私立萬葉学園 (下) ―妄想萬葉集―
壱 茜草指
弍 河上乃
参 梅柳
肆 夏野之
伍 大夫哉
陸 去年見而之
漆 不聴跡雖云
捌 家有者
玖 世間乎
以上上巻
以下下巻
拾 将待尓
拾壱 浦毛無
拾弍 麻佐吉久登
拾 将待尓
ドライヤーを駆使してどうやらヘアスタイルは決まった。家を出て駅へ向かう途中で部屋着のジャージにサンダルだったことに気付いた。舌打ちしながら引き返し昨夜コーディネートした服に着替える。新品なのをワザとタワシでガシガシ洗っていい感じにダメージを与えたスニーカーに履き替えて家を出る。予定していた電車に乗り遅れたけど次の電車に乗ってもまだ間に合うだろう。しかし今日は陽射しが強くて速足で歩いていたら汗が噴き出してくる。せっかくキメたのに汗だくじゃ台無しだ。駅に着いたら直ぐにセーターを脱いで肩に羽織り切符を買おうとしていたら電車がホームに入ってきた。「駆け込み乗車はお止め下さい」というアナウンスを無視して改札をダッシュで通り抜けたけど無情にも電車はドアを閉めて動き始めた。先に切符を買ってホームに出てからセーターを脱げば良かったと後悔したけどもう遅い。仕方がないからもう一本後の電車に乗る。約束の時間にちょっと遅れるかも知れないけど多分あの娘は待っていてくれるだろう。「ゴメン! 待った?」って言ったらあの娘は「遅ーい!」と言ってふくれるだろうか、それとも「ううん、私も今きたとこ」と言って笑ってくれるだろうか、などと色々シミュレーションしてると自然と口元が綻んでくる。なんとか真面目そうな顔をキープしようと窓の外を眺める。
もうすぐ駅に着くと言うところで突然電車が止まった。信号待ちかと思ったけれど一向に動き出さない。冷房が効いていないのか車内はだんだん蒸し暑くなって来た。「お客様にご案内申し上げます。この電車の電気系統が故障いたしました。ご迷惑をお掛けしますが、もう少々お待ち下さい。大変ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」とバカ丁寧なアナウンスが五分置きに流れてもう二十分過ぎた。最初のアナウンスがあった時、こりゃ絶対に間に合わないと思ってあの娘に「電車が故障して動かない。どっかの店に入ってて」とメールした。届いたかな? LINEだったら読んだかどうか直ぐに分かるのに、今日LINEしようって言ってみようかな、と思っていたら返事きた。「えー大変! 噴水の側は気持ちいいからここで待ってるね(は~と)」だって。ハートマークだよチクショウ! と画面を見ながらニヤけていたら前にいる仏頂面のお姉さんに思いっきり睨まれた。お姉さん恋愛成分が足りてないよ、と口には出さずにさり気なく視線を外す。
さらに十分経った頃、「大変申し訳ございません。お客様にはここで電車を降りて駅まで歩いていただきますよう、お願い申し上げます。本当にご迷惑をお掛けして申し訳ございません」とアナウンスがあった。ホームがないと電車の出口って結構高いのな。ハイヒールの人や年寄りなんかはキツいだろう。駅員さん達が踏み台を置いて「お足元にご注意下さい」と言いながら手を貸してくれたが、これぐらいの高さならどうってことないので駅員さんの手を断って飛び下りた。
おー! スゲェ! 線路を歩くのは生まれて初めてだよ。早速、記念の写真を撮った。なんか昔こんな映画あったよな、と多分その映画の曲だと思うメロディを口ずさんで歩く。駅に近づくと線路脇に駅員さんがズラッと並んで九十度にお辞儀している。他の乗客が枕木を見ながら黙々と歩いていて立ち止まることができないので歩きながら頭を下げる駅員さんを撮影した。きっとブレブレになってるけど仕方がない。
結局、駅の改札を出たのは約束の時間より一時間近く過ぎてからだった。あの娘にメールしようか、いっそのこと電話しようかと携帯の電源を入れたら、アララ切れちゃった。ヤベッ! 昨日充電するの忘れてたよ。どうしよう。コンビニで充電器を買ったらデート費用が心許なくなるし、アンテナショップで充電させて貰っても十分や二十分はかかるだろうし、いいや! ここから公園まで走って行こう。走ったら公園まで十分かからないだろうし、それに……
待つらむに 至らば妹が 嬉しみと 笑まむ姿を 行きて早見む
(十一・二五二六)
今か今かと待っているところへ僕が行き着いたら、あの娘が
ほほ笑むその笑顔を早く行って見たい。
【解説】
萬葉集には恋の歌がとても多いです。と言っても坂上郎女のところで解説したように、上流階級は挨拶代わりに恋の歌を遣りとりしているし、柿本人麻呂のような宮廷歌人が作り込んだ歌もあります。それらの歌とは別に作者も分からない巷で歌われていたであろう歌謡を拾遺したものも萬葉集にはいっぱいあります。もちろんこの頃の一般庶民は読み書きも出来ないし和歌を詠む教養も無かったでしょう。恐らくは宮廷歌人たちが街角で人々が口ずさんでいる俗っぽい流行歌を聞き、下級民のスラングをちょっと上品な言葉に置き替えて和歌の体裁に整えて書き残したものなのでしょう。それでもそれらの歌から当時の人たちの恋模様が窺い知れて読んでいると面白いです。
当時の若者たちは歌垣などで恋人を探したようですが、日本人には昔から言霊信仰というものがあって歌垣は言葉の霊力が高まるパワースポットで行われました。具体的に言うと「八十の衢」と呼ばれる四方八方から道が集まって出来る広場のような場所です。梅石榴市(現在の奈良県桜井市)は当時、歌垣の地として有名だったそうで、そういう所で若者はこれと思う乙女に歌いかけたのでしょう。どんな歌かというと萬葉集の最初に載っている次のような歌です。
籠もよ み籠持ち ふ串もよ みぶ串持ち この岡に 菜摘ます
子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ
家をも名をも
(一・一)
籠も立派な籠を持ちヘラも立派なヘラを持って、この岡で菜を
摘んでいる娘さん。家を言いなさい。名を名乗りなさい。この
大和の国は隅から隅まで私が支配しているのだが、私の方から
打ち明けよう、家も名も
この歌は雄略天皇の御製歌と題詞にありますが「相聞歌」ではなく「雑歌」に収録されています。というのもこの歌は雄略天皇が実際に詠んだ歌ではなく雄略天皇を主人公とする歌劇の中で歌われた物だからです。雄略天皇は五世紀後半の人で萬葉の時代にはすでに伝説の天皇となっていましたが、『記紀』を見ると雄略天皇は様々な地方を巡行して土地の娘に求婚しまくってます。中には童女と結婚の約束をしたのに、それをすっかり忘れてしまいその童女が入内した時には八十歳になっていたなんて話もあります。雄略天皇の名誉のために解説を加えておきますと、天皇と土地の娘とが結婚するということは、その土地を天皇の支配下に置くということを意味します。雄略天皇の求婚歌は大和政権が地方豪族を武力で叩きのめすのではなく、交渉によって支配下に置き勢力を拡大していったことの暗喩で、実際に雄略天皇が見境なくナンパしまくっていた訳では無いようです。
しかしこの求婚歌から当時の若者が歌垣で歌っていたプロポーズの歌を窺い知ることができます。この当時は親が名付けた本名はとてもプライベートなもので公にするものではありませんでした。人々は表向きには字を名乗っていたようです。名前や家を訊ねるのは「あなたの全てを知りたい」とプロポーズしたことになります。そして本名を答えると言うのはプロポーズを承諾したと言うことになります。
男性から歌いかけられた女性の返歌もあります。例えば
山背の 久世の若子が 欲しと言う我れ あふさわに
我れを欲しと言う 山背の久世
(十一・二三六二)
山背の久世の若衆が、この私を欲しいんだとさ。
厚かましくも私が欲しいんだとさ、山背の久世
意訳しますと「この人にナンパされちゃった、ヤダー」くらいの意味でしょうか。どうやら彼女は脈なしのようです。でも脈があるように見せかけて焦らすような歌もあります。
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか
(十二・三一〇二)
母さんが呼ぶ名を申し上げてもいいけれど、通りすがりの方を
誰と知ってそうしましょうか
「求婚を受けてもいいけれど、あなたのこと知らないし」とやんわりと断っている歌です。もっとも誘われてすぐOKを出すようでは軽い女だと思われるので女の方は、最初は断るのが普通ではないでしょうか。そこを何とか口説き落としてデートの約束を取り付けるのでしょう。と言っても文字も書けず、電話もメールもなかった時代ですから連絡はもっぱら言伝を使ってやり取りしたようです。この時代は大家族で血縁者だけではなく家人と呼ばれる下男下女というか使用人のような人も一緒に暮していたようで、この家人に言伝を託していたみたいです。この当時、家人は薄墨色の着物を着る習いがあったそうで道ゆく人々の中に薄墨色の着物を着た人を見ては、あの人は誰のところへ行くのだろうかと眺めている人もいたのでしょう。
家人は 道もしみみに 通えども 我が待つ妹が 使来ぬかも
(十一・二五二九)
家人たちは道に溢れるほど往き来しているけれど、私の待って
いるあの子の使いは、いっこうにやって来ない。
なんていう歌もあります。彼女からの伝言が来ないとヤキモキしている歌ですが、彼女の方にも彼女なりの苦労があります。
誰そかれと 問わば答えん すべをなみ 君が使を 帰しつるかも
(十一・二五四五)
「誰なのか、使いをよこすその男は」と尋ねられたら、どう答え
てよいのか手だてがないので、せっかくあなたのお使いなのに、
すげなく帰してしまいました。
『肆 夏野之』で書きましたが、この時代、娘の結婚については母親に決定権がありました。しかし、具体的に結婚や婚約の話も出ていない時に母親に知れると大事になりそうなので彼から伝言が来ても母親には「うん、何でもない」と誤魔化してしまったのでしょう。そして返事を伝言しようとしても伝言を頼んだ家人に母が「誰の所へ行くのかい?」「どんな言伝を頼まれたのかい?」と尋ねるのではないかと思い、なかなか思うように返事を送れないのではないでしょうか。
そういうやり取りがあってようやくデートにこぎつけるのでしょう。
あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言いて
妹待つ我れを
(十二・三〇〇二)
山から出る月を待っていると言いながら、本当はあの娘が来る
のを待っている。
これはデートの約束を取り付けて彼女を待っている男の歌です。そんな彼の元に駆けつける女の子の歌もあります。
早行きて いつしか君を 相見むと 思いし心 今ぞなぎぬる
(十一・二五七九)
早く行ってすぐにもあなたに逢いたいと思っていた心は今よう
やく鎮まりました。
もちろん女の子が待つという逆パターンの歌もあります。
誰そかれと 我れをな問いそ 九月の 露に濡れつつ
君待つ我れを
(十・二二四〇)
あれは誰だなんて私のことを訊かないでください。九月の露に
濡れながらあなたのことを待っている私ですのに
「お姉ちゃん、デートかい?」なんて道行く人に冷やかされながら露に濡れるのも厭わず人待ち顔に立っているのでしょうか? 今回ここで紹介したのはそんな女の子の所へ駆けつける男の子の歌です。
しかし逢瀬を繰り返していくといずれは母にもバレてしまうでしょう。恋する娘の恋心など隠しおおせる訳がないのです。
秋さらば 移しもせむと 我が蒔きし 韓藍の花を 誰か摘みけむ
(七・一三六二)
秋になったら染め物にしようと私が撒いた鶏頭の花を誰が摘ん
でしまったのだろう
これは娘に男が出来たことを知った母の歌です。娘の結婚相手にはこんな男が良いか、あんな男が良いかと探し、娘に相応しいと母が認めた男と時期を見て引き合わせようと思っていたのに当てが外れた。娘に取り入ったのは一体どんな男なんだろうと母には新たな悩みが増えます。
娘にしてみればこの恋は始まったばかり、まだ母に打ち明ける段階では無いのでしょう。
百積の 船隠り入り 八占さし 母は問うとも その名は告らじ
(十一・二四〇七)
母さんが責め立ててもあなたのお名前は申しますまい。
と母と娘の確執は続きます。母にしてみれば苦労して育てた娘がつまらない男に引っかかって不幸にならなければいいけれど、と気が気ではないのでしょう。母親の気苦労を歌ったこんな歌があります。
衣手に 水渋付くまで 植えし田を 引田我が延え まもれる苦し
(八・一六三四)
衣に水垢が付くまで苦労して植えた田を、鳴子の縄を張り渡し
て番をする羽目になったのは辛いことです。
この歌は苦労して育てた娘を稲に喩え、その娘に言い寄る男を監視する羽目になった親の気苦労を歌ったものだそうです。しかし親の苦労を尻目に若者の恋心はますます燃えさかります。
魂合えば 相寝るものを 小山田の 鹿猪田守るごと
母し守らすも
(十二・三〇〇〇)
魂さえ通じ合えば共寝できるというのに、まるで山の田んぼで
鹿や猪でも見張るように、あの娘のおっかさんが目を光らせて
いる。
どうやらこの若者は娘の母のお眼鏡には敵わなかったようですね。この時代、彼女の母の許しを得るというのが恋する若者の第一関門だったようで、同じような歌が他にもみえます。
例えば
汝が母に 噴られ我は行く 青雲の 出で来我妹子 相見ていかむ
(十四・三五一九)
おまえのオフクロに見咎められて、俺は行っちまうんだ。ちょっ
と顔だけでも見たい
等夜の野に 兎ねらはり をさをさも 寝なえ子ゆえに
母に噴はえ
(十四・三五二九)
等夜(地名)の兎じゃないけれど、狙ってはいるよ。でもろく
すっぽ寝てもいないのに、お母さんにしかられちまった。
妹をこそ 相見に来しか 眉引きの 横山辺ろの 鹿猪なす思える
(十四・三五三一)
思う子に逢いに来ただけだ。俺の事を山をうろつく鹿猪と思っ
ているのか
こんな歌を見ていると相当嫌われているようだけど、親からみたら娘の周りをうろつく若者など可愛い娘を狙うゴロツキにしか見えないのでしょう。まあ実際、萬葉の時代にもダメンズは居たのでしょうね。例えばこんな歌があります。
阿須可川 下濁れるを 知らずして 背ななとふたり
さ寝て悔しも
(十四・三五四四)
阿須可川の水底が濁っているように心の底が濁っていることも
知らずにあんな男と寝てしまってああ悔しい
萬葉の時代のダメンズがどんなファッションなのかは分かりませんが、例えば現代なら顔中にピアスを付けて、ガムをクッチャラクッチャラ噛みながら「ちーっす」なんていう男が娘のところに訪ねて来たら親も頭を抱えることでしょう。娘を訪ねてくる男を観察して、いちいちダメ出しをしていたのではないでしょうか。
おのれゆゑ 罵らえて居れば 青馬の 面高夫駄に
のりて来べしや
(十二・三〇九八)
お前さんゆえに油を絞られている折も折、顔高々と上げて青毛
馬に荷物みたいに乗っかって人目もかまわずやって来るとは何
ごとだ。
この歌に出てくる青馬というのは葦毛といわれる明るい毛色の馬のことだそうです。この時代、女の元に通う時は目立たない黒馬を使うのが常識らしいです。現代風に例えるなら、母に彼氏のダメ出しをされている最中に派手な改造車で乗り付けて家の前でパララパララと合図を送るようなものなのでしょうか?
