悪役令嬢の中身が俺(男子大学生)な件について、イケメン執事の視線が色んな意味で厳しすぎる
純白の空間が広がる。足元はふわふわと不確かで、天も地も判別できない。音もなく、匂いもなく、ただ静寂だけが満ちている。
「……また来たわね、悠真さん」
振り返ると、そこには俺と同じ顔をした少女が立っていた。漆黒の髪、碧眼、完璧な容姿。鏡に映った自分――いや、この身体の本来の持ち主、アリア・アルセーヌだ。
「おう、大家さん。今夜も情報交換といこうぜ」
俺、悠真――現世では21歳の男子大学生だったが、今はこの美少女の身体に転生して一ヶ月が経つ。昼間は悪役令嬢として学園生活を送り、夜はこうして夢の中で本来の持ち主と会話する。我ながら忙しい二重生活だ。
「大家さんって呼び方、相変わらず奇妙ですわ……」
アリアは困ったように眉を寄せた。でも以前より表情は柔らかい。最初に会った時の警戒心と不安に満ちた顔とは大違いだ。
「いいじゃん。俺はお前の身体を間借りしてんだから、大家と住人の関係だろ? まあ、家賃は身体で払ってるわけだけど――って、うわ、この言い方めっちゃ卑猥じゃね?」
「悠真さん、その思考回路、本当にどうにかなりませんか……」
アリアが呆れ顔で溜息をつく。
「それより、今日は重要な情報があるんです。明日、学園で社交ダンスの授業があります」
「ダンス? あー、貴族のお遊戯ってやつか」
「お遊戯って……まあ、間違ってはいませんけど。そこで、リリィ・ハートフィールドがまたクロード殿下に近づいてくるはずです」
「あー、例の聖女候補ちゃんか。つーか、お前の婚約者なのに、よく他の女に言い寄られてんな、クロード王子」
アリアの表情が曇る。
「……政略結婚ですもの。愛情なんて最初からありませんわ。それに、リリィは本当に良い子なんです。ただ、彼女の周りの取り巻きが厄介で」
「取り巻きねえ。どうせ『聖女様てぇてぇ』って騒ぐ連中だろ?」
「『てぇてぇ』って何ですか……まあ、そんな感じです。あなたが少しでもリリィに関わったり、クロード殿下に近づいたりすれば、また『高慢なアリアが聖女様に嫉妬している』って噂を流されます」
「わかった。完全スルーするわ。見猿、聞か猿、関わら猿の三猿体制で行く」
「……なんですかその例え」
「それよりさ、大家さん」
俺はニヤニヤしながら続けた。
「お前、リュカのこと好きなんだろ?」
アリアの顔が真っ赤になった。
「な、な、何を言い出すんですか!?」
「図星じゃん。昨日も『リュカを変な目で見ないでください』って力説してたし」
「それは、彼が大切な使用人だからで――」
「使用人じゃなくて、『男』として意識してんだろ? いいじゃん、素直になれよ」
アリアは俯いて、小さな声で呟いた。
「……でも、私には資格がありません。彼は、私を主として慕ってくれているだけ。それ以上を求めるのは、間違っていると思うんです」
その表情があまりにも切なくて、俺は思わず口を滑らせた。
「でもさ、リュカの奴、お前のこと――」
言いかけた瞬間、純白の世界が眩しく発光し始めた。目覚めの時間だ。
「あ、時間切れですわね。悠真さん、今日も私の身体、よろしくお願いします」
「おう、任せとけ。今日も悪役令嬢、完璧に演じてやるよ」
光の中に溶けていくアリアの姿を見送りながら、俺は思った。
この大家さん、マジで不器用だな。
「――アリア様、お目覚めの時間です」
低く落ち着いた、しかしどこか有無を言わさぬ圧を感じる声で、リュカが俺を起こす。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
「……んー、あと五分……」
「いけません。本日は社交ダンスの授業がございます。準備に時間がかかりますので、早めにお支度を」
リュカの手がカーテンを勢いよく開く。シャッ! という効果音が聞こえそうな勢いだ。
「うわっ、眩しっ! リュカ、お前、朝から容赦ねえな!」
「令嬢がそのような言葉遣いをなさいますと、私の教育が疑われます」
