<キール>
イリーナが部屋にいるのではと、期待して部屋に戻ったが残り香しかなかった。イリーナが留まっていたバルコニーの手すりの残り香を吸い込み、撫でる。溜息が出た。
後ろで鎖を握る兵士達が、変なものでも見る様な目で私を見ているのが分かった。兵士がいなければ、きっと、いつまでも手すりにもたれて、残り香をかいでいたに違いない。とにもかくにも、イリーナがバーベリの手に落ちていないことにホッとした。
ルカが部屋からいなくなっていた。兵士たちはまだ気がついていない。控えの間にいると思っているのだろう。明日の朝、朝食を渡しにくるまでは、気がつかないに違いない。その間に出来るだけ遠くまで逃げてくれていれば良いが。イリーナにルカを逃す様に頼んだが、どうやって逃したかは、考えない様にした。後は、フェオドラ様を逃すだけだ。
翌朝、バーベリがソワソワしている様子が目に入った。咳払いをし、こちらを見て、また咳払いをする。口を開いたバーベリは緊張しているのか、妙に甲高い声で捲し立てた。
「あ、キール君、今夜久しぶりに舞踏会が開かれるから出席するように」
「フェオドラ様不在のまま、舞踏会? バーベリ殿がご自身の城で開くのか?」
「ソフィア様がこの城で主催する」
嫌な予感がした。
「こんなアクセサリーをつけて舞踏会に出るのは勘弁願いたい」
「そんな事を言わず、是非出席していただかなくては。もちろん、枷は外す。こちらの言うことに『否』と言うことは許されない事を覚えていてもらおうか。フェオドラ様のためにもね。今日の君の役目は、黙っていることと、ソフィア様と踊ること、その二点だ。」
舞踏会はヴォルコフ以外の貴族達が招待されていた。もちろん、首枷は外された。首の周りが擦れて赤くなっていた為、ハイカラーの上着を着る。どうしたものかと考えながら、昼食を取った。無意識に飲んでしまった飲み物に変な味がすると気づいた時には、もう遅かった。
舞踏会の席でバーベリが口を開いた。
「フェオドラ陛下がご病気のため、治られるまでソフィア様が代理を務められる。ソフィア様はここにいるヴォルコフ公爵の長男キール殿と、婚約する。キール殿と婚約していたイリーナ姫は現在、行方不明のためキール殿との婚約は解消した。現在、隣国ゲストルク国は王が身罷り、いつ我が国に攻め込んできてもおかしくない混乱状態と聞く。同じくイスエラ国は早くも、フェオドラ様ご不調と聞き及び、戦の準備を進めている。ソフィア様とキール殿には今週にも式を挙げて頂き、我々は一つにまとまり、国を守って行こうではないか!」
拍手が沸き起こる。「異議あり!」と叫ぼうと思ったが、声が出ない。ソフィアが入ってくると、皆一斉に首を垂れた。何がどうなっている? イリーナと婚約解消? 私は同意などしていない。ヴォルコフ家はどうした?
バーベリに背中を押され、ソフィアの前に出る。全く踊るつもりなどないのに、体が勝手にソフィアの手を取る。私は何をしているのだ? そう思ってはいても頭がぼんやりしていて、その先を考えることが出来ない。
不思議なことにステップを外すことなく踊っている様だ。全てが、まるで他人事の様に感じる。だんだん、意識に霞がかかってきた。
今週に式を挙げるとは誰のことだ?
身体は動くが、頭が全く働かない。何もかもがカーテンの向こう側の出来事のようだったバーベリが一瞬見せた薄笑いが、背を寒くした。




