<キール>
気がつくと、ひどく地面が揺れている。馬車に乗せられていた。お腹と足元が温かい。誰かの膝の上の様だ。なんとか頭を持ち上げて、あたりを見回した途端、頭が割れる様に痛かった。
「あら、目が覚めたのね、良かった。うちの馬車にはねられてしまったのよ。多分、何処も怪我をしていないとは思うけれど……」
見知らぬ女性に頭を撫でられ、覗き込まれた。
「まぁ、綺麗な金色の瞳」
慌てて四つ足を踏ん張って立ち上がった途端に、再び意識を失った。
目を覚ますと、寝台の上で体に腕を回され眠っていた。いつの間にか夜になっていたらしい。ぼんやりしたまま、もぞもぞと動いていると、
「ここにいて良いのよ」
と言う声とともに頭を撫でられた。寝返りを打って頭を撫でた人の方へ向き直り、その人物をそっと抱きしめた。毎晩のように、誰かを守るように抱きしめて眠っていたような気がしたが、うまく思い出せなかった。まだひどい頭痛は治らない……。
「あなた……誰?」
驚いて目を見開いている女性の顔が目の前にあった。そう聞かれて、答えようとしたが、答えが出て来なかった。聞きたいのはこちらの方だったからだ。
「私は……誰だろう? 知っていたら、教えて欲しい」
「ねぇ、ふざけているの? そんな格好で、淑女のベッドの上で人を抱きしめているのに? どこから入ってきたの? それとも、居館の新しい使用人?」
「え?」
女は驚いてはいるが、人を呼ぶでもなくその状態を楽しんでいるようだった。見知らぬ裸の男に、いきなり抱きしめられているという状態を。
「大変失礼した。いや、失礼なことをしてしまっただろうか?」
起き上がって服を探しすが、自分のものらしい服が何処にも見当たらない。頭がずきりとして、顔を顰める。
「大変申し訳ないが……私の服を知らないか?」
「なんか、失礼でおかしな人ね。大胆にも人の部屋に忍んで来て、私の事を抱きしめておいて、何もしないで服を探しているなんて。私をからかっているのかしら? そういえば、仔犬はどうしたのかしら? わんちゃん、出ておいで」
「仔犬?」
女性は起き上がって、蝋燭の灯で照らして、ベッドの下を覗き込んでから、私を見た。ジロジロ見られて、恥ずかしくなった為、ベッドの上に掛けてあった布を腰から下に巻きつけた。遠慮のない視線が下から徐々に上がってきた。
「随分と鍛えられた良い体をしているじゃない?」
視線が顔までくると、女性はそこでハッとした。
「あなたの目、あの仔犬と同じ金色……。それに黒い髪。あなた、あの仔犬なの? それともこれは、不思議な夢?」
自分の名前も、何をしていたのかも思い出せなかった。女はそんな自分を追い出すどころか歓迎した。
「ちょうど、退屈していた所だったの。あなたが犬でも、犬じゃなくても良いわ。側にいて」
「側にいて」と別の誰から言われた気がするが、それが誰だったのか思い出せない。大事な人からのお願いだという事だけはわかった。それを思い出すと、心が疼いた。
思い出せないことに苛立ち、起き上がって寝台に座って考え込んでいると、女が後ろから抱きついてきた。見なくても分かる豊満な胸が背中に押しつけられ、咄嗟に立ち上がってしまった。
「どうしたの? したかったから、ここにいるのではないの?」
背中に押し当てられた唇が移動していく。振り返るといつの間に脱いだのか、女も何も纏っていなかった。赤毛に色白で豊満な体。ぽってりした唇。あまりの艶かしさに、喉が鳴った。
けれど、心の奥から「違う、この人ではない」という警告が煩いくらいに響き渡っている。手が警告を無視し相手の頬に触れた。何も伝わって来なかった。
(違う、頬に指先が少し触れただけで、どうしようもない気持ちになる筈なのに。この人ではない……)
「悪いが、服をくれないか? あと、お腹が空いているのだが……」
「あら、つまんない。まぁ、いいわ。今はお腹が空いているのね? 服は用意させるから、待っていなさい。気が向いたら、いつでも言って」
女の服は当たり前だが、部屋の中にあった。女が着替えて出て行った後、私は部屋の中を物色した。どこにも自分のものらしい服も持ち物も無かった。姿見で自分を見た。黒髪に金色の眼、左目の上に小さな傷、鍛錬した体。よく見ると、肩に痣ができている。頭痛がするのは、頭を打ったのだろう。
確か、馬車にぶつかって、とか言っていたな。それと、犬がどうのと……? 私が犬だとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい。それとも、犬のような奴という意味だったのか?
暫くして、戻ってきた女が艶やかに微笑んだ。
「天気が良いから、外で食べましょう。ここの庭からの眺めは格別よ。名前がないと不便ね。便宜上、ライカと呼ぶわね」
渡された服は、仕立ても生地も良いものだった。腕を取られ、導かれるままに庭らしきところに出る。テーブルにたくさんの料理が並べられている。庭の外は、紺色の湖が広がっていた。




