
一人の男としての、剥き出しの執着。
「……大げさですわ。私を離したくないなら、もっと帳簿の精度を上げていただかないと。……来月は、新工場の設立費用を算出しなければなりませんのよ?」
私はわざと事務的な言葉を返したが、早鐘を打つ鼓動までは隠せなかった。
ゲルハルトは私の返答に苦笑しつつも、繋いだ手を離そうとはしなかった。
「……ああ。貴様が望むなら、いくらでも数字の海へ沈もう。……だが、今は少しだけ、このままでいさせてくれ」
二人の影が、月の光に長く伸びる。
甘美な香りと、鉄のような意志。
それが混ざり合うこの場所こそが、私の真の戦場であり、居場所なのだと確信する。
だが、その夜の平穏を破るように、城門から早馬の音が響いた。
「報告! 国境を越え、王太子ジュリアン殿下の馬車がこちらへ向かっております!」
私はゲルハルトと視線を交わし、不敵に口角を上げた。
「……案外、早かったですわね。お出迎えの準備をいたしましょうか、閣下?」
「ああ。……とびきり、苦いコーヒーを用意させておこう」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
王都での混乱と、ザイフリート領での二人の甘い夜。
「失って初めて気づく有能さ」という、ざまぁ展開の王道へと一気に加速していきます。
掌への口づけは、服従と深い執着の証――。
不器用なゲルハルト閣下の熱い想いに、「もっとやれ!」と思ってくださった方は、ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと幸いです!
次回、ついに無能な王太子と再会。
エルゼの冷徹な正論が、かつての婚約者を完膚なきまでに叩き潰します!
お楽しみに!