リュカの視線が、氷点下20度くらいの冷たさで俺を貫く。
「ご、ごめんなさい。すぐに起きますわ」
慌てて起き上がると、リュカは完璧な所作でドレスを用意してくれた。
今日のドレスは淡い青色で、社交ダンス用の動きやすいデザイン。袖は控えめで、スカートの裾には繊細なレースがあしらわれている。
「本日のドレスは、アルセーヌ家に代々伝わる舞踏用の正装です。品位を損なわぬよう、姿勢にはくれぐれもご注意ください」
「わかってるわよ」
そう言いながら着替えを手伝ってもらうのだが――コルセットの締め付けがえげつない。
「リュカ、これ、もうちょっと緩くできない? 息ができないんだけど」
「できません。令嬢としての体裁を保つには、正しい姿勢が必要不可欠です」
「うぐぐ……拷問かよ……」
「拷問ではございません。貴族の嗜みです」
リュカはキッパリと言い切った。その表情には一片の迷いもない。
(こいつ、絶対ドSだろ……)
着替えの最中、ふとリュカの横顔を見た。整った顔立ち、真剣な眼差し、そして――今、彼が俺の髪を結い上げるために屈んだ瞬間、首筋がちらりと見えて――
(やべ、色気ある……)
「……アリア様?」
「な、なんでもないわよ!」
リュカの怪訝そうな視線を受けながら、俺は内心で冷や汗をかいた。
「アリア様、顔が赤いですが、体調がすぐれないのですか?」
「大丈夫よ! ただ、ちょっと暑いだけ!」
「室温は適切なはずですが……」
リュカが俺の額に手を当てようとする。その距離の近さに、心臓がドキッとした。
(やべえ、これ、大家さんの感情が混ざってんのか? それとも俺が単純に美形に弱いだけか? いや、元男子なんだから、男にドキドキするわけないよな? でも、この身体は女で――ああああ、わけわかんねえ!)
「アリア様、本当に大丈夫ですか? 顔色がさらに悪くなったように見えますが」
「大丈夫って言ってるでしょう! ほら、朝食の準備は!?」
「既に整えてございます」
リュカはスッと身を引き、完璧な所作で扉を開けた。
朝食のテーブルには、控えめながらも丁寧に調理された料理が並んでいる。アルセーヌ家の財政難を考えれば、これでもリュカが相当工夫してくれているのだろう。
「いただきます」
「召し上がれ」
リュカは俺の隣に立ち、じっと見守っている。
(この視線、プレッシャーやばいんだけど……)
ナイフとフォークを使って、慎重に食事を進める。一つ一つの動作が、貴族の作法に則っているか、リュカの視線が厳しくチェックしている気がする。
「アリア様、肘が上がっております」
「……はい」
「姿勢が崩れております」
「……はい」
「ナイフの角度が――」
「わかってるわよ!」
思わず声を荒げてしまった。
リュカは一瞬だけ、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「……失礼しました。少々、厳しすぎましたね」
「別に、いいわよ。あなたが厳しいのは、いつものことだし」
そう言うと、リュカは静かに微笑んだ。
その笑顔が、またやばい。
(くそっ、大家さんがこいつに惚れるの、マジでわかるわ……)
朝食を済ませ、学園へ向かう馬車の中。リュカは最後の注意を述べた。
「本日の社交ダンスの授業では、クロード殿下も参加されます。くれぐれも、殿下を刺激するような言動は慎んでください」
「わかってるわよ。完全スルーする」
「……スルー、とは?」
「あ、えっと……無視するってことよ。関わらないようにするわ」
リュカは一瞬眉をひそめたが、すぐに元の無表情に戻った。
「それが賢明です。アリア様の立場を考えれば、余計な波風は立てるべきではありません」
「でもさ、リュカ」
「はい」
「もし、私がクロード殿下と仲良くなれたら、あなた、どう思う?」
リュカの表情が、一瞬だけ強張った。
「……それは、アリア様のご判断次第です。私は、あなたの決断を尊重します」
「そう。ならいいわ」
(……今の表情、何だったんだ?)