萬葉集の注を見るとこの歌は紀皇女の作と書かれています。紀皇女は天武天皇の皇女で色々とゴシップがある人ですが、別資料ではこの歌は紀皇女の異母姉妹の多紀皇女の話とされています。荷物みたいに乗っかって来た男は高安王といい、この件の責任を問われて伊予国に左遷されたという話が歌の左注に書かれています。系図を調べてみると天武天皇の曽孫に高安王の名が見えますが、天武天皇の皇女(娘)と曽孫が恋人になるというのは年齢的に合いません。どうもこの注のエピソードは後年になって、それぞれの経略や出来事などを膨らませて面白おかしく作り上げたもののようです。
さて、母にお説教されて、娘もこの恋は成就できるかと弱気になる事もあるのでしょう。
誰れぞこの 我が宿来呼ぶ たらちねの 母に嘖はえ
物思う我れを
(十一・二五二七)
誰ですか、母さんに叱られて塞ぎ込んでいる私を家の前で呼び
立てているのは。
そして母親の目を気にして部屋に籠って逢おうとしない娘に若者も腹を立てます。
奥山の 真木の板戸を 押し開き しえや出で来ね 後は何せむ
(十一・二五一九)
こんな奥山の真木の板戸なんか、どんと押しあけて、ええい、
もういい加減に出て来てくれよ。あとはどうなったってかまう
ものか。
そんな若者を一生懸命に宥めている娘の歌もあります。
たらちねの 母に障らば いたづらに 汝も我れも 事のなるべき
(十一・二五一七)
母さんに邪魔されたら、あなたも私も、せっかくの仲が台無し
になってしまうでしょう。
と母の顔色を伺う娘に若者は説得を続けます。
祝らが 斎う社の 黄葉も 標縄越えて 散るといふものを
(十・二三〇九)
神官たちがあがめ祭っているお社のもみじ葉でさえも、標縄を
飛び越えて散るというのに……。
意訳すると親の束縛なんて飛び越えて逢ってくれという歌です。もちろん娘もただ母の言いなりになっている訳でもなく、不満は積もっているようです。
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願えば衣に
着るといふものを
(七・一三五七)
母が生業として育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれ
ば着物として着られるというのに。
そしてついには母の監視を掻い潜り実力行使に出る娘もいるようです。
玉垂の 小簾のすけきに 入り通い来ね たらちねの
母が問わさば 風と申さん
(十一・二三六四)
簾の隙間からそっと入って通って来て下さい。母さんが何の音
と尋ねたら「風」と申しましょう。
『漆 不聴跡雖云』で蘇我石川麻呂の女が日向に攫われたと書きましたが、適齢期の娘の部屋に男が押し入ってきたら常識的に考えて女は悲鳴を上げて逃げ回るのではないでしょうか。恐らく日向はずっと前から女を口説いていて、女の方も初めての恋に舞い上がり、母の許しが得られないことでますます恋心が燃え上がり、そんなところに父が皇子との縁談を持って来たので「見ず知らずの皇子と結婚するくらいなら愛しいあの方と添い遂げたい」と思い詰め「風と申しましょう」と母の目を誤魔化して日向を迎え入れたのではないだろうか、などと果てしなく妄想は広がる。
この時代は娘の部屋に男が訪ねて来てもそれで結婚したとは言えないようで、この段階は現代風に言うなら婚約したようなものらしいです。
我が宿に 植え生ほしたる 秋萩を 誰れか標刺す
我れに知らえず
(十・二一一四)
我が家の庭に植えて育てた萩の花なのに、私が知らない間に誰
が標を刺したのでしょう
この歌は母の許しもなく勝手に娘と婚約した男をなじる歌だそうですが、まあここまで来たら親も諦めるしかないのでしょう。渋々ながら母は二人の仲を認めるのではないでしょうか。
しかし障害が無くなると二人の仲はかえって冷めてしまったりするものです。
玉藻刈る いでのしがらみ 薄みかも 恋の淀める 我が心かも
(十一・二七二一)
恋のしがらみが少ないせいで私の恋が燃え上がらないのだろう
か。それとも私の心のせいなのだろうか。
彼女の方も母の許しが出た途端、現実が見えて来たりします。
豊国の 企救の浜辺の 真砂地 真直にしあらば 何か嘆かむ
(七・一三九三)
豊国の企救の浜辺の砂が平らであったらどうして嘆くことがあ
りましょう。
恋愛中はヤンチャな彼が素敵だと思っていたけれど、結婚となったらもっと地に足がついた真面目な人の方が良いのではないかと現実的になる彼女と、反対されていた時にはムキになっていたけれど障害が無くなった途端に熱が冷めてしまった彼と。そして二人の仲は急速に冷えていきます。この時代、正式の結婚で無ければ別れるのは簡単です。男が通って来なくなったらそれでおしまい。娘はまた別の恋を探すことになります。
「だからやめなさいと言ったのに」という親の前で不貞腐れている娘の姿が目に浮かぶようです。だからと言って親が連れて来た男にはワクワクドキドキすることもなく、つい元カレと比べてしまいどうしても決められない。
はしきやし 我家の毛桃 本茂く 花のみ咲きて
ならずあらめやも
(七・一三五八)
可愛い我が家の毛桃には根元までいっぱい花が咲くのに実はな
らないのだろうか
これは縁談や恋愛がなかなか実らない娘の将来を嘆く親の歌です。こうして親の苦労はまだまだ続くのでしょう。
以上、短歌を並べて恋模様を書いてみましたが、萬葉集には短歌だけではなく物語風の長歌もあります。例えば
上総の国周淮の郡の珠名という娘は巨乳で蜂のように胴がくびれ
た可愛い娘で、花のように微笑んで立っているので道行く男たち
は自分の行き先も忘れて娘の処へと吸い寄せられていく、まして
や毎日、娘と顔を合わせる隣の主人などは妻子を里に返し、頼ま
れもしないのに家の鍵を差し出す始末。世の男がこんなだから娘
はますます品を作ってしなだれかかっていたという
(九・一七三八)
なんていうファムファタールの歌もあります。またそれとは反対に申し分のない男たちにプロポーズされながらも一人に決められなくて、思い余った女の子が命を絶ってしまうなんていう話もあります。この話は万葉時代の定番だったらしく設定や登場人物の名前などが少しずつ変化しながら繰り返しでてきます(九・一八〇一~一八〇三、九・一八〇九~一八一一、十六・三七八六~三七九〇、十九・四二一一~四二一二)。もしかしたらこの話がかぐや姫の元ネタになったのかも知れないと私は思っています。亡くなった娘の墓石に向かって嘆いているより、月でも眺めて彼女を偲んだほうが風流ですからね。なんにしても、もてすぎるのも困りものですね。
でも現実にはこんな話ばかりではなく、中には極端に内気で引っ込み思案な性格だったり、ブス(小声)だったりして恋になかなか縁がない娘もいたでしょう。そういう場合にも親が相手を探して引き合わせたりしたようです。
石上 布留の早稲田を 秀でずとも 縄だに延えよ
守りつつ居らむ
(七・一三五三)
布留(奈良県天理市)の早稲はまだ穂が出揃っていませんが、
せめて標縄だけは張ってください。私が見守っていますから。
この歌は然るべき男に娘を引き合わせた親が、相手の男に婚約だけでもと仄めかしている内容です。この時代、娘の結婚相手として親が思い描く理想の男とはどんな人だったのでしょうか。例えばこんな生真面目な男だったのではないでしょうか。
春日すら 田に立ち疲れ 君は悲しも 若草の妻なき君し
田に立ち疲る
(七・一二八五)
村人みんなが春山で遊ぶこんな日でさえ田に立ち働いて疲れ果
ててる君は何ともお傷わしいこと。彼女もなくこんな日でさえ
田に立ち働いて疲れ果てているわい。
歌を読めば分かりますが、こういう仕事一筋の男は若者の間ではどうやら嘲笑の的で、若い女の子にも不人気だったようです。
白菅の 真野の榛原 心ゆも 思わぬ我れし 衣に摺りつ
(七・一三五四)
白菅の生い茂る真野の榛の林、その榛を心底思っているわけ
でもない私なのに、衣の摺染めに使ってしまった。
これは意に染まない男と契ったことを悔やむ女の歌です。まぁ自分がモテない事は十分承知している。自力で男を捕まえられないのなら、親が連れて来た相手と結婚するしかないんだろうけど、その男が覚悟をしていた以上にブサイク(小声)だったのでしょうか。もしくは無愛想で三言くらい話したら話題が尽きてしまうくらい退屈な男だったのでしょうか? 歌垣や街角で誰彼が歌っている歌謡のようなトキメク恋愛経験もなくこれからも無いだろう。このまま母となって我が身を削って子育てをして一生を終えるのだろうか、という諦めの溜息が聞こえて来そうな歌だと思いました。
以上、なんやかやと婚活に奔走する人たちを妄想で書き連ねて来ましたが、それ以外にも萬葉集には恋の歌が色々あります。中にはアブナイ恋の歌もあります。例えば
愛と 我が思う妹は 早も死なぬか 生けりとも
我れに寄るべしと 人の言わなくに
(十一・二三五五)
可愛くてたまらないあの娘なんかさっさと死んでしまえば良い。
生きていたって私に靡いてくれるなんて誰も言わないんだから。
萬葉集にはおよそ四千五百首の歌が収録されていますが、相手の死を願う歌はこれ一首のみです。萬葉の時代にもこういう病んでる人は居たようですね。拗らせたらストーカー殺人事件起こすよ、こいつ。
かくばかり 恋いつつあらずは 朝に日に 妹が踏むらむ
地にあらましを
(十一・二六九三)
こんなに恋い焦がれてばかり居ないで、朝に昼にあの娘が踏ん
でいる土になりたい。
どMか!
この川に 朝菜洗う子 汝れも我れも よちをぞ持てる
いで子給りに
(十四・三四四〇)
この川で朝菜を洗っているお姐ちゃん、良い物持ってるなぁ。
ワシも良い物を持ってるぞ。だからそれをおくれ
お巡りさん! この人です!
