<キール>
日が暮れてきたので、この居館の主であるヘレナという女性を捕まえて、ラドミラとは別の部屋を貸してもらおうと頼んだ。しかし、ラドミラ—女の名はラドミラと言った—に阻止された。
「あなたは私の部屋で休むのよ」
命令することに慣れた口調だった。ヘレナは気の毒そうな顔で、私を見た。ラドミラに逆らうことはできない様だ。昼間、私に向かって「兄様」と呼んだ少女は、それきり姿を見せない。何か思い出せそうなのに、思い出せなかった。後、もう少しなのに。
それにしても、ラドミラという女は鬱陶しかった。何かわかるかもしれない為、さっきの少女を探そうと部屋を出ると、すぐに腕を絡ませて付いてきた。
「さっきの子が気になるの?」
黙っていると、甘ったるい声で重ねて聞いてきた。
「ねぇ、ああいう子供みたいな子が好みなの?」
頭の中に「私はもう十六歳。子供じゃありません!」という声が響いたような気がして、なぜか微笑みそうになった。慌てて表情を取り繕って、冷たく言ってやった。
「……少し、一人になって考え事をしたいから、放っておいてくれないか?」
ラドミラの腕を振り解き、庭に出る。ラドミラがついてこないように、大股で歩き、しばらくあちこち歩き回った。人気の無い庭園の中の亭に落ち着き、暗い湖を見つめる。咲き残りの薔薇が仄かに香っている。いつの間にか日が落ちて、辺りは暗闇に包まれていた。
細い三日月の暗い夜。背後に人が近づいてくる気配を感じた。何故か振り向かなくても、あの少女だと分かる。少女を驚かさないように、ゆっくりと振り向いた。
蔓に覆われた亭の暗闇の中だというのに、細部まではっきり見えることに気がついた。そして、彼女もまた、灯火を持たずに真っ直ぐに私の方へ歩いてくる。彼女の香りが、私の何かを刺激した。懐かしい、よく知った香りだ。よく知っているどころか、それを嗅ぐと、今すぐ駆け寄って抱きしめたい気持ちになる。一歩前で彼女が立ち止まった。
「キール。私を覚えていないの?」
「残念ながら……」
心の底から、残念な気持ちになった。後悔と言ってもいい。どうしても、この妖精のような懐かしい少女を思い出したい気持ちに駆られた。
「これでも、思い出さない?」
少女の背から真っ黒な翼が現れた。何処かで見た事があった。私は目を見開いたまま、少女を穴のあくほど見つめた。黒い翼は不吉な象徴とされているが、黒い翼を生やした少女は、見惚れてしまうほど美しかった。
「私たちは婚約をしているの。それも、覚えていないの?」
少女は哀しそうに私の顔を覗き込んだ。少女は立ったまま、座っている私の顔を上向かせ、そっと両手で挟んだ。彼女の手が私に触れた刹那、闇色の翼が消えた。
「キールに間違いないわ……『姫のために命をかけた騎士に、気持ちをお示しください』で思い出さない?」
戸惑っていると、少女がそっと口付けてきた。その唇は甘く柔らかく、蕩けてしまうほどに切なかった。阻んでいる記憶の堅い殻に、少女の柔らかい唇がひびを入れた。何回か啄むように口付けられる度に、ひびがミシミシと広がっていく。
「キール……」
口付けの合間に名を呼ばれた途端に、塞がっていた記憶の殻が粉々に砕けた。
「……イリーナ……『有難き幸せ』だな」
イリーナの細い腰に腕を回し、膝の上に抱き上げた。二度と忘れないように、しっかりと抱きしめた。
「キール、あの人の所に戻らないで……」
イリーナはもたれかかりながら俯いている。思い出したのだから戻るはずがないが、少し意地悪して聞いてみた。
「どうして?」
暗闇の中でもわかるほどに、イリーナの顔が赤らみ熱を持った。そして、ぷいと横を向いてしまった。
「心配しているのかな?」
僅かに頷いたイリーナの様子が、あまりに可愛かった為、頭を抱き寄せキスをした。ルカがイリーナに何かしなかったかが心配になったが、痩せ我慢して聞かない事にする。
「早く石を取り返して、帰ろう」
仔狼の姿ではなく、人の姿のままイリーナと一緒にいたかった。国に帰れば、許婚同士、人型のまま一緒にいるのが自然だ。そのために一刻も早く石を取り戻したかった。
「私も早く帰りたい。帰ったら、毎日、もふもふで添い寝をして眠りたい」
「え?!」