馬車が揺れる中、俺はリュカの横顔をちらりと見た。
彼はじっと前を見つめていて、その瞳には何か複雑な感情が渦巻いているように見えた。
学園に着くと、案の定、周囲の視線は冷たい。
「アリア様が来たわ……」
「また一人なのね……」
「あの方、本当に殿下の婚約者なのかしら」
ひそひそ話が耳に刺さるが、もう慣れた。
むしろ、ここで怯んだら負けだ。
俺は背筋を伸ばし、つり目がちの碧眼で周囲を睥睨した。唇の端を僅かに吊り上げ、鼻で笑うような仕草を加える。
「……ふん」
その瞬間、周囲の生徒たちがビクッと身を引いた。
(よし、完璧。これぞ悪役令嬢の威圧感!)
内心でガッツポーズしながら、俺は堂々と廊下を歩く。
「よう、アリア!」
明るい声が響いた。振り返ると、黒髪の少年――セス・リードが手を振っている。
「セス。学園内では品位を保ちなさいと、何度言えばわかるのかしら」
冷たく言い放つと、セスはケラケラと笑った。
「ははっ、相変わらず厳しいな。でもさ、今日のダンスの授業、お前も出るんだろ? 楽しみだな!」
「別に楽しみでも何でもないわ。ただの授業よ」
「そうかー? 俺は楽しみだけどなー。お前のダンス、見たことないし」
セスはニヤニヤしながら言う。こいつ、絶対何か企んでるだろ。
「セス、あなた、何を企んでいるのかしら」
「企むだなんて人聞きが悪いなあ。ただ、お前が一人ぼっちなのは可哀想だなって思っただけだよ」
その言葉に、俺は少しだけ胸が温かくなった。
「……余計なお世話よ」
「そう言うなって。俺たち、友達だろ?」
「友達……ね」
そう呟きながら、俺は教室へと向かった。
廊下を歩いていると、ふと視線を感じた。
振り返ると、金髪碧眼の美少女が立っていた。
リリィ・ハートフィールド。
彼女は俺を見ると、一瞬だけ戸惑ったような表情を見せたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、アリア様」
「……おはよう、リリィ」
リリィの笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かい。その純真無垢な雰囲気は、まさに「聖女」という言葉がぴったりだ。
(うわ、マジで天使じゃん。こんなん、誰でも好きになるわ……)
「アリア様、今日のダンスの授業、楽しみですね」
「……ええ、まあ」
「私、実はダンスが少し苦手で……アリア様は、きっとお上手なんでしょうね」
リリィは少し恥ずかしそうに笑う。
その仕草があまりにも可愛らしくて、俺は思わず顔を背けた。
「そんなことないわ。私も得意ではないもの」
「まあ、そうなんですか? でも、アリア様は何でも完璧にこなされるから……」
「完璧なんかじゃないわ」
俺はキッパリと言い切った。
リリィは少し驚いたような顔をしたが、すぐにまた微笑んだ。
「アリア様……優しいんですね」
「優しくなんかないわ。ただの事実を述べただけよ」
そう言って、俺はその場を離れた。
(……やべえ。あの子、マジで聖女だわ。あんな純粋な笑顔向けられたら、誰だって守りたくなる)
だが、俺は悪役令嬢だ。
聖女とは、対極の存在。
それでいい。
それが、俺の役割だ。
社交ダンスの授業が始まった。
広い舞踏室には、生徒たちがペアになって並んでいる。
そして、その中心に――彼がいた。
クロード・ヴァレンティス。
第3王子にして、俺の婚約者。
金色の髪、鋭い瞳、引き締まった体躯。その佇まいは、まさに王子というべき華やかさと、どこか荒々しい野生味を併せ持っている。
彼は教官と何か話していたが、ふとこちらを見た。
その瞬間、俺と目が合った。
クロードの瞳が、一瞬だけ鋭く光る。
(うわ、睨まれた……)
俺は慌てて目を逸らした。
「では、基本のステップから始めます。ペアのいない方は――」
教官が俺を見た瞬間、セスが手を挙げた。
「先生! 俺、まだペア決まってません! アリアと組んでいいですか?」
「セス・リード君か。構わんが……アリア・アルセーヌ嬢、よろしいか?」
全員の視線が俺に集まる。
特に、クロードの視線が刺さる。
