<イリーナ>
聞いた瞬間に息が止まった。キールの顔が血まみれだったのは、逃げる際に仕方なく、誰か—ラドミラを傷つけたのかと思っていた。誰かを殺してきたとは思ってもみなかった。人を殺さねければならないほどの状況に追い込まれていたのだろうか?
「なぜ、トロフィム王を?」
「オルロフ国は、ソフィアを女王にしようとする一派と、イリーナを女王にと言う者たちに分かれ始めている。我が国に内乱が起こったと嗅ぎつければ、トロフィムはすぐにも攻めてくるだろう。だから、先手を打っておいた。トロフィムが亡くなれば、ゲストルク国はしばらく混乱し、我が国に攻め込む余裕がなくなるはずだ」
攻め込まれるのを未然に防ぐためだけに、トロフィム王は殺された……。キールは見たこともない冷たい表情で告げた。
「これは必要な事。フェオドラ様の暗殺指示はトロフィムから出されていたと、ルカも言っていたはずだ。だから、報復でもある」
私も人を殺めた。でも、それは、意識がなかった。決して望んでやった事ではなかった。キールはわかっていて、人を殺めた。その差はなんだろう。国を守る為? 何の意味もない殺人と、意味のある殺人の罪の重さは違うのだろうか?
何も生み出さず、何も守ることのなかった私の人殺しの方がより罪深いのだろうか。
いつの間にか考え込んで俯いてしまった私を慰める様に、先ほどとは打って変わった言い含める様な、優しい声。
「イリーナ、私は軍人だ。国のためには躊躇わず、人を殺める。イリーナは時期女王。君が直接手を下す必要はない。君の命令があれば、軍人たちは、他国に攻め込み、戦争をする。イリーナの命令があれば、喜んで命を捨てる者が大勢いる。私もその一人なんだよ」
「直接人を殺そうと、命令で人を殺そうとその罪は同じではなくて?」
「……もしかして、女王の荷が重すぎて、それが嫌で、ルカと逃げたのか? そうだとしたら、なぜ戻って来たんだ?」
「逃げたのはお姉さまたちの前で魔物になりそうだったから」
正直、お母様はまだ若く健康だったから、自分が後を継ぐことなどまだまだずっと先のことだと思っていた。
「お母様の治世では一度も戦争がない。だから、兵に命じて人を殺すなんて考えても見なかったの。キールが、殺されそうになったわけではないのに王を殺した事に驚いてしまって……。戻ってきたのは、ルカの言っていた、自由と私の自由は違いすぎたから」
他の命までも左右する自由。国を左右する自由。けれど、自分の事は決められない。生まれた時から決められている。私に自分やりたいことをやりたい様にする自由はない。地下室に閉じ込められるまで、そんな事にすら気が付かなかった。けれど、その中で選び取ることの出来る自由もある事に気づいた。
「え?」
キールが困惑している。他に何か言うべきだったのだろうか。
「でも、もう、いいの。それに、魔物である私を受け入れてくれるのはキールしかいない」
小さい頃からキールが側にいることが当たり前だった。でも、ラドミラ現れて分かった。キールが側にいるのは当たり前ではない。キールに側にいて欲しい。キールに他の誰かの側にいてほしくない。
キールは複雑そうな表情を振り払って、告げた。
「イリーナ、残念ながら、立ち止まっている時間はない。目撃者がいないから、ゲストルク王家から追われる心配はほぼないと言えるけれど、自国を内乱に陥らせない為には、一刻も早く帰国しなければならない」
いつの間にか座り込んでしまっていた。
「私に、国をまとめる事なんて、出来るの?」
「内乱や隣国が攻めてくれば、農民や商人たちは巻き込まれ、死ななくて良い命が失われる。それを防げるのは君だけなんだよ」
「姉様が王位を継いだら?」
「オルロフ国は、魔物と狼で守られて来た国。その魔物と狼の秘密が失われれば、滅ぶと言われている。ただの伝説かもしれない。でも、イリーナがこのまま姿を消せば、次に生まれる魔物は、ソフィアのように何も知らないで王家を継いだ者たちに、忌まわしき者として抹殺され続け、絶えてしまうだろう」