以上、萬葉の三大変態歌(筆者選)を紹介いたしました。
まだまだあります。
玉鉾の 道行かずあらば ねもころの かかる恋には
逢わざらましを
(十一・二三九三)
あの道さえ行かなかったら、心底うちこんだ、こんなに苦しい
恋にあうことはなかったであろうに。
この歌は行きずりの美女に一目惚れした男の歌だそうです。男はこの恋に運命を感じたのでしょうか。『東京ラブストーリー』の主題歌でしたっけ、現代にもこんな歌ありますよね。でもそんな美女だったら告白され慣れていて、もしかしたら恋の手練れなのかも知れませんね。
みどり子の ためこそ乳母は 求むと言え 乳飲めや君が
乳母求むらむ
(十二・二九二五)
赤子のためにこそ乳母は探し求めるものと言うのに。あなたは
まだ乳飲児で、私のような乳母を探しているのかしら。
これは年下の男からの求婚に「坊や、出直しておいで」と軽くいなした歌です。
と、ここまで紹介した歌を見ていると、男性の歌は積極的なものばかりですが萬葉集を読んでいると、この時代にも草食系男子は居たようです。自分からガシガシ行けなくて女性にイニシアチブを取ってもらいたい男も多かったのでしょうか。そんな男にブチ切れている女の歌もあります。
梓弓 引きみ緩えみ 来ずは来ず 来ば来そをなぞ
来ずは来ばそを
(十一・二六四〇)
梓弓を引いてみたり緩めてみたりするようにやたら気をもませ
て……。来ないなら来ない、来るなら来るとはっきりさせて
下さい。
優柔不断で、もそもそぐずぐずしているだけの男に痺れを切らしたのでしょうか。坂上郎女もタジタジの勢いですね。
こうして萬葉の歌を見ていると恋する人の行動なんて千年や二千年では変わらないんだなぁと思いますね。
妹に恋い 寝ねぬ朝に 吹く風は 妹にし触れば 我さえに触れ
(十二・二八五八)
あの娘に恋い焦がれて眠れないこの夜明けに、吹いてくる風よ、
おまえは、あの娘の身に触れて来たのなら私の身にも触れてお
くれ。
これは何と言えば良いのでしょうか。間接キッスならぬ間接タッチとでも言いましょうか。でもその同じ風がむっさいオッサンのスネ毛にも触れて来たとは考えないんだろうか。
さを鹿の 伏すや草むら 見えずとも 子ろがかな門よ
行かくしえしも
(十四・三五三〇)
牡鹿が草むらに伏し隠れて姿が見えないように、あの娘の姿が
見えなくても、門口を通ると胸がワクワクする。
この歌なんか現代人でも共感する人は多そうですね。
はい、みんな目を閉じて。今までに好きな人の家の前を用も無いのにウロウロした事がある人。先生、怒らないから正直に手を上げてごらん。
心には 千恵しくしくに 思えども 使を遣らむ すべの知らなく
(十一・二五五二)
心の中では千度も繰り返して思っているけれども、言伝ての使
いをやる手だてがわからない。
連絡先を訊かんかったんかぁい。
立ちて居て たづきも知らず 思へども 妹に告げねば
間使も来ず
(十一・二三八八)
立ったり坐ったりして、ただおろおろとあの子のことばかり
思っているけれど、この思いを告げていないので使いもやっ
て来ない。
告れ。
拾壱 浦毛無
家を出て大通りに出る途中、助走をつけたら飛び越えられそうな小さな川が右手に見えて来る。その川にはやっぱり小さな橋が掛かっていてその橋の向こうからオオツカ君がやってくるのが見える。
私は毎朝、オオツカ君が橋を跨いで来るのをここで待っている。
「ハヨ」
「ッヨ」
お互いにモソモソと挨拶を交わして並んで大通りへ向かう。オオツカ君は小学生の頃から知っているけれど、特に親しく話したことはない。同じ高校に来ているのを知ったのも新学期が始まってからだった。別に嫌いとかじゃなくてなんか二人だと話題が無いのだ。オオツカ君とは高校に入ってから仲良くなった友人の共通の友人という間柄だ。共通の友人なので改めて二人で話すエピソードも無い。今までで唯一盛り上がった話題はオオツカ君のお母さんが飼っているマルチーズのマロンちゃんの話なんだけど、毎朝マロンちゃんの話を続ける訳にもいかない。でもオオツカ君はこの沈黙を大して気にしていないように見える。私も大通りに出るまで、オオツカ君と一緒に歩くこの数分間がそれほど嫌じゃない。という訳で二人とも黙ったまま何となく一緒に大通りまで歩く。
高校に入った時、私は同中のサナちゃんとクラスが離れてガッカリしていたんだけど、サナちゃんは同じクラスになったユキちゃんと仲良くなり、そのユキちゃんの幼馴染みのタカハシが私と同じクラスで、サナちゃん、ユキちゃん、タカハシと私の四人で何となく仲良しグループになった。その後タカハシは女三人相手だと分が悪いと思ったのか、それとも気が合ったのかオオツカ君と仲良くなり、グループに連れて来るようになった。今日も大通りに出てすぐの信号、コンビニの前にサナちゃん、ユキちゃん、タカハシの三人が待っていた。
「あ、おは…」
「ねーねーミカちゃん、今日お弁当? 私、今日はお弁当無いから学食でラーメン食べようと思うんだけど、一緒に食べない?」
とサナちゃんは早くも昼ごはんの予定を立てている。そこへタカハシがすかさずチャチャを入れて、そしてオオツカ君が絶妙なタイミングでツッコミを入れる。一気に賑やかになったグループでワイワイと学校へ向かう。
オオツカ君とは小学生の頃から同じクラスや同じ班になった事もあるけどそこにはいつもサナちゃんみたいな女の子やタカハシみたいな男子がいて、そしてみんなでワイワイガヤガヤやっていて別に嫌いじゃないけど特に仲良しでもない、ちっちゃい頃から知ってるけれど幼なじみと言うほどの仲じゃない、そんな付かず離れずの間柄だ。
夏休みになって一度みんなで市民プールに行った。普段ならお爺ちゃんお婆ちゃんが歩くウォーキングコースがあるんだけれど、夏休みの間はロープも全部取っ払って全面フリーゾーンになっていた。小学生やその保護者たちでごったがえして文字どおり芋の子を洗う状態でまともに泳ぐ事も出来ず私たちは早々に退散した。その後コンビニでジュースやアイスクリームを飲み食いしながら喋っていた時もオオツカ君は特に変わった様子もなかった。
夏休みももう後二日と言うときに突然ユキちゃんからタカハシがブチ切れていると電話があった。とにかくタカハシの家に行くとそこにはサナちゃんとオオツカ君もいて大騒ぎになっていた。口々に言いたいことを言っている話から分かったことはオオツカ君が遠く離れた町へ引っ越していくという事で、しかも今日、今から出発すると言う。
「別に見送りなんか要らないけどとにかく挨拶だけはしとこうと思って」と言うオオツカ君にタカハシは「ふざけんなよ。こんなに急に言われても送別会も出来ないじゃんよ。俺ら友達じゃなかったのかよ」と憤懣遣る方ないようだった。そんなタカハシにオオツカ君は「ホントにごめん。でもこれが最後でもないし何時でも電話やメールも出来るし、そんな永遠の別れみたいに大袈裟にして欲しくないんだ」と宥めていた。
この場をなんとか収めたのはユキちゃんだった。「まあまあ、最後じゃないと言っても当分は顔を合わせる事もないんだから、せめて笑顔で送り出そうよ。ね」とみんなを見回しながら言って、サナちゃんも「うん、そうだよね。別に喧嘩する事もないもんね」と言ってオオツカ君に「じゃあお別れの握手。元気でね。」と笑顔で挨拶した。その後、私とユキちゃんと仏頂面のタカハシと何となく流れで順番に握手してオオツカ君は帰って行った。
あの騒動から早くも一ヶ月。今日も家を出て大通りに出る前に見えてくる小さな川を立ち止まって眺める。でもこちらにやって来るオオツカ君の姿は見えない。何時もどおり大通りまで黙って歩く私の右側に秋とは思えない冷たい風が吹き抜けた。
うらもなく いにし君ゆえ 朝な朝な もとなそ恋うる
逢ふとはなけど
(十二・三一八〇)
あっさりと旅立って行ってしまったあの方を思って、来る朝
ごとにむやみやたらと恋い焦がれている。逢えるわけではな
いのに。
【解説】
この歌は挽歌ではなく「悲別歌」に分類されています。つまり死に別れたわけではなく、夫が旅に出てその留守を守る女の歌です。逆に旅に出て故郷や残した人を思う歌は「羈旅歌」というそうで、こちらは圧倒的に男性の歌が多いです。この時代は一般庶民の女性はあまり旅をすることがなかったのでしょう。
今回紹介したこの歌を読んだとき私は何となく倦怠期の夫婦を連想しました。というのもこの時代の旅は身分の上下に関係なく大変なものだったからです。ビジネスクラスもグリーン車もない、どころか交通網そのものがありません。一般庶民は徒歩で移動したのでしょうが途中で食料が尽きて餓死したり、怪我や病気で亡くなる人も多く旅は命がけでした。高級官僚などは馬に乗り、食料も充分にあったでしょうがそれでも病気や怪我は避けられません。旅に出る時、恋人同士は肌着を交換しお互いに紐を結び合って形見としたそうです。旅に出ることはそれ位の覚悟が必要だったのに、この歌ではずいぶんあっさりと旅立ってしまったようで、なんか普段からお互いが空気の様になっていたのでは無いかと感じたのです。側にいる時は居て当たり前のように感じていたのが、居なくなって初めてその不在を毎朝感じているのでしょうか。
萬葉集には貴族や役人などの今でいうホワイトカラーの人たちばかりではなくこう言った一般庶民の歌も数多く収録されています。その内容は前章で紹介した恋の歌やここで紹介した遠く離れた友人や家族などを思いやる歌など、日常の何気ない日々の思いを歌った歌が多いです。「稲刈りをしてて気になる彼に近づき過ぎっちゃった、噂になるかしら」なんて歌(四・五一二)もあります。これらの素朴な歌はより洗練されて貴族の宴などで歌われるようになり萬葉集に収録されたものらしいです。しかし一般庶民が宮中に上がり込んで自分たちの日常を貴族の前で披露するとは考えにくいです。恐らくは宮廷歌人や遊行女婦たちが披露したものでしょう。遊行女婦とは貴族の宴席で歌や踊りを披露する女性たちのことで、民間人ではありますが一流の行儀作法や教養を備えた人たちです。現代で言うなら会員制の高級クラブの専属歌手みたいなものでしょうか。こうした遊行女婦は京ばかりではなく地方にも居ました。地方にやって来た中央政府の役人を接待するための宴席で京の流行歌ばかりではなく地方の庶民の素朴な日常を題材にした歌なども披露したのではないでしょうか。ともかく萬葉集に収録されている庶民の歌は全てこの時代の知識人たちのフィルターを通したものだったと言えます。
この時代の一般庶民は、一日の大半を肉体労働に費やしていただろうと想像するのですが、そういう日々を歌った仕事歌や労働歌といったジャンルは萬葉集にはありません。例えば七夕を題材にした歌は多いのですが、織姫が歌っている内容は「お互いに逢える日をずっと待ち侘びていた」「離れている間は言伝だけでも送れないものか」「せっかく逢えたのにもう別れの時が来てしまう」といったものばかりなのです。織女になり変わって「今まで織っていた織物を放ったらかしにして逢いに来ました」みたいな歌はあるのですが織女になったつもりで「あの方に逢えるその日を楽しみに、機を織りましょう」といった歌は全くありません。また一般庶民の生の声を歌った歌として「貧窮問答歌(五・八九二)」が有名ですが、この歌をよく読むと「自分ほどの人物は他にあるまいと自負している、その自分でさえありったけのボロを着込んで寒さに震えている。ましてやもっと貧しい人はきっと飢えと寒さで凍えているだろう」と言った内容で、普通の庶民が自分の思いを歌った歌ではありません。因みにこの歌の作者である山上憶良は遣唐使のメンバーにも選ばれ、聖武天皇の皇太子時代に学問を講じたエリートで貧乏だと歌ってはいますが、ただの一般庶民とは違います。
またこの時代には都や宮廷を普請するのにゼネコンみたいなものもなく、朝廷は京や宮廷の建設や修復のために農民を役民として徴集しましたが、役民が自分の仕事への思いを詠んだ歌はありません。萬葉集には一首だけ「藤原の宮の役民の作る歌(一・五〇)」という歌があるのですがその内容は
遍く天下を統べられる天皇がこの藤原の地で国を治めようとな
さる。この国の民も天皇に心服しているから、家族を忘れ苦労
を厭わず京造りに精を出している