「……ええ、構いませんわ」
セスがニヤニヤしながら近づいてきた。
「よろしくな、アリア」
「……あなた、わざとでしょう」
「まあな。お前、一人ぼっちは可哀想だし」
憎まれ口を叩きながらも、セスの優しさが嬉しかった。
音楽が流れ始め、ダンスが始まる。
基本ステップはアリアの記憶を頼りに何とかこなせた。セスは意外とリードが上手い。
「セス、あなたダンス上手いじゃない」
「田舎貴族だからって舐めんなよ。こう見えて、俺んちは社交には厳しいんだ」
「へー、意外」
「意外って……まあいいや。それよりさ、アリア」
「なに?」
「クロード殿下、ずっとお前のこと見てるぞ」
「え?」
慌てて視線を向けると、クロードがこちらを見ていた。
いや、正確には、俺とセスのダンスを見ていた。
その表情は、冷たく、そしてどこか……険しい。
「……気のせいよ」
「そうかー? 俺には、殿下が嫉妬してるように見えるけどなー」
「嫉妬なんてするわけないでしょう。政略結婚なんだから」
「でもさ、お前ら婚約者なんだろ? 殿下、本当はお前のこと――」
その瞬間。
「きゃっ!」
悲鳴が聞こえた。
振り返ると、リリィがバランスを崩して倒れそうになっている。
クロード王子が咄嗟に駆け寄り、彼女を支えた。
「大丈夫か、リリィ」
「す、すみません、殿下……」
リリィは涙目になっている。そして、彼女のドレスの裾が破れていた。
周囲の生徒たちがざわつく。
そして――リリィの取り巻きの一人、貴族令嬢が俺を睨んだ。
(……ああ、やべえ。これ、絶対俺のせいにされるやつだ)
案の定、その令嬢が叫んだ。
「アリア・アルセーヌ! あなた、リリィ様の邪魔をしたんでしょう!?」
「はあ!? 私、ずっとセスと踊ってたんだけど!」
つい素が出た。周囲がさらにざわつく。
「その言葉遣い……やはりあなたは品位に欠けるわ! リリィ様に嫉妬して、わざと――」
「待て」
低く、しかし圧倒的な威圧感を持った声が響いた。
クロード王子だった。
彼は令嬢を一瞥すると、冷たく言い放った。
「リリィのドレスが破れたのは、彼女自身がステップを誤ったからだ。アリアは関係ない」
王子の冷静な指摘に、令嬢は黙り込んだ。
リリィも慌てて言う。
「そ、そうです! アリア様は何もしていません! 私が不注意だっただけで……本当にごめんなさい、アリア様!」
リリィは涙を浮かべながら、俺に向かって頭を下げた。
(……マジで天使かよ、この子)
周囲の空気が変わる。俺は深呼吸して、できるだけ冷静に言った。
「リリィ様、お怪我はありませんか?」
「え……あ、はい、大丈夫です……」
リリィは戸惑ったように俺を見た。
本当は、ここで優しく声をかけて和解ムードにしたいところだが――アリアの指示を思い出す。
『絶対に関わらないでください』
俺は踵を返し、何事もなかったように元の位置に戻った。
だが、その瞬間――クロードの視線が、また俺に向けられた。
今度は、さっきとは違う。
まるで、何かを確かめるような、探るような眼差し。
(……何なんだよ、あの目は)
セスが小声で囁く。
「お前……優しいんだな」
「別に。ただ事実を述べただけよ」
「嘘つけ。顔、赤いぞ」
「う、うるさいわね!」
授業が終わり、俺は足早に教室を出た。
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「アリア・アルセーヌ」
振り返ると、クロード王子が立っていた。
その姿は、まさに絵画から抜け出たような美しさだ。金色の髪が夕日に照らされ、まるで光輪のように輝いている。
だが、その表情は険しい。
「……クロード殿下。ご用でしょうか」
「先ほどは、リリィを庇ってくれたな」
「庇ったわけではありません。事実を述べただけです」
冷たく言い放つと、王子は一歩近づいてきた。
その距離の近さに、心臓がドキッとする。
「お前は……変わったな」
「変わった?」
「以前のお前なら、あの場で取り巻きと争っていただろう。だが、今日のお前は違った」
クロードの瞳が、じっと俺を見つめる。
「まるで、別人のようだ」
(……やべえ、バレてる!?)
