<キール>
ぼんやりとした意識のまま、結婚式の当日を迎えてしまった。頭の中に霞がかかったまま、気づくとすっかり身支度を整えられていた。
黒のベルベット地のジャケットに銀糸でふんだんに刺繍が施され、銀の釦が前立てに並んでいる。ジャケットの前を開けて着る為、ロイヤルブルーのベストにも同じ図柄の紺色の刺繍がこれでもかというほど施されているのが見える。柔らかい亜麻布が首の傷を隠してくれた。袖口と襟元からは刺繍を施した真っ白な亜麻布がのぞく。真っ白な亜麻布が、あの晩のイリーナを思い出させ、少し顔が熱くなった。
いつも手を伸ばせば、届くところにいたイリーナ。近くにいれば、いつでも守ることが出来るから安心できた。これからもずっと、そうだろうと思っていた。隣にあいた空間が、イリーナの不在を告げている。
首枷は外れたが、周りを兵士たちがものものしく囲んでいて、とても一人になることなど出来ない。式自体は本物の手順を踏む結婚であるから、一度式が済んで仕舞えば、なかった事には出来ない。王家は庶民とは違い、離婚が認められない。
結婚式が滞りなく進んでしまえば、イリーナと結婚することができなくなってしまう。気ばかり焦った。
「こちらへ」
玉座の間に貴族たちが並んでいる。主だった貴族たちは、ぼんやりとした顔をしていた。私もきっと同じ様な顔をしているに違いない。ヴォルコフ一族は見当たらなかった。婚約発表から、結婚までの期間が短かったのは、貴族たちを領地に帰さず、そのぼんやりとした頭のまま参列させるのが狙いだったに違いない。
玉座の前にソフィアが立っている。その少し離れた横にバーベリが立っていた。
一歩一歩が重いのは、気持ちのせいだろう。ソフィアの隣に立つ前に、何とかしなければ。
あと十歩ほどでソフィアの隣に並んでしまう。
ここで姿を変えれば、逃げる事ができる。昨日から出された食事や飲み物にはなるべく手をつけないようにしていたから、今頃になってやっと頭がはっきりしてきた。今なら動ける。けれど、ヴォルコフ家の私が人狼であることは国の機密事項。衆目を浴びる中で、一体何が出来る?
鐘が高らかに鳴り始めた。結婚式の始まりを告げる鐘だ。こうなったら、入り口を十重二十重に守る兵士を体当たりで突破して、イチカバチで走って部屋の外に出て……。
その時、耳が物音を捉えた。廊下から悲鳴と人や物の倒れる音が聞こえてきた。だんだん音が近づいてくる。ぼんやりした貴族たちも、何事だろうと音源を探して、ゆっくりと首を巡らす。
扉が勢いよく開いた。数名の兵士が駆け込んでくる。
「大変です!」
「式が始まるというのに、何事だ!」
バーベリ直属軍の隊長が怒鳴った。隊長はそれ以上何も言う事が出来なかった。何故なら、疾風の如くなだれ込んできた黒い塊に襲われたから。黒い流れは真っ直ぐにこちらに向かって来る。
周りにいた貴族たちが、まっすぐに進んでくる狼たちを避けて、回り込む様に先を争って逃げようと入口に殺到した。
「キール、地下ヘ!」
微かな声に促され、狼たちに囲まれて地下へ走る。バーベリを探したが、ソフィアを連れてとっくに逃げた様だった。
狼たちが守る様に並走してくれる。先頭は灰色の大きな狼。バーベリが兵をまとめて戻ってくる前に、フェオドラ様を救い出さなければ。
地下の入り口に立っている兵士たちが行手を阻もうと剣を抜いて立ちはだかると、狼たちが一斉に襲い掛かった。倒れた兵士の腰から剣を奪い、フェオドラ様が閉じ込められている地下の部屋の鍵を開けた。