といったもので、どう考えても役民が自分の思いを歌った歌ではないです。恐らくは宮廷歌人が「下々の者もこのように立ち働いております」と天皇(藤原宮なので持統天皇か)に披露するために作った歌なのでしょう。役民たちが実際にどんな思いで故郷を離れ、土木作業をしていたかは萬葉集の歌からは全く窺い知ることができません。一般庶民が日々感じていたであろう力仕事の辛さや冬の皸の痛みなんかは貴族階級には共感できないせいでしょうか、庶民の日常を歌った歌と言っても体裁は恋の歌なんかが多いです。恋の歌は皇族や貴族が詠んだものも多いのですが、その中で宮廷行事や宴席などで歌ったものではなく作者が推定できないものが下級役人や庶民に近い人たちの歌じゃないかと勝手に推定しています。
しかし内容から言って殆どが庶民の歌った歌だろうと推定できるものに「防人の歌」があります。防人というのは、筑紫、壱岐、対馬を外敵から守る為に東国から派遣された人たちのことです。でもなぜ西日本じゃなくて東人が防人に選ばれ、北九州まで派遣されたのかその理由は分かりません。
ともかく防人は、東国の二十一歳から六十歳までの男子から選ばれ、任期は三年でした。この時代には召集令状などは多分無かったと思います。そもそも文字が読める人も限られていたでしょう。多分、村の長の使のような人が家を訪ね、何時いつまでに用意をして村長や郷長のところなんかに集まるようにと口頭で勅令を伝えたのではないでしょうか。そして召集された男は、従うしかなかったのでしょう。
各村々から召集された男は武具として矢を五十本さした靭を携えて出かけました。角川ソフィア文庫の表紙絵に旅立つ夫を見送る妻が描かれていますが防人たちはそのように家族に見送られて旅立ったのでしょう。集まった兵士たちは朝廷から送られた勅使による慰労の詔勅を受けるのが当時の決まりだったそうです。そして防人に任命された人たちは防人部領使という役人に連れられて出発したそうです。
萬葉集に収録されている防人の歌の題詞を見ると、この時は勅使の他に兵部の役人も来ていたと書かれていました。兵部と言うは文字から想像するに今の防衛省みたいな部署なのでしょう。そしてこの時の兵部少輔(兵部省の次官)は歌人としても有名な大伴家持でした。この時代、公務の多くは宴で行われました。防人の歌はそのような宴の中で防人部領使によって披露されたものです。家持は宴で披露された歌のうち拙劣歌を省いたものを萬葉集に収録しました。しかしこの時代、将校クラスならともかく一般兵士に歌を読む教養があったのでしょうか。或いは防人部領使が一般兵士の話す内容を歌の形に整えたのでしょうか。ともかく萬葉集に収録された防人の歌をいくつか紹介していきます。
ふたほがみ 悪しけ人なり あたゆまい 我がする時に
防人にさす
(二十・四三八二)
ふたほがみは悪い奴だよ、オイラが急病になったのに、防人に
指名するとは
「ふたほがみ」の意味はよく分かりませんが「かみ」と言うのだからたぶん村役場の役人みたいな人なのでしょう。「悪しけ」は「悪しき」の訛りで「あたゆまい」の「ゆまい」は病の事です。いずれも萬葉時代の栃木弁です。
防人の歌を読むと防人たちの出発には慌しくも切ない別れがあったことが窺えます。
水鳥の 立ちの急ぎに 父母に 物言ず来にて 今ぞ悔しき
(二十・四三三七)
水鳥が飛び立つ時のような慌ただしい旅立ちで父母にろくに物
も言わずに来たのが悔しい。
別れの名残りは尽きず、言いたい言葉も思い浮かばず、ただ「元気で」「達者で」と親子で言い交わしながら振り返り振り返り出立したのでしょうか。
この歌の「物言ず来にて」は「物言わず来にて」の訛りです。
橘の 美袁利の里に 父を置きて 道の長道は 行きかてのかも
(二十・四三四一)
橘のみおりの里に父を一人残して、この長い長い道をとても行
くことは出来ない
家族の歌で父だけを歌う歌は珍しいので取り上げてみました。この時代は通い婚で結婚後も妻は実家で子育てをすると書きましたが、子どもがある程度大きくなると男は妻子を引き取って自分の家庭を築きます。この時代は班田収授の法が施行されていて、戸籍の構成員に田が支給され徴税されました。そして死亡した人の田は返さなければなりません。農業は労働集約型産業と言うのですが、一反の土地を一人で耕すより二反の土地を二人で耕す方が一反当たりの収穫量は増えます。戸主となる人は少しでも多くの農地と労働力を獲得するために妻子を引き取り、一家を成したのでしょう。男は一家を構えて初めて一人前と世間から認められたようです。しかしこの人の母はもう亡くなって父一人子一人で暮していたのでしょうか。
この歌の「行きかての」は「行きかてぬ」の訛りです。
父母が 頭搔き撫で 幸くあれて 言いし言葉ぜ 忘れかねつる
(二十・四三四六)
父ちゃん母ちゃんが、代わる代わるオイラの頭を掻き撫でて、
達者でなと言った言葉が忘れられない。
この歌の「幸くあれて」は「幸くあれと」の事、また「言葉ぜ」というのは「言葉ぞ」の事で、いずれも東国の訛りです。この人はまだ一家を構えていない若い人なのでしょうか。息子を見送る両親を残して慌ただしく出発したのでしょう。
以上の四首は駿河の国の防人部領使によって披露されたものです。歌の訛りは駿河弁でしょうか。
立ち鴨の 立ちの騒きに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも
(二十・四三五四)
飛び立つ鴨群のように騒がしい門出の中で、そっと目を見交わ
したあの娘の心は忘れられない。
この時代、正式に結婚し一家を構えるまでは相手の名前を明かさないものだったらしいです。『陸 去年見而之』で柿本人麻呂が正式に結婚もしていない彼女の名前を大声で呼んで探したという歌を紹介しましたが、愛しい人を亡くした人麻呂がどれほど取り乱していたかがわかりますね。萬葉集には他にも「ちょっと伝言をやり取りしただけで噂になってしまった」「周りの噂のせいで彼女が遠く離れてしまった」と嘆く歌がいくつかあります。この歌の彼女ともお互いに思い合っているのだけれど、まだ正妻として迎え入れていなかったのでしょうか。お互いの名前を呼び合うこともなく手を取り合って別れを惜しむこともできず、ただ離れた所からじっと見つめ合っていたのでしょうか。
この歌の立ち鴨は立つ鴨の訛りです。
葦垣の 隈処に立ちて 我妹子が 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ
(二十・四三五七)
葦垣の隅っこに立って妻が泣き濡れていた姿が思い出されてな
らない
この歌に出てくる妻もまだ家族として一緒に暮らしていなかったのでしょう。彼女の家の側を通る時、彼女は庭に出て出来ることなら一緒について行きたいと思いながら涙にくれて、垣根の隅っこで出征する夫をいつまでも見守っていたのでしょうか。或いはこの男性はわざわざ回り道をして彼女の家の側を通って行ったのかも知れませんね。
この二首は上総(現在の千葉県南部)の防人部領使が披露した歌です。訛りは千葉訛りなのでしょう。
韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来のや 母なしにして
(二十・四四〇一)
一張羅の裾に取り付いて泣きじゃくる子らを置き去りにして来
てしまった。母もいないのに
「韓衣」は「韓衣」の、「来の」は「来ぬ」の長野弁です。防人の歌で子どもを歌った歌はこれ一首のみですが、どうやら男寡も容赦なく徴兵されたようですね。残された子どもはどうなるのでしょうか。誰か縁者に引き取られて、その家の下働きなどをして健気に生きていくのでしょうか。
防人に 行くは誰が背と 問う人を 見るが羨しさ 物思いもせず
(二十・四四二五)
今度防人に行くのはどなたの旦那さんと尋ねる人を見るのは羨
ましい。何の心配もしないでさ
この人も出征する夫と手を取り合うことも名前を呼び合うこともなく、離れた物陰からそっと見送っていたのでしょうか。側にいる女たちの脳天気な噂話に居た堪れない思いだったのではないでしょうか。
こうして召集された兵士たちは防人部領使に伴われて陸路難波に向かいます。その際、防人には家人や奴婢、牛馬を伴うことが許されたそうです。
赤駒を 山野にはがし 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ
(二十・四四一七)
放飼の赤駒を捕まえられなかったので、あの多摩の山を歩いて
行かせることになるのか
この歌は豊島の防人の妻の作です。武蔵の防人は府中から相模を経て難波に向かったそうで多摩の横山というのは相模までの中途にある山を指しているそうで、不本意ながら夫に馬を用意できなかった事を悔やんでいる内容です。まあ防人が馬に乗れたとしても家人や奴婢はやっぱり歩きだったのでしょう。長野や千葉、栃木から大阪まで歩いてどれくらいかかるのでしょうか。
常陸さし 行かむ雁もが 我が恋を 記して付けて 妹にしらせむ
(二十・四三六六)
常陸を指して飛んで行く雁でもいたら、俺の想いを記して彼女
に伝えたい
今なら携帯電話があり世界中どこに居ても繋がることができるけれど、この時代の伝言はせいぜい隣の郷村くらいまででしょう。文字を知らなければ手紙も書けません。旅の日数を重ねるにつれて故郷との繋がりは薄れてその人たちへの想いだけが心の中に溜まっていくのでしょう。また残された人も同じ想いだったのでしょうか、こんな歌があります。
庭中の 阿須波の神に 小柴さし 我れは斎わむ 帰り来までに
(二十・四三五〇)
庭の真ん中に祀られている阿須波の神に小柴を刺して、潔斎し
て祈っています、帰って来られるその日まで
街道には宿場町もなく、熊や山犬がうろつく山野を歩き、川には橋もなく歩いて渡ったのであろう防人たちの無事を祈っていたのでしょうか。とにかくその旅は困難を極めたのではないかと思います。防人たちは道中の無事を祈りながら旅を続けたのでしょうか。こんな歌もあります。
国々の 社の神に 幣奉り 贖祈すなむ 妹が愛しさ
(二十・四三九一)
行く先々の社の神々に祈るたびに俺の無事を祈ってくれている
妻が愛しい
また食糧などはどうしていたのでしょう。この時代の税は「租庸調」と言われています。「租」は米などの農産物で「調」は絹や麻布の事です。「庸」とは役民などの労働奉仕のことですが、京から遠く離れた人たちは労働の代わりに米や布を出したそうです。そしてこの米が役民の食糧になったそうなのですが、防人の食糧も税金から賄われていたのでしょうか。
こうして東国各地から集められた防人は難波に到着すると難波津から順番に船出をして行ったそうですが、この時代の人たちが日本というこの島国の形を知っていたとは思えません。防人たちはどんな思いで難波の港を見ていたのでしょうか。
百隈の 道は来にしを またさらに 八十島過ぎて 別れか行かむ
(二十・四三四九)
何度も何度も道を曲がって遥々と来たのに、この上まだ幾つも
の島を過ぎて別れて行かねばならないのか
今までは兎にも角にも故郷と地続きだったけど、此処からはいよいよ故郷の土と離れてしまうのだと防人たちは心細く感じているのでしょうか。
国々の 防人集い 船乗りて 別るを見れば いともすべなし
(二十・四三八一)
あちこちの国々から防人が集まり、船に乗り込んで別れていく
のを見ると、もうどうしようもない
この時代は遣唐使なんかもあったので、それなりの官船はあったのでしょうが、その船に乗せられて出港して行く他の地方から来た防人たちを明日は我が身と眺めていたのでしょうか。
八十国は 難波に集い 船かざり 我がせむ日ろを 見も人もがも
(二十・四三二九)
国々の防人が難波に集まっている。私が船出する日、その姿を
見守る人が居てくれたならなぁ
白波の 寄そる浜辺に 別れなば いともすべなみ 八度袖振る
(二十・四三七九)
白波が寄せてくるこの浜辺で故郷から遠く離れてしまったら、
もうあとはどうしようもないので、俺は何度も何度も袖を振っ
ている
今までは会えないとは分かっていても心のどこかでは繋がっていると感じていたのが、もうこれで家族と同じ土を踏み締める事も叶わなくなった、ここからは海の彼方へと離れて行くのかと覚悟を決めたのでしょうか。
難波津に 御船下ろ据え 八十楫貫き 今は漕ぎぬと
妹に告げこそ
(二十・四三六三)
難波の港に御船を下ろして浮かべ、びっしりと櫂を貫き並べて
たった今漕ぎ出したと妻には伝えて下さい。