冷や汗が背中を伝う。
「別人だなんて、失礼ですわね。私は私ですわ」
「そうか」
クロードは少しだけ表情を緩めた。
「……だが、礼を言う。お前がリリィを庇ってくれたこと、感謝している」
「結構です。では、失礼します」
俺はそのまま立ち去った。
内心では、心臓がバクバクしていた。
(なんだよ、あの王子……近すぎだろ! しかも、あの眼差し、何!? ドキドキしちゃったじゃん!)
いや、違う。これは大家さんの感情が混ざってるだけだ。俺が王子にドキドキするわけがない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は足早に屋敷へと向かった。
屋敷に戻ると、リュカが待っていた。
「お帰りなさいませ、アリア様。本日の授業はいかがでしたか」
「……まあ、無事に終わったわ」
「そうですか。それは何よりです」
リュカの表情は相変わらず無表情だが、どこか安堵したように見えた。
「アリア様、少々お顔色がすぐれないようですが」
「え? そう?」
「はい。頬が紅潮しております。もしかして、学園で何かありましたか?」
リュカの鋭い視線が俺を貫く。
「べ、別に何もないわよ! ただ、ダンスで疲れただけ!」
「……そうですか」
リュカは納得していないようだが、それ以上は追求しなかった。
夕食を済ませ、部屋に戻る。ベッドに倒れ込むと、一日の疲れが押し寄せてきた。
「ふう……今日も何とか乗り切ったな……」
そして、眠りに落ちる。
純白の空間。
「お疲れ様です、悠真さん」
アリアが微笑んでいた。
「おう、大家さん。今日も色々あったぜ」
俺は今日の出来事を報告した。リリィの件、クロード王子との会話、全部。
アリアは真剣に聞いていたが、最後に言った。
「よくやってくださいました。でも……クロード殿下とは、やはり距離を保ってください」
「なんでだよ。ちょっとは関係改善できるかもしれないじゃん」
「それは……」
アリアは言葉を濁した。
「悠真さんは知らないかもしれませんが、クロード殿下と私の婚約は、政略的なものです。彼の心は、最初から私には向いていません」
「……そうなのか」
「ええ。それに、もし私が殿下と親しくなれば、リュカが――」
アリアはそこで言葉を切った。
「リュカが、どうした?」
「……いえ、何でもありません」
「嘘つけ。お前、何か隠してるだろ」
アリアは俯いた。
「悠真さん、お願いがあります」
「なんだ?」
「リュカを、守ってください」
「守る? 何から?」
「それは……まだ、お話しできません。でも、もうすぐ、アルセーヌ家に大きな変化が訪れるはずです」
アリアの表情は、不安と決意が入り混じっていた。
「大家さん、お前、マジで何か隠してるだろ。教えてくれよ」
「……ごめんなさい。今は、まだ言えません」
その時、純白の世界が揺らいだ。
目覚めの時間にはまだ早い。
「これは……」
アリアが驚いた表情を見せた。
「誰かが、無理やり私たちの夢を覗こうとしています」
「はあ!? そんなこと可能なのか!?」
「高度な精神魔法を使えば……悠真さん、すぐに目を覚ましてください! 危険です!」
アリアが俺の手を掴む。その手は震えていた。
「待て、お前はどうするんだ!」
「私は大丈夫です。早く!」
光が眩しくなり、俺の意識は強制的に現実へと引き戻された。
目を開けると、部屋は真っ暗だった。 だが、窓の外に人影が見えた。
(……誰だ?)
