翼なき者
あの日、空はやけに青かった。
春先なのに、吐く息が白くなるほど寒かったのを覚えている。
けれど、俺の中にはそれ以上の冷たさがあった。
体温じゃなく、心の話だ。
「ねぇ、聞いた? あいつだよ、例の……」
「やっぱり変態だったんだね。最初から目つきがキモかったもん」
中学二年のとき、俺の人生は崩れた。
ある日突然、身に覚えのない“性犯罪者”のレッテルを貼られたのだ。
「女子トイレにカメラを仕掛けたらしい」――そんな噂がどこからともなく広がった。
事実なんて、誰も気にしない。証拠も確認されず、ただ“気持ち悪い”という雰囲気だけで、俺はクラス中から、いや学校中から爪弾きにされた。
担任は腫れ物に触るような態度を取り、両親でさえ「本当にやってないんだよな……?」と聞いてきた。
信じてくれる人間は、ひとりもいなかった。
学校に行かなくなり、家でも口を利かなくなって数ヶ月。
俺は、ただ空を見ていた。
部屋の窓から見える電線に、毎朝やってくるスズメたち。
――鳥はいいな。自由だ。誰にも否定されない。
そう思った。
けれど、俺に翼はない。
飛びたいと思っても、どこにも行けない。
死にたいとまでは思わなかったけれど、生きる意味は……わからなかった。
そんなある日、いつものように街をふらついていた俺は、ある光景を目にした。
交差点。信号が青から赤に変わろうとしている。
そのとき、ランドセルを背負った小さな女の子が、何かを落として慌てて車道に飛び出した。
「危ないっ!」
気づいたときには、体が動いていた。
何も考えず、全力で駆け出していた。
スニーカーがアスファルトを蹴り、風が耳を裂く。
大型トラックが猛スピードで迫ってくる。
クラクションが鳴り響き、女の子は振り返ったまま立ち尽くしていた。
――間に合え。
その瞬間、俺は彼女を突き飛ばし、自分が代わりに跳ねられた。
風景が回転する。
骨が砕ける音。世界が反転し、音が遠ざかっていく。
痛みは……不思議なほど、なかった。
そして次に目を開けたとき――俺は、空の中にいた。
雲も、空も、どこまでも続く青。
体は浮かび、周囲には柔らかな光が満ちていた。
「あなたの行動は、誰もができるものではありませんでした」
ふいに、澄んだ声が響いた。
振り返ると、そこに一人の女性がいた。
透き通るような金髪。白く輝くローブ。瞳は空のように淡い水色。
まるで“天使”のような姿――いや、彼女は天使ではなかった。
「わたしはこの世界の“管理者”のひとり。あなたの魂の行き先を決める存在です。名を、イル=フリエと申します」
「死んだ、のか……俺」
「はい。でも、あなたの魂は、美しく、尊いものでした。ですから――報酬を与えます」
イル=フリエは微笑みながら、羽のような光を浮かび上がらせた。
「一つ、質問させてください。あなたは――自由になりたいと、思いましたか?」
「……ああ」
思わず即答していた。
誰にも縛られず、何者にも否定されない存在に。
鳥のように、高く遠くへ飛べる自分に。
「では、あなたに授けましょう。“世界中のあらゆる鳥を従える力”を」
その瞬間、胸の奥に風が吹いたような感覚が走った。
体の奥底に、何かが流れ込んでくる。
鋭く、美しく、自由な、無数の視点がひとつになっていく。
「……あなたは、異なる世界へと送られます。そこではこの力が、あなたの生きる翼となるでしょう」
「異世界……? ゲームとかでよくある……?」
「はい。あなたはもう、翼を持っている」
イル=フリエは、そっと俺の胸に手を当てた。
「どうか、自分を信じてください。世界を変えてもいいのです」
その声が、だんだん遠ざかっていく。
視界が白く、輝きで包まれる。
――そして、俺は生まれ変わった。