残していく家族に心を残しながらも、これが最後、いよいよ完全にお別れの時が来た。どうか無事に帰って来られるように祈って待っていてくれと願っていたのでしょうか。
天地の いづれの神を 祈らばか 愛し母に また言とわむ
(二十・四三九二)
天地のどんな神様に祈りを捧げたら、懐かしい母さんともう一度
言葉を交すことができるのか
「あめつし」は「あめつち」の千葉弁です。近代の世界大戦の時、亡くなった兵士の最期の言葉はどの国の兵士も「お母さん」だったそうです。萬葉の時代でも最後の別れに思い浮かべるのは、やはりお母さんだったのでしょうか。
さて、ここで紹介した防人の歌は題詞に「天平勝宝七歳(七五五年)に進る」とあります。中大兄皇子が白村江で敗れて友好国であった百済が滅亡しました。それ以降、大和政権と朝鮮半島とはお互いに定期的に使節団を送り合っていたようですが儀礼的なやり取りだけだったようです。例えば聖武天皇が遣新羅使人の大使を送った時、突然新羅は使いの旨を拒否します。朝廷は「使いを送って新羅の本意を尋ねるべき」「兵を起こして成敗すべき」と意見が別れ、にわかに両国関係は緊張しました。その時の使節団は京に帰る途中、大使と副使は九州でその頃蔓延していた疫病に倒れ、副使はなんとか命を取り留めましたが大使は亡くなってしまい遣新羅使人は大失敗に終わりました。この悲劇の顛末は萬葉集の十五巻前半に物語風に纏めてあります。しかし『続日本紀』を読むとその後も何事もなかったように使節団のやり取りが続いています。恐らく新羅との関係は年賀状のやりとりのような儀礼的な挨拶は交わすけれど、友好国とは言えない警戒が必要な関係だったのでしょう。とは言えそのような国際情勢を末端の兵士にまで周知していたとは思えません。恐らくは敵の襲来から我が国を守るために筑紫まで行くのだくらいしか聞かされていなかったのではないでしょうか。防人たちにもこれからいよいよ厳しい任務に就くのだという心意気が感じられます。
今日よりは かえり見なくて 大君の 醜の御盾と
出で立つ我れは
(二十・四三七三)
今日からは後ろを振り返って案じたりすることなく、大君の
御盾として出立して行くのだ俺は
天地の 神を祈りて さつ矢貫き 筑紫の島を さして行く我れは
(二十・四三七四)
天地の神に無事を祈って、矢を靭にさし貫き、筑紫の島を目指
して行くのだこの俺は
残念ながら防人の歌は難波津を出港した所で終わっています。というのも防人部領使の任務は東国で召集した防人たちを難波に送り届けるまでで、それ以降は家持の所への報告はなかったようです。恐らく前線からの報告と言えば「本日、天気晴朗なれども波高し」みたいな情勢報告のみだったのでしょう。なので筑紫、壹岐、対馬の防人たちがどんな思いで任務に就いていたのか、任期を終えた防人たちが交代要員をどんな思いで迎えたのか、新たに任地に着いた防人たちは古残の兵士たちをどのような思いで見ていたのか、全く分かりません。そこには色んなドラマがあったんだろうなぁ、とただ想像することしかできません。
拾弍 麻佐吉久登
昨日マロンが死んだ。
二三日前から風邪っぽい症状が出てたのが、急にグッタリとし始めたので病院に連れて行ったけれど手遅れだったとマロンの世話をしてくれていた叔母ちゃんが申し訳なさそうに電話してきた。
「可哀想な事をしたけれど、ここに連れて来たとしても何が出来る訳でもない、寿命だったんだよ。仕方ないよ」とオフクロは言ってたけれど、でも家族の顔も見えず声も聞こえないところで死んでいくのはどんな気持ちだったんだろう。マロンは俺が小学生の頃にオフクロが知り合いから譲って貰った犬で、家に来た時にはもう成犬だったけれど小型犬だったので俺は弟が出来たみたいですごく嬉しかった。マロンの前の飼い主がどんな人でなぜ手放すことになったのか、その辺の事情は何も知らない。家に来た当初は家族団欒でテレビなんかを見ている時、マロンはカーテンの隙間からじっと外を見ている時があった。マロンが死んだという話を聞いた時、何故だか俺ら家族に背を向けてじっと暗闇を見つめていたあの時のマロンの姿が思い浮かんだ。それでも日が経つと、顔を合わせる俺と遊んでいる方が楽しくなったんだろうか。いつの間にか俺といる時マロンは外を見つめる事がなくなった。
今は俺も高校生となり、マロンはめっきりと歳を取ったように見える。夏休みになったある日、親父が**県に転勤になった、二週間後に赴任するからと突然言い出した。親父ははっきり言わなかったけれど、もしかしたら関連会社にでも飛ばされたんじゃないだろうか。まあ親父の歳で再就職も厳しいだろうしリストラされるよりはマシだと思うことにする。当然、単身赴任なんてできるほど経済的に余裕がある訳もなく、一家揃って引っ越す事になった。俺は**県の高校の編入試験を受けたり引っ越しの荷造りやらやる事が一杯あって高橋に引っ越しの話をするのが出発当日になってしまった。
高橋はいきなりのことでブチ切れていたけれど、でもお前なら分かってくれるよな。引っ越し先は社宅、といっても普通のアパートでペットは不可。仕方なくマロンは叔母ちゃんが引き取ってくれることになった。猫派の叔母ちゃんは最初は渋っていたけれど小型の老犬で散歩といっても家の周りを一回りするだけで良いからと頼み込んでなんとか引き取って貰ったんだけれど、マロンにそんな人間の事情が分かる訳がない。俺は何度か高橋に連絡しようとしたけど、そしたらお前、絶対に送別会をしよう、最後にどっかへ遊びに行こうとか言い出すだろう。でも俺はその時間を全部マロンに使ってやりたかったんだ。俺は毎日、もうすぐ会えなくなるけれどお前を捨てた訳じゃないよ、冬休みには会いに来るからそれまで元気でいろよ、とマロンに言い聞かせていたけれど、マロンはただ「遊ぼう遊ぼう、何して遊ぶ」とピョンピョン跳ね回るだけ。そうだよな。マロンにあるのは今だけ、だから今この時を楽しもうな、と一分でも一秒でもマロンと一緒に居たかったんだよ。
高橋なら、俺の事情は分かってくれるだろ? 離れていてもいつでも電話なりメールなり出来るし俺たちずっと親友だろ? 見送りは要らないって言ったのも、別に高橋なんてどうでもいいからじゃない。叔母ちゃんが駅まで連れて来たマロンの相手を最後のギリギリまでしたかったからなんだよ。
改札を抜けて振り返ったら、マロンは連れて行ってもらえない事は理解したのか叔母ちゃんの足元でお座りをしてしっぽをピコピコさせながらこっちを見ていた。まるで、行ってらっしゃい、早く帰って来てね、また遊ぼうねと言ってるみたいだった。それが俺が見たマロンの最後の姿だった。
マロンが家に来た時に、よく暗闇をじっと見つめている事があった。あの時は前の飼い主が迎えに来てくれるのを待ってるのかと思っていた。でも今思えば、マロンは聴き慣れた足音が近づいて来た思い出を頭の中で再生していたんじゃないだろうか。だんだんと足音が近づいて来て、そしてドアがゆっくり開きそこに大好きな人の笑顔が現れる。そのワクワクした記憶に浸っていたんじゃないだろうか。だから今のマロンも俺との楽しい思い出があれば、一匹で残されてもその楽しい思い出を抱えて生きていけるんじゃないかと思ったんだ。本当は死ぬ間際のマロンに寄り添っていたかったけれど、マロンは最後の時まで俺の声を、マロンを撫でてやった俺の手の感触を思い出して、きっと楽しい気持ちで旅立って行ったんじゃないかって、今はそう思うんだ。それでもできたらもっともっといっぱいマロンに思い出を作ってやりたかった。アイツには、マロンには俺しか居ないんだよ。
新しい学校では、幸い怖い先輩に目を付けられることもなく地味ながら友達もできてまあ楽しくすごしている。この町は海にも近く、といっても砂浜はなく寂れた漁港といった風情だけれど、海が見えない我が家にも毎日、潮の匂いのする風が吹いてくる。俺はマロンにこの風景を見せてやりたい、この潮の匂いを嗅がせてやりたいと思ってた。マロンにここの画像を送っても味も匂いもしない画面なんてなんのことだか分からないだろうし。
あの時、高橋よりもマロンを優先したことをアイツはずいぶん怒っていたけれど、もちろん高橋と一緒にいる時間なんてどうでもいいって訳じゃない。それは高橋も分かってくれていると思う。高橋なら俺と離れていてもずっと繋がってられる。これからも色んな思い出をいっぱい作れるだろう。ここの風景を写真に撮って高橋に送ったら、高橋からは頑張れよみたいなメールがきて、それからはポチポチとメールのやり取りをしてる。まあ女子みたいに毎日長電話なんてしないけど、それでもアイツは今でも親友だと思っている。
発車ベルが鳴って電車が動き出したと思ったら、いきなり携帯が鳴り出した。画面を見たら高橋からメールが来てた。慌ててデッキに出て外を見た。町外れの川沿いにあるショッピングモール、スピードを上げる電車が鉄橋に差し掛かった時、ショッピングモールの屋上駐車場の所で手を振っている豆粒みたいに小さな高橋の姿がはっきり見えた。高橋からは見えないと思うけど俺もデッキから手を振り返してから返信メールをした。
「ありがとう」
ま幸くと 言いてしものを 白雲に 立ちたなびくと
聞けば悲しも
(十七・三九五八)
無事でおれとあんなに言っておいたのに、白雲となって棚引い
ていると聞くのは、本当に悲しい
かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も
見せましものを
(十七・三九五九)
こんなことになると前からわかっていたなら、この越の海の、
荒磯に打ち寄せる波の有様でも見せてやるのだった。
【解説】
この歌の作者は大伴宿禰家持です。家持が越中に赴任する時に見送りに来てくれた弟の書持の訃報を聞いて詠んだ歌です。
『肆 夏野之』でも紹介しましたが大伴一族は祖先が神話時代にも遡れる由緒正しい名門です。家持は文武両道に秀でていたようで、歌作にも才能を発揮し、「大伴宿禰家持、亡妾を悲傷しびて作る歌(三・四六二)」が宮廷デビュー作だと解説に書かれていました。その内容は「柿本人朝臣麻呂、妻死にし後に泣血哀慟してつくる歌(二・二〇七)」(『陸 去年見而之』参照)を参考にして作ったものだと思われますが、家柄正しく才能溢れる若き貴公子の出現は宮中の人々から熱い視線を集めたのではないでしょうか。家持は、萬葉集の編纂を進める元正上皇を敬愛していたようで、元正上皇もこの才能溢れる若者に期待していたのでしょうか萬葉集全般の編集に家持は携わっていたようです。さらに萬葉集の十七から二十巻は家持の作品集と言えるもので二十巻などは殆ど家持の歌日記の様相を呈しています。
家持の作品は宴などで花鳥風月を歌ったものが多いのですが、それらの歌は私にはどうにも退屈に思えます。いえ下手くそとかそういう意味ではありません。立場上、宮中の図書寮なども自由に出入り出来たのでしょう。家持の歌には柿本人麻呂の他にも山上憶良など先人たちの作品を研究している痕跡があります。また宴に出て即興で歌を詠むばかりではなく予め歌を作り置きするなど予習にも手ぬかりはありません。家持の歌のただし書に「いまだ奏せず」と書いてある歌がいくつかあります。せっかく作り置いた歌ですが発表する機会もないまま歌集に収めたものなのでしょう。しかしこういう技巧を凝らして綺麗に作り込んだ花鳥風月の歌に私は興味が持てないのです。私が面白いと感じるのは例えば読んでいると萬葉人の泣いたり笑ったりする表情が浮かんできて「ふふw」となるような歌なのです。
ともかく家持の生涯を萬葉集の成り立ちや時代背景に絡めて纏めてみたいと思います。
萬葉集全二十巻のうち一巻の前半は持統天皇が大上天皇になってから集めたもので、一巻の後半と二巻は元明天皇の頃に編纂され、三巻以降十六巻までは元正天皇が拾遺したものだそうです。解説にはその根拠や理由についてもくどくどと書いてありましたが、面倒くさいので省略します。では持統天皇はなぜこの歌巻を作ろうとしたのでしょうか。
実は萬葉時代までの歴史書など貴重な記録は残念ながら乙巳の変の時に曽我蝦夷が燃やしてしまいました。そこで天武天皇はそれに代わる正史の編纂を命じました。舎人皇子は父の命を受け全三十巻の『日本書紀』を編纂します。これらの書物を皇子や皇女は国の為政者に必要不可欠な教養として学んだのでしょう。そして持統天皇はそれらの国書から零れ落ちるもの、即ち文学というか日本人の心を後世に伝えたかったのではないでしょうか。そして元明天皇や元正天皇は持統天皇の思いを受け、持統天皇の集めた和歌にさらに継ぎ足していったと考えられています。特にこの歌巻を十六巻まで拾遺した元正天皇には祖母(持統天皇)の思い何としても後世に伝えたいという執念のようなものを私は感じました。
