<キール>
イリーナの婚約者の名前を聞いて、どこかで聞いたことがある名前だと思った。フェオドラのための薬の用意をしながら、やっと思い出した。イリーナが真っ黒な仔犬を「キール」と呼んでいたことを。いつも手元から離さず、眠る時も一緒に眠っていたことを思い出した。
「イリーナは、旅の途中で拾った犬にあんたの名前をつけていたよ」
「それだけ、私のことが恋しかったのだろう」
いけしゃあしゃあと言ってのける男を見て、勘違いじゃないのか、と言おうと思った。けれど、言われてみれば、イリーナはしょっちゅう「キール」と呼んで、犬に話しかけていた。
「兄様、と言っていたくらいだから、小さい頃からよく会っていたのか?」
「兄妹のように育てられ、いつもそばにいるのが当たり前だった」
てっきり、イリーナは僕が来るのをずっと心待ちにしていてくれたのだと思っていた。地下牢に、キールが通って来た時の事を思い出してみると……。
イリーナはキールに「添い寝」をせがんでいた。キスをされても嫌がらなかった。恋人同士のように戯れあっていた。あたり前の様に抱き上げられ、首に手を回していた。母さんの所で、そっくりな奴を見つけて、血相を変えて走っていき、飛びついていた。
初恋のイリーナを探し出し、自力で城から連れ出したことで有頂天になり、イリーナの態度や言葉を自分が都合よく解釈していた事に気がついた。不都合な記憶は、傍に押しやり、忘れていた。イリーナがずっと好きだったのは、婚約者のこの男だったんだ……。
そう気がつくと、急にこの男の前にいるのが恥ずかしくなってきた。今すぐ、この場から消えたくなったが、勘違いのあまり、イリーナを今の状況に追いこんでしまったからには、少しでも状況を回復させるのが、自分にできる事だと言い聞かせた。
一つだけ疑問があった。
「母さんの居館で、ラドミラと一緒にいたのはあんたか?」
「そうだが」
「イリーナがいるのに、何故ラドミラなんかと……」
「イリーナを探している最中に、事故に遭い記憶がなくなっていた所をラドミラに連れられて、カラナス居館へ行った」
「ずっと、イリーナを探していたのか?」
「もちろんだ。私がゲストルク城から彼女を連れ戻した」
「どうやって?」と聞こうと思ったが、ラドミラを利用したのだと気がついた。
僕はゲストルク城以降、イリーナの行方を掴めずに諦めてしまった。
正確に言えば諦めたと言うより、イリーナが魔物だとわかって怖くなってしまった。この男は彼女が魔物だと知っているのだろうか?
「イリーナが、その、姿を変えることを知っているのか?」
キールは黙って頷いた。完敗だ……。フェオドラを助けたら、国に帰ろうと決心した。