ゆっくりとベッドから降り、窓に近づく。 人影は黒いローブを纏っていて、顔は見えない。そいつは俺を見つけると、すぐに姿を消した。
「アリア様!」
ドアが勢いよく開き、リュカが飛び込んできた。息が荒い。普段の彼からは考えられないほど、動揺している。
「大丈夫ですか!? 今、邸内に不審者が――」
「リュカ……窓の外に、誰かいた」
リュカの顔から血の気が引いた。彼は一瞬、俺の顔を凝視し、それから拳を強く握りしめた。その指が、白くなるほどに。
「……すぐに警備を強化します。アリア様、今夜は私がこの部屋で待機します」
「え、でも――」
「議論の余地はありません」
リュカの声は、いつになく強かった。いや、強いというより――怒りを必死に抑えているような響きだ。 彼は部屋の隅に椅子を置き、そこに座った。剣を膝の上に置き、じっと部屋を見張っている。その横顔は、まるで石像のように硬い。
「……リュカ」
「はい」
「あなた、私のために、ずっとこうして守ってくれているのね」
リュカは少しだけ表情を緩めた。だが、その目には複雑な感情が渦巻いている。
「当然です。私は、アリア様の執事ですから」
「執事だから、だけ?」
その問いに、リュカは答えなかった。 ただ、剣の柄を握る手が、かすかに震えているのが見えた。
「……アリア様は、ご自分がどれほど大切な存在か、ご存知ですか」
「大切な存在?」
「ええ。あなたは、アルセーヌ家の唯一の後継者です。そして――」
リュカは言葉を飲み込んだ。
「そして?」
「……いえ、何でもありません」
リュカの横顔は、どこか苦しそうに見えた。 俺は何も言えず、ただベッドに横になった。 リュカの存在が、不思議と心強い。
(大家さんが、リュカを大切に思う理由、わかる気がするよ)
そして、俺はもう一度、眠りに落ちた。
翌朝。 リュカは徹夜で部屋を守ってくれていた。
「おはよう、リュカ。眠くない?」
「問題ありません。それよりも、アリア様。昨夜の不審者について、調査を進めます」
その目には隈ができている。だが、彼は決して弱音を吐かない。
「わかったわ。お願いね」
朝食を済ませると、リュカが真剣な顔で言った。
「アリア様。今後、何があっても、私はあなたをお守りします」
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
リュカは少しだけ躊躇してから、答えた。
「かつて、私が何もかも失った時、あなたは私を拾ってくれました。王子としてではなく、ただの人間として」
「それは……」
「あなたは私を『ただの執事』として扱いました。それが、私にとっては救いだったのです」
リュカの瞳には、深い感謝と――それ以上の、名前のつけられない感情が込められていた。
「だから、私はあなたのために、何でもします。たとえ、あなたが――」
「たとえ、私が?」
リュカは一瞬、苦しげに目を伏せた。
「……いえ、何でもありません」
リュカは言葉を飲み込んだ。
(こいつ、何を言いかけたんだ?)
だが、それ以上は聞けなかった。
その夜、俺は再び夢の中でアリアと会った。
「大家さん、昨日の侵入者、何者だったんだ?」
「わかりません。でも、おそらく……第一王子派閥の誰かでしょう」
「やっぱり、あいつらが黒幕なのか」
「ええ。でも、いつも証拠がないんです」
アリアは悔しそうに唇を噛んだ。
「なあ、大家さん」
「はい?」
「俺、決めたよ。お前の破滅フラグ、絶対に回避する。そして、リュカも守る」
アリアは驚いたように目を見開いた。
「悠真さん……」
「だってさ、俺はお前の身体を借りてるんだ。お前の大切な人は、俺の大切な人でもある」
「……ありがとうございます」
アリアは涙を流した。
「でも、一つだけお願いがあります」
「なんだ?」
「リュカには……私の気持ちを、伝えないでください」
「は?」
「彼は、私を主として慕ってくれています。それ以上の感情を押し付けるのは、間違っていると思うんです」
「でも、お前――」
「いいんです。彼が幸せなら、それで」
アリアの笑顔は、切なく、そして美しかった。
(……大家さん、お前、本当にいい子だな。なんで悪役令嬢だなんて……)
俺は心の中で呟いた。
俺は決意を新たにした。 この世界で、アリアとリュカ、そして俺自身のために、戦ってやる。 悪役令嬢だろうが何だろうが、関係ない。 俺は、この二度目の人生を、全力で生きる。
純白の世界が光に包まれる。
「じゃあな、大家さん。また今夜」
「はい。悠真さん、私の身体、よろしくお願いします」
アリアの姿が消えていく。 俺の意識も、再び現実へと戻っていく。
新しい朝が来る。 悪役令嬢アリア・アルセーヌとして、そして男子大学生・悠真として、俺の戦いは続く。 だが、もう怖くはない。 俺には、守るべき人がいる。 大家さんアリアと、忠実な執事リュカ。 そして、唯一の友人セス。 この世界で出会った大切な人たちのために、俺は前に進む。
――たとえ、執事の厳しい視線が痛くても。
【完】