持統天皇と元明天皇の父である天智天皇は若い頃、政を私物化する豪族を排除し「帝道は唯一つ、君は天下に唯一人、臣は君に忠誠を尽くすこと」と宣言します。しかし晩年には大友皇子に譲位したいと密かに考えていたようです。とはいえ落ち度のない大海人皇子から皇太子の身分を剥奪することも出来ません。そこで近江宮は大海人皇子から距離を置くようになり、結果的に朝廷から皇族を遠ざけて大友皇子を補佐する豪族を要職に任命することになります。壬申の乱で勝利した天武天皇は再び豪族を要職から排除し、自分に従う皇子たちを呼び集め、協力して朝廷を纏めて行くように要請しました。この政治体系を「皇親政治」と言うそうです。持統天皇は夫に倣って皇親政治を推し進めましたが、皇太子の草壁皇子は病弱で即位前に亡くなります。そして次の後継として期待した文武天皇は続日本紀に「天の縦せる寛仁にして慍色に形れず」とあります。温厚な性格でリーダータイプと言うより調整役タイプだったのでしょう。しかも文武天皇は父よりもさらに短命でした。文武天皇の後を継いだ元明天皇は皇太子の首皇子を持統天皇が望んだ、皇族をまとめて国を引っ張っていけるような力強い天皇に育てようとします。しかし、自分には新天皇の後ろ盾として使える時間が残り少ないと悟り、娘に後事を託します。後を引き受けた元正天皇は「(皇太子は)年歯猶稚くして政道に閑わず(まだ子どもで政治の事が分からないから)」と言って舎人皇子や新田部皇子(天武天皇の第七皇子。舎人皇子の弟)を補佐役に任命し、さらに佐為王(敏達天皇の玄孫)や山上憶良など十六人の碩学を皇太子の教育係にあて帝王学を叩き込みます。そして皇太子が朝廷を見学する様になった五年後、二十四歳になるのを待ってようやく譲位しました。しかし母娘二代に渡り万全を期して育てたその聖武天皇はマザコンでした。
聖武天皇の母、藤原宮子は病弱で聖武天皇は母と会い見える事なく成長しました。母と対面したのは即位した十三年後、つまり即位した時にはまだ母の顔も知らないままだったのです。聖武天皇は即位直後の勅で母に「大夫人」の称号を与えましたが、翌月、左大臣の長屋王がこれを問題視する奏言をしました。公式令(公文書の書式を規定した法律)を調べると本来は「皇太夫人」が正しい称号で「大夫人」は違勅となる恐れがあると言うものです。違勅の罪は懲役二年です。天皇は仕方なく先勅を撤回し、公式には「皇太夫人」、口頭では「大御祖」とすると訂正しました。母を思うあまりの暴走とはいえ、即位早々に面目を潰された天皇は杓子定規に事を進める長屋王を煙たく思った事でしょう。これが後々の悲劇の伏線となります。
聖武天皇の母、藤原宮子には安宿媛という異母妹が居ました。容姿が美しく光り輝くようだったので光明子と呼ばれていて、記録にも才色兼備で幼い頃から大変利発だったとあります。光明子は十六歳の頃、皇太子であった首皇子と結婚し最初に阿倍皇女を、そして夫が即位して聖武天皇となってから大望の皇子、基王を産みます。大喜びした天皇は大赦を施し、皇子と同日に生まれた子どもたちにプレゼントを贈ります。さらに生後一ヶ月の時に基王を皇太子にするという勅を出しました。しかし翌年、皇子は一歳にならずに病没します。天皇は嘆き悲しみ三日間も仕事を休み、亡くなった皇子のために新たに寺を建立しました。
その頃は権勢を誇った藤原不比等も既になく、不比等の四人の子どもたち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の時代になっていましたが、皇子の夭折は藤原四卿と呼ばれるこの兄弟にも大きな痛手になりました。さらに追い討ちをかけるように、天皇のもう一人の夫人、県犬養広刀自が浅香皇子を産みます。天皇の外戚として勢力拡大を狙う藤原一族にとってはまさに暗雲棚引く状況でした。
翌年「長屋王が左道(邪道、良くない道)を学んで国家転覆を謀ろうとしている、基王もその呪詛で亡くなった」という密告がありました。たちまち兵に取り囲まれた長屋王は自刃して果てます。そして長屋王の妻である吉備内親王(元明天皇と草壁皇子の間の末っ子、文武天皇、元正天皇の妹。『弍 河上乃』参照)と子どもたちも同時に亡くなりました。萬葉集には長屋王と息子の膳部王の死を悼んだ挽歌(三・四四一、四四二)が載っていますが、二人の非業の死に対する秘かな悲憤と無常感を込めた歌になっています。
長屋王亡き後、実権を握った藤原四卿は異母妹の光明子を皇后に立てます。史上初の臣下からの立后でした。この時代の最高権力者は天皇でしたが、皇后や内親王は政治に意見する権限があります。藤原四卿の狙いは次に光明子が男子を産んだら、浅香皇子よりも優先して皇太子にしようというものだったらしいですが、皇后というのは即位して女帝にさえなれるくらい、重要な身分なのです。実際には光明子がこのあと男子を産むことも、即位する事もありませんでしたが、この事態の推移からいって長屋王の変は煩い邪魔者を排除しようとした四卿の陰謀であったと考えられています。
しかし聖武天皇は長屋王については、四卿の言葉を信じたようです。少年の頃から師と仰ぎ、経験の浅い自分の補佐役として頼りにしていた長屋王が実は自分を亡き者にしようとしていた、思えば即位直後の奏上も自分を貶めるためだったのではないか、と疑心暗鬼は募ります。さらに希望を託した基王には先立たれ、聖武天皇は急速に政治の世界への興味をなくし、信仰の世界へとのめり込んで行きました。
自分の片腕であった長屋王と妹の吉備内親王の死は元正上皇にとって大変な痛手でした。しかも藤原四卿は臣下である光明子を立后させる暴挙に出たのです。つまり皇族でもない臣下が帝位に就く可能性が出てきたのです。そこで元正上皇は聖武天皇の皇太子時代に教育係だった佐為王やその兄の葛城王と接近します。二人は皇族から臣下に降り橘姓を賜り、兄の葛城王は橘諸兄、弟は橘佐為と名乗ります。その時に聖武天皇は
橘は 実さえ花さえその葉さえ 枝に霜降れど いや常葉の木
(六・一〇〇九)
橘は実も花もその葉も霜がふっても枯れないめでたい木であるぞ
という歌を贈り、それに応えて諸兄の息子の奈良麻呂が
奥山の 真木に葉しのぎ 降る雪の 降りは増すとも
地に落ちめやも
(六・一〇一〇)
奥山の真木の葉にどんなに雪が降り積もろうとも橘の実は地に
落ちることはありません(末長く家名を汚す事は致しません)
と歌っています。萬葉集には聖武天皇の歌の後に「或いは元正上皇の作」と注があります。橘を寿ぐ歌は元正上皇が橘兄弟の繁栄を願って贈った歌かもしれません。
翌年、政局が大きく変わる事態がおきます。藤原四卿が天然痘で相次いで亡くなってしまったのです。橘諸兄は唐から帰朝した玄昉や吉備真備らと共に事態の収拾を図り、聖武天皇と光明子の長子である阿倍内親王を皇太子に立て皇位継承の道筋を付けます。この時、阿倍内親王は二十一歳、史上初の女性皇太子です。
藤原四卿の一人、宇合の長男広嗣はこの頃、左遷されていたのですが橘諸兄の執政に不満を述べ、玄昉や吉備真備の排除を求めて九州で挙兵します。
家持はこの少し前に、内舎人として宮廷に出仕しています。内舎人とは帯刀して宮中の警護などに当たる役職です。広嗣の乱の時、家持は伊勢に行幸する聖武天皇に付き従って河口(現在の三重県津市)の行宮にいました。萬葉集にはそこで詠んだ歌が載っています。「妻が恋しい(六・一〇二九)」と言った内容なのですが、この時の家持は現実を前に鬱々としたものがあったのではないでしょうか。何度も書きますが大伴一族は天孫降臨の時に先導を務めた武人の子孫です。広嗣の乱は家持が宮廷に出仕して初めての大事件でした。当時二十三歳だった家持は壬申の乱で華々しく活躍した大伯父の大伴御幸のように名を上げたかったのではないでしょうか。家持は「勇士の名を振わん事を慕う歌(十九・四一六四)」という歌を詠んでいます。その歌に添えられた短歌で
ますらおは 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も
語り継ぐがね
(十九・四一六五)
ますらおは、名を立てなければならない。後世に聞き継いだ人
が語り継いでくれるように
と詠んでいますが、これが血気盛んな家持が目指した生き方なのでしょう。しかし現実を見ると、広嗣は人を従えるような器も人望もない、親の七光でチヤホヤされていたボンボンが自分をもっと尊重しろと駄々を捏ねているだけで、宮廷が向けた討伐軍にあっさりと成敗されてしまいます。そして家持が仕えている聖武天皇は謀反に立ち向かう覇気もなく、平城京を放棄して東国へと彷徨を始めます。
光明皇后は宮廷で孤独でした。皇后の肩書は持っているものの、祖父の代に俄かに成り上がった新興貴族の身分です。聖武天皇の生みの母の宮子は光明皇后の異母姉ですが病弱な上、皇太夫人の肩書があるだけの何の影響力もない立場で皇后の力にはなってくれません。聖武天皇は一人っ子なので藤原の血を引いた皇族は聖武天皇と娘の阿倍内親王だけです。聖武天皇の育ての親の元正上皇は強力な皇親政治の推進派で臣下出の光明皇后など歯牙にも掛けなかったでしょう。異母兄の四卿が相次いで亡くなり、孤立無援の状態での甥広嗣の反乱は光明皇后の立場をますます窮地に追いやるものでした。そんな光明皇后を何かと気遣ってくれたのが仲麻呂でした。藤原仲麻呂は武智麻呂の次男で広嗣の従兄弟、皇后の甥になります。孤独だった光明皇后は仲麻呂に何かにつけて頼るようになっていきました。
聖武天皇は迷走していました。元正上皇からは力強く国をまとめて行くように日頃から教え諭されていましたが教え導いてくれるはずの皇親派の人たちには裏切られ、頼みの臣下は相次いで病没し、何とか我が身一つでこの国を導いて行こうと奮闘します。
この頃、国中で天然痘などの疫病が猛威を振るい、それで藤原四卿も亡くなっています。さらに天候不順による不作が続き、追い討ちをかけるように広嗣が乱を起こすなど、人心は乱れていました。広嗣の乱の時、伊勢から東国へと行幸していた聖武天皇は乱が平定されると恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)を新しい都とすると宣言します。そしてまだ造営中だった恭仁京で諸国に国分寺を建立する勅を出します。人心の動揺を仏教の力で収めようとしたのです。さらにまだ恭仁京が完成していないのに頻繁に近江の紫香楽宮(現在の滋賀県甲賀市にあった宮)を訪れ、そこで「天下の富を持つ者は朕なり。この富と勢を以てこの尊き像を造る」と紫香楽に大仏を造るとぶち上げます。そしてその翌年、今度は難波宮を帝都とすると宣言します。家持は恭仁京が都と定められたときに、恭仁京を讃える歌(六・一〇三七)を詠んでいますがその後、聖武天皇が帝都を難波に移すと宣言したため恭仁京は完成を見ずに廃都となりました。萬葉集には廃都となり荒れ果てた恭仁京を悲しんで作ったという歌が載っています(六・一〇五九~一〇六一)
聖武天皇は恭仁京から、たびたび難波宮を訪れていましたが、ある日その難波行に同行していた浅香皇子が旅の途中で脚の病が悪化したため恭仁京へと引き返し、そこで急死してしまったのです。まだ十七歳の若さでした。死因は心臓脚気であろうと言われていますが、この時、恭仁京で留守番をしていたのが藤原仲麻呂だったため浅香皇子の死には仲麻呂が関与していたのではないかという説もあります。
浅香皇子はまだ少年で藤原氏と敵対していた訳ではないのですが、橘諸兄を筆頭に皇親政治を進める勢力は藤原氏の血筋ではない県犬養広刀自所生の子どもたちのもとに集まっていました。橘諸兄は皇子の死因に藤原仲麻呂が関わっているのではないかと疑い、両者はますます反目するようになり、対立が深まったようです。元正上皇に目をかけられていた家持は橘諸兄の庇護を受けており反藤原勢力に近い立場でした。浅香皇子とも交流があったようで、皇子が藤原八束(藤原北家、房前の子)の家を訪れて宴をした時に、同行した家持が皇子に代わって歌を詠んでいます(六・一〇四〇)。また浅香皇子の薨去に際して挽歌を詠んでいます(三・四七五〜四八〇)。
