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<イリーナ>

 しばらく、昼間の間は地上で過ごせたせいか、このまま石一つでも、構わないと思い始めていた。


 兄様は用があって実家のヴォルコフ公爵家へ行ってしまった。兄様がいない間は、私は地下のこの部屋にいなければならない。昼間は一度も魔物になった事がないけれど、指輪のない私は兄様がいない時は、地下から出ないよう、母様から言われている。


「次に来る時に、欲しいものがあれば何でも持ってくるよ」


と優しく言う兄様に向かって、八つ当たり気味に、


「何も要らない! 兄様はいつでも、好きな時に好きな所へ行かれるけれど、私は一人ではここから出る事もできないのに」


と言ってしまった。


「好き好んでイリーナの側を離れるのではないと分かってほしいな。仕方がない事なんだよ」


 兄様はしょんぼりして、地下室を出ていった。兄様に言葉を叩きつけてしまった私は、自己嫌悪でいっぱいになってしまった。


(兄様はいつだって、私を元気づけようとしてくれているのに。兄様に命令できるのは、お母様か、兄様の父であるマルティンだけ。「仕方がないんだよ」、と言っていたのは、どちらかからの命を受けての事なのに。何も出来ずに、地下にいるだけの私が、兄様を非難するのはおかしいのに、申し訳なさそうにするなんて……兄様は優しすぎる。私の方が悪いのに……)


 兄様が訪ねてくるだけの地下生活の間は、本を読んだり、刺繍をして一人で過ごす事が当たり前だった。兄様が訪ねて来てくれることだけが楽しみだった。時々、寂しくなって涙を流すことはあっても、これが、ずっと続くことだと諦めていた。


石が一つ戻って来て兄様が一緒であれば、昼の間だけとはいえ、地上で元の生活を —毎日人に会える日々を過ごしてしまうと、今の様に、朝から晩まで誰とも会わず、誰も訪ねて来ない日は寂しさで気が塞いだ。



 そんな時に、ルカが入って来た。城の外の話を聞くのは面白かった。何よりも、人と話をしたかった。ルカは同い年で他の貴族と違って、気安く話が出来る。ルカは熱意を持って話すから、ついつい話に引き込まれてしまう。何よりもルカの澄んだ青い瞳に、じっと見つめられると、瞳の湖の中に落ちていきそうな気がした。ルカの大袈裟な褒め言葉に心臓の鼓動が少し早くなり、時々目を逸らせた。


「私も城の外に出てみたいな」


ドキドキする気持ちを誤魔化すために呟いた。城の外に出てみたらドキドキするだろう、そう想像したから鼓動が早まったのだと思い込んだ。


「僕が城の外へ、きっと連れ出してあげる」


ルカはそう言うと、私の手を取った。王女である私に触れるのは兄様とお母様くらいだった為、驚いた。兄様は別だが、位が下の者は上の者が触れない限り、触れてはいけない事になっている。ルカはきっと知らないのだろう。

ルカの話は知らないことばかりで面白くて、聞いている間は、地上に出ることの出来ない憂鬱な気分が和らいだ。


ルカが話してくれた市場で、焼きたての食べ物を食べたり、野菜や果物が並んでいるのを見たり、大道芸を見たりしてみたらどんなに楽しいだろう。私の城の外へ出たい、と言う気持ちはその程度だった。明日、ピクニックへ行きたい、と同じレベル。

本当であれば、お忍びで外に出ることもできたかも知れなかったのに、魔物であるせいで、どこにも行くことができない。


 ルカは夕食を持って来た後も、ずっと側にいてくれた。つい、話が面白くて、時間が経つのを忘れてしまった。指輪があれば、穏やかに過ごしている限り、魔物にはならない。


「兄様は、いつ帰ってくるのかしら」


ふと漏らした言葉で、ルカの天使の様に綺麗な顔がふっと暗く陰った。ルカは黙り込んでしまった。


「ルカ?」


ルカの顔を覗き込むと、ルカが私の顎を捉え、素早く口付けた。驚いて、目を見開いてしまった。こんなに近くに、家族と兄様以外の人の顔があるなんて、初めてだった。心臓が早鐘のように鳴りはじめた。驚きすぎて感情が麻痺してしまった。

兄様がもう少し大人になるまでと、取っておいた口付け。兄様以外の人と……どうしよう……。


「あの日からイリーナの事を忘れた事はなかった。だから、君に会うためにここまで来た。一緒に地下を出よう」


自分の中に起こった感情に耳を傾ける前に、視線を感じて扉の方を見た。

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