皇子の死を巡る橘諸兄と藤原仲麻呂の対立の他に、地震や紫香楽宮付近の火災の頻発など不安要素が重なる中、聖武天皇は平城京に戻ります。そして紫香楽に造ると宣言した大仏を平城京に造ることにしました。聖武天皇は約五年、平城宮を離れて放浪していましたが天皇不在の間に平城京はすっかり寂れてしまいました。その頃の様子を詠んだ歌が萬葉集に載っています(六・一〇四四~一〇四六)
聖武天皇が平城京に戻った翌年、家持は越中守に任じられます。越中とは現在でいうと富山県と石川県の一部の地域のことで家持は約五年間、都から離れることになります。
越中に赴任していた時に家持は越中掾であった大伴池主と親交を結びます。池主は大伴一族ですが一族の家系図に名前がないので家持との関係は分かりません。しかし歌の才能はあったようで家持とは盛んに歌のやり取りをしています。家持は池主の作品に大いに刺激を受けたようです。萬葉集の十七巻から二十巻は家持が纏めたものですが、その多くが池主との歌のやり取りや池主を読者と想定した内容になっています。家持は越中に赴任していたこの時期に、自身の作品や自分が興味を持った歌を元正上皇が纏めているような歌巻にしようと考え始めていたようです。
家持が越中に赴任している間に京では元正上皇が崩御します。元正上皇は萬葉集に幾首か歌を詠んでいますが、その一つに
ほととぎす なおも鳴かなむ 本つ人 かけつつもとな
我を音し泣くも
(二十・四四三七)
時鳥よ、どうせ鳴くならもっと鳴け、お前は亡き人の名を呼ん
で私を泣かせる
という歌があります。元正上皇が何歳の頃にこの歌を詠んだのかは分かりませんが、上皇の経歴を調べてみると上皇が七歳の時に、皇親政治を始めた祖父(天武天皇)が崩御しています。その後、父(草壁皇子)、祖母(持統天皇)、母(元明天皇)そして弟(文武天皇)、妹(吉備内親王)、さらに妹の夫で従兄弟にあたる長屋王と、妹夫婦の甥たちとも死に別れています。残された血族は弟の忘れ形見である聖武天皇と後継のいない女性皇太子のみです。祖母や母から託されたバトンを手渡すはずだった聖武天皇の皇子たちももういません。さらに元正上皇が進める皇親政治を補佐した天武天皇の皇子たちも既に亡くなっています。天武天皇を直に知っていた最後の有力皇族である元正上皇の崩御は皇親政治の終わりの始まりだったのではないでしょうか。
元正上皇が崩御した翌年、陸奥国(現在の福島、宮城、岩手、青森に渡る地域)で大仏の鍍金に充てるのに充分な金が発見され、聖武天皇は光明皇后と阿倍内親王を連れて東大寺で感謝の詔を発しました。この詔の中で「大伴一族は天皇を忠実に護っている」と褒め、家持は昇進し、それを喜んだ家持は歌を詠んでいます(十八・四〇九四〜四〇九七)が、聖武天皇の詔と家持の歌詞の中に「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かえり見はせじ」という一節が出てきました。昭和の軍歌ですね、これ。
聖武天皇はこの時に仏門に入り譲位することを決めたようで、この年の夏に阿倍内親王が即位しました。孝謙天皇の誕生です。孝謙天皇が最初に取り掛かった仕事は聖武天皇の悲願であった大仏を完成させる事でした。
話は前後しますが光明皇太后は仏教に深く帰依していて、立后する直後に設置された皇后宮職を拠点として自らの財によって施薬院や悲田院を設置しています。皇后宮職には現代の厚生労働省みたいな性格が有ったようです。皇后が設置した施薬院というのは今でいう病院のことで、悲田院というのは孤児院やホームレス収容所のことです。聖武天皇が勅した国分寺や国分尼寺創建や大仏建立も光明皇后の意向によるものだそうです。
家持は孝謙天皇が即位した二年後に帰京していますが、国家事業として仏教を推し進める中、武人である家持の出る幕はありません。この頃の心境を「心の痛みは歌でしか払い退ける事ができない(二十・四二九二左注)」と萬葉集に書き記しています。そしてこの頃に兵部少輔として前章で紹介した防人の歌などを書き残しています。
家持が帰京した数年後、聖武上皇が「道祖王(新田部親王の子。天武天皇の孫)を皇太子にせよ」という遺言を残して崩御しますがその八日後、淡海三船(大友皇子と十市皇女夫妻の曽孫)と大伴一族の長老、古慈斐が朝廷を誹謗した罪で逮捕されます。その事件について家持は「族を喩す歌一首 併せて短歌(二十・四四六五〜四四六七)」と言う歌を詠んでいます。家持はこの歌の左注に「三船の讒言によって古慈斐が解任された」と書いていますが、続日本紀には「藤原仲麻呂が三船、古慈斐の二人を陥れた」とあります。家持は当然、真犯人を知っていたのでしょうが光明皇太后の寵臣として飛ぶ鳥を落とす勢いの仲麻呂を敵に回すと自分の政治生命が終わると思い、ただ古慈斐は無実であると匂わせる注を書き添えただけだったのではないでしょうか。
翌年の正月、家持の庇護者でもあった橘諸兄が亡くなりますが、その二ヶ月後「皇太子の道祖王は喪中の作法がなってない」というクレームが出て、廃太子されてしまいました。新しい皇太子を誰にするかという鳩首会議で孝謙天皇は何人か挙げられた候補を退け「大炊王がいいんじゃないかしら。別に悪い噂も聞かないし」という鶴の一声で決めてしまいました。但しこれは孝謙天皇が自分の意思で決めた訳ではなく孝謙天皇の母の光明皇太后、さらにはその後ろで糸を引いていた皇太后の寵臣、藤原仲麻呂の意向だったようです。大炊王は舎人皇子の子ですが二歳の時に父とは死別しています。長じて仲麻呂の長男の未亡人と結婚し仲麻呂の私邸で暮らしていたという仲麻呂の養子格だった人です。仲麻呂は光明皇太后を通して権力を手にして来ましたが、高齢となった皇太后に代わる傀儡を作ろうとしたのでしょう。橘奈良麻呂(橘諸兄の子)はそれに反発し、同志を集めて仲麻呂を排除しようと企てますが、謀叛の計画を密告する者があり反仲麻呂勢力は逆に朝廷から一掃されてしまいました。この事件は後年「奈良麻呂の変」と呼ばれるようになりました。
謀叛には数百人が関係していましたが中心人物であった橘奈良麻呂は刑死、他の首謀者も拷問死しました。大伴一族では家持の従兄弟にあたる胡麻呂が亡くなっています。続日本紀を見ると家持の歌友達だった池主の名前も懲罰を受けた人として記録があるので、恐らくこの時に彼は獄死したと考えられます。
家持は謀叛の計画を知っていたかも知れませんが、この計画とは距離を置いていたようです。謀叛の計画が発覚する前年、池主邸での宴に家持は参加していません。どうもその頃には既に二人の間に距離があったようです。家持は萬葉集に四五〇首以上の歌を残していますが、家持の歌を読んでいると「謹厳実直」という言葉が浮かんできます。これは想像ですが家持は天智天皇が宣言した「臣は君に忠誠を尽くすこと」を旨としていたのではないでしょうか。仲麻呂の態度は目に余りますが朝廷の人事は皇族が決める事で臣下が口出しする事ではない、と考えていたのかも知れません。浅香皇子が薨じた時、皇子への挽歌で家持は
大伴の 名負う靫帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ
(三・四八〇)
万代までお仕えしようと思っていたこの思いを誰に向けようか
と歌っています。家持は目障りなライバルを蹴落とすよりも、自分が今できること、即ち忠実な臣下として天皇に仕える事が自分の使命だと考えていたのではないでしょうか。
先に天武天皇は壬申の乱のあと要職から豪族を排したと書きましたが、壬申の乱で功績のあった大伴氏や佐伯氏のような一部の豪族までは排除することはできませんでした。例えば大伴御幸は兵部省大輔(現在の防衛大臣みたいなものでしょうか)や大納言に任命されています。対する藤原氏を見ると、その祖である鎌足は天智天皇の崩御前に亡くなっています。鎌足の次男である不比等は壬申の乱の時まだ八歳の少年でした。亡父の功績以外に朝廷への足掛かりが無かった不比等は長じて娘を後宮に送ることで朝廷へ食い込んでいきました。浅香皇子は十七歳で亡くなりましたが、もし成人していたら藤原一族は娘を皇子の後宮にも送り込んでいたかも知れません。大伴一族と藤原一族は、方法は違っていても宮廷で出世しようと言う野心は同じです。家持は藤原氏を排除するより共存する道を模索していたのではないでしょうか。
萬葉集に「大伴宿禰家持、藤原朝臣久須麻呂に報え贈る歌(四・七八六〜七八八)」「また家持、藤原朝臣久須麻呂に贈る歌(四・七八九〜七九〇)」と言う歌が載っています。題詞にある藤原朝臣久須麻呂というのは仲麻呂の子で、歌の内容を見ると久須麻呂は家持の娘にプロポーズしていて家持もこの縁談を歓迎しているようです。また、久須麻呂の母(仲麻呂の妻)が亡くなった時に家持は挽歌を詠んでいます(十九・四二一四~四二一六)。仲麻呂を排除するということは家持の女婿をも窮地に陥れることになります。家持は仲麻呂のやり方に反発を覚えてはいても仲麻呂の破滅は望んでいなかったのではないでしょうか。
奈良麻呂の変に関わった人でもその程度が軽いものは軽微な罪で済んだようです。大伴一族の長老、古慈斐は流刑になりましたが、後に復位しています。また家持の義弟にあたる駿河麻呂(『肆 夏野之』参照)もこの事件に連座していたようですがどんな罰を受けたかは分かりませんでした。家持も特に咎められてはいないのですが、翌年に因幡守に任じられています。因幡は越中よりも格が落ちる地域です(因幡在住の方、ごめんなさい)。この人事はやはり奈良麻呂の変の影響なのでしょう。
皇太子を決めた翌年、孝謙天皇は母の介護を理由に譲位しますが、この譲位も光明皇太后の、つまりは藤原仲麻呂の意向だったようです。
新天皇が即位した翌年の正月に家持は
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
(二十・四五一六)
新しい年の初めの今日降る雪のように、いよいよ積もれ佳き
ことが。
という歌を詠んでいます。そして万代の後までの繁栄を願うこの歌で萬葉集は締め括られています。
萬葉集はここで終わっていますが、この後の家持の人生とこの歌巻の数奇な運命についてこれから書いて行きたいと思います。
新天皇は稀代のボンクラでした。何事も仲麻呂の言いなりで仲麻呂のことを「朕の父と思う」と言って恵美押勝という名前を授け、太政大臣に任じてさまざまな特権を与えました。皇族以外で太政大臣に就いたのは仲麻呂が初めてです。自分の言いなりになる天皇と、光明皇太后を通して思う通りに動く上皇と、二人の操り人形を手に入れた仲麻呂は正にこの世の春を謳歌していました。しかし季節はいつか廻るものです。新天皇が即位して三年目に光明皇太后が亡くなります。その翌年、孝謙上皇は病に倒れますが、その時上皇を治療したのが僧の道鏡でした。以降、孝謙上皇は道鏡を信頼し、寵愛するようになります。
孝謙天皇は元正天皇と同じく即位することを視野に入れて不婚を強いられた女帝です。しかし孝謙天皇には、その経歴を見ても元正天皇が持っていた意志の強さのようなものがまるで感じられません。孝謙天皇の人柄を知るためのヒントとして次のようなエピソードがあります。
この解説を書くために天平時代の出来事を調べようと『続日本紀』をパラパラと眺めていたら「皇太子(後の孝謙天皇)は自ら五節の舞を舞い、聖武天皇は橘諸兄を通して元正上皇にその旨を報告した」という一文が目に止まりました。五節の舞というのは天武天皇が天下統治のためには礼と楽が必要であると考えて造ったものです。どうやら孝謙天皇は、天気の話をしながら腹の中を探り合う政治家や国の在り方を突き詰めて考える学者タイプの人ではなく、芸事に才能のある女性だったようです。もし孝謙天皇が『古事記』の時代か、遅くとも斉明天皇(天智、天武天皇の母)の時代の人だったら、その巫女的能力で国を統治したのではないでしょうか。しかし律令国家(法治国家)では巫女(神の依代)は無用の長物です。孝謙天皇は神のお告げではなく両親の意向のままに政治を進め、両親が亡くなると今度は道鏡を全面的に頼るようになったのです。
困ったのは仲麻呂(恵美押勝)です。政を自分の思う通りに動かそうとしても、道鏡が横槍を入れてくるようになったのです。なんとか邪魔者を排除しようと天皇を通して何度も「道鏡と距離を置くように」と上皇に忠告するのですが、逆ギレした孝謙上皇は政務を分割し「国家の大事や賞罰は私がやります。貴方は祭祀と事務仕事だけしてらっしゃい」と天皇に宣言します。これでは褒賞を餌に私腹を肥やすことも、目障りなライバルを僻地に飛ばすこともできません。窮地に立たされた仲麻呂(恵美押勝)は勝手に天皇の御璽と駅鈴を持ち出し、塩焼王(道祖王の兄。天武天皇の孫)を帝に立てようとします。仲麻呂が持ち出した御璽や駅鈴は帝が執政をするために必要不可欠なものです。それを知った孝謙上皇は仲麻呂を叛逆者と断じて討伐軍を送り、それを知った仲麻呂(恵美押勝)は越前に逃亡しようと琵琶湖へ漕ぎ出した所で斬殺されました。家持の女婿であった久須麻呂もこの乱で亡くなっています。
黒幕がいなくなった傀儡はただの木偶人形です。乱の後、天皇は上皇に対する謀叛の罪に問われて身だしなみを整える間もなく上皇の前に引きずり出され、廃帝を告げられました。そして淡路に幽閉されたのですが翌年に逃亡を計って捕らえられ、その翌日薨じました。恐らくは殺害されたのでしょう。その後、この人は千年以上の間「廃帝」「淡路公」などと呼ばれていましたが明治三(一八七〇)年になって淳仁天皇の諡号が追贈されました。
乱の後、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となります。称徳天皇は天命のない人に国を任せるのは禍の元だからという理由で皇太子を置かないと宣言します。そして道鏡を太政大臣禅師に、その翌年には法王に任じます。法王となった道鏡は「道鏡を帝に即位させると天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託を受けたと称徳天皇に告げます。称徳天皇は神託の真偽を確かめるために和気清麻呂を派遣しますが清麻呂は「先の神託は誤りだ。国の秩序を破る者を排除せよ」と言う神託を持ち帰ります。
ブチ切れた道鏡は清麻呂の位階と勲位を全て剥奪し穢麻呂と名前を変えて大隅(現在の鹿児島県)に、そして清麻呂の姉、広虫も狭虫と名前を変えて備後(現在の広島県)に配流します。実は称徳天皇は孝謙天皇時代に「奈良麻呂の変」の首謀者の名前を、クナタブレ(気狂いじみた馬鹿)とかマドイ(迷い者)、ノロシ(頭の回転が鈍い)などに変えてしまった過去があります。清麻呂姉弟の改名も称徳天皇が「あんな人たちは穢麻呂や狭虫で十分よ!」と道鏡を焚きつけたのかもしれませんね。しかしこの翌年、称徳天皇は皇太子を定めないまま崩御してしまいます。即日に群臣たちが皇太子選びを始めるのですが、その場に道鏡は呼ばれませんでした。
皇太子選びは紛糾しました。皇親政治を進める皇族は既に亡くなり、その流れをくむ右大臣の吉備真備は乏しい人材の中からなんとか天武系統の皇族を皇太子に推そうと頑張ったのですが、藤原百川(宇合の子。広嗣の弟)が称徳天皇の宣明を偽造して天智天皇の孫にあたる白壁王を皇太子にゴリ押しします。白壁王は既に六十二歳で当時の基準では老人でしたが、妃の井上内親王(浅香皇子の姉)は聖武天皇の血を引いているので二人の間の子、他戸親王は天智、天武両天皇の血を引くハイブリッドであるから、と渋る吉備真備を押し切ってしまいました。この会議の後、吉備真備は老齢を理由に引退しています。晴れて皇太子となった白壁王の命によって、道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺別当に左遷され、清麻呂・広虫姉弟は都に呼び戻されました。
二か月後、白壁王は即位して光仁天皇となります。妃の井上内親王は皇后に、他戸親王は皇太子になりました。光仁天皇の世になると、孝謙(称徳)朝で不遇だった人たちにも光が当たるようになりました。家持もその一人で新天皇の即位の日に二十一年ぶりに昇進しています。その後も藤原一族の権勢には及びませんが宮廷の重鎮としてキャリアを積んでいきます。
萬葉集の元となった歌巻は持統天皇以下、天武系統の皇族の手によって拾遺、保管されていたものです。天武系統であった井上皇后と、萬葉集に縁のあった家持の歌友達のグループでこの歌巻を纏め一つの歌集にしようと言う計画がこの頃にあったのではないかという説があるのですが、ここでまた不幸が起きます。なんと井上皇后が巫蠱(人を呪うこと)の大逆によって皇后を廃され、さらにこのような人の子は皇太子に相応しくないとして他戸皇太子も廃太子され、他戸皇太子の異母兄、山部王が立太子します。山部王の母は百済の武寧王の子、純陁太子を祖とする渡来系の家柄で皇位継承には縁の薄い人でしたが、推薦した藤原百川が「本人は立派な人柄なのだから母の身分は関係無い」と押し切ってしまったのです。これ以降、天武系統は絶たれ天智系統の皇統となります。
翌年、光仁天皇の姉が亡くなりますが、これは井上内親王が厭魅(人形や図形を使って害する)したためと疑われ、井上内親王は他戸皇子とともに幽閉され、そこで二人は同日に死亡します。これら一連の事件は藤原百川の策略で二人は百川に殺害されたのではないかと考えられています。この頃、家持は相模守に任じられ都を離れます。その後、伊勢守を歴任し都に戻ってきたのは七年後のことでした。
家持が都を離れている間、宮中では不穏な事件が出来します。宮中に頻繁に妖怪が出没するようになったのです。また二十日もの間、毎晩、瓦石塊が屋根に降り積るという事件も起きました。宮廷人はこれを井上内親王の祟と恐れ、何度もお祓いをしたそうです。日本では昔から天変地異や不幸な事故、病気や非業の死などは荒魂や悪霊の祟のせいと恐れていましたが、井上内親王はただの悪霊ではなく自分を不幸にした相手に報復する怨霊となってしまったのです。後世の記録に井上内親王は死後、龍の姿となり百川を蹴り殺したという伝説が収録されています。その後、百六十年近く経ってから内親王は追善供養で皇后に戻されましたが、よっぽど怨み骨髄だったのでしょうね。
光仁天皇は称徳天皇が推し進めた仏教中心の政策を変更し、律令制度の再建を目指しました。内政では繰り返される蝦夷の反乱を鎮圧し、外交では遣唐使を派遣するなど体制の強化を図ります。そしてこれらの政策を支えたのが藤原一族でした。
家持が都に戻ってきた翌年、山部王が践祚します。桓武天皇の誕生です。天皇は自分の弟である早良親王を皇太子に立て、家持は春宮大夫(皇太子の教育係)に任じられます。恐らくこの時期に家持はいったん頓挫した萬葉集の編纂に取り掛かったのではないかと考えられます。
しかし桓武朝のスタートは順風満帆ではありませんでした。井上内親王の怨霊だけではなく地震、富士山の噴火、そして天候不順による不作や疫病の流行などの凶事が重なりました。その上、塩焼王(天武天皇の孫)と不破内親王(聖武天皇の皇女。井上内親王、浅香皇子の妹)との間の子、氷上川継が天智系統の皇統を否定して謀叛を起こすなど、人心は乱れていました。そこで桓武天皇は心機一転を図るために平城京を捨て長岡京に遷都する事にします。そして遷都推進派であった寵臣、藤原種継を長岡京の造長長官に任命しました。
そのような情勢の中で家持は多彩な人生を終えます。享年六十八歳、当時としては大往生と言えるのではないでしょうか。しかし家持が亡くなった翌月、長岡京造営の責任者であった藤原種継が暗殺されるという事件が起きます。事件の首謀者であった大伴継人(家持の従甥)と佐伯高成を問い質したところ、種継を暗殺してクーデターを起こし早良親王を天皇に擁立しようという計画を家持が立てた、自分たちはこの計画を実行しただけだ、と自白しました。
大伴氏と佐伯氏は壬申の乱の時の功績により天武天皇に取り立てられた豪族で、天武系統の凋落と共に大伴、佐伯両氏は没落の一途を辿ります。事件の真偽はともあれ家持は、大伴一族の長として一族の零落と藤原氏の隆盛を目のあたりにして、何がしか思うところがあったのではないでしょうか。とにかく大伴継人と佐伯高成の自白により家持は死後にも拘らずお家取り潰しとなり、この当時の慣例により財産や蔵書などは没収されてしまいました。こうして神代から続いた名門貴族もここで潰えてしまったのです。
家持は越中赴任時代から自分で編纂してきた歌巻を私宅に持っていたと推察されるのですが、家持の歌巻もこの時同時に官没されたのではないでしょうか。家持の歌集は、持統天皇を始めとする女帝たちが集め、家持が編集した十六巻の歌巻と共に、平城宮の図書寮でさらに長い眠りにつくことになります。
種継暗殺事件の余波は、家持と深く交流のあった早良親王にも及びました。親王はこの事件の罪を問われて桓武天皇により廃太子、さらに親王号も剥奪され淡路国に配流されることになったのです。しかし彼は無実を訴え、抗議のために飲食を絶って十日後に絶命します。屍は淡路に葬られましたがこのあと桓武天皇は生涯、彼の怨霊に悩まされることになります。
親王号を剥奪された早良親王をなんと呼べばいいのか分かりませんが、早良と呼び捨てにするのも恐れ多いので以降は早良皇子と表記します。早良皇子の祟りとされるものとしてまず、桓武天皇の妻、母、皇后が相次いで亡くなります。さらに、新たに皇太子となった安殿親王は幼少の頃から病弱だったのですが、病気平癒を祈願しても一向に良くなりません。そこで陰陽師が占ってみると病の原因は早良皇子の祟だという結果が出ました。そこで桓武天皇は長岡京も捨て、平安京に遷都し、その後も繰り返し淡路に使を送って早良皇子の鎮魂をし、さらには崇道天皇の尊号を送ります。実は平安京遷都は怨霊から逃れるだけでなく、勢力を拡大した仏教僧侶たちの政治介入を避ける目的もあったので、当初、平安京には東寺西寺の両官寺以外の寺院を認めませんでしたが、後に天皇は怨霊を鎮めるため密教に興味を持つようになり、最澄や空海を唐に派遣したそうです。
桓武天皇は晩年に病に罹りましたが、それが平癒した時、恩赦を勅し家持を復権させました。しかし二十年の断絶は大きく、大伴一族が再興する事はありませんでした。
間も無く桓武天皇は崩御し、安殿親王が即位して平城天皇となります。先にも書きましたが平城天皇は幼少の頃から病弱でした。平城天皇が苦しんだ病の名は風病と呼ばれていました。度重なる加持祈祷も効果なく、陰陽師たちは病の原因は早良皇子の祟のせいだと占い、様々な鎮魂の儀式を行いますが平城天皇は生涯この風病に悩まされ続けました。この風病というのは現代医学でいうと精神科か神経内科系の疾患といわれています。もしかしたら自閉症スペクトラムとかアスペルガー症候群のようなものだったのかもしれません。ともあれ記録を読むと平城天皇はかなりエキセントリックな性格だったようです。例えば父の桓武天皇が崩御した時には、数日間にわたり幼児のように泣き叫び食事も喉を通らない状態でしたが、即位後の行動には父に反発する心情が垣間見えます。一例として平城天皇は皇太子時代に藤原種継の孫娘を後宮に迎え入れるのですが、孫娘の世話役として後宮に入った母親(種継の女)の薬子と懇ろになります。事態を知った桓武天皇は激怒して薬子を追放しましたが、父帝が崩御すると平城天皇は再び薬子を呼び戻します。また桓武天皇が寵愛していた異母弟の伊予親王とその母を、謀叛を計画した疑いで幽閉し飲食も与えず、とうとう母子は毒を仰いで自死する事件がありました。以降、平城天皇は早良皇子だけでなく、伊予親王とその母の怨霊にも悩まされ、持病の風病が悪化してしまいます。そこで在位四年にして弟に譲位する意思を表明し、自身は愛人の薬子とともに平城京に移りましたが、そこに眠っていた歌巻に彼は出会います。
時代は既に平安時代となっていましたが、まだこの頃は国風文化というものは芽吹いていませんでした。桓武天皇は鷹狩が趣味という文よりも武の人で、さらに唐風文化を尊重して漢詩を好み、和歌には興味がなかったようです。平城上皇はそんな父への反発もあったのか大和言葉で書かれたこの歌巻に夢中になったそうです。そしてこの歌巻は平城上皇の命により現在の形にまとめられ、いつしかこの全二十巻の歌集は『萬葉集』と呼ばれるようになりました。
以上で萬葉集の長い長いお話は終わりますが、私は家持の生涯を調べていたとき『夜明け前』の半蔵の人生を思い起こしました。祖先を誇りに思い、先祖に恥ずかしくない生き方をしようと生真面目に人生を律し、常に最善を尽くそうと努力をするも、時代の流れに取り残され不遇のうちに人生を終える。死後、何十年も経ってから生きた証が世に出たことも両者に重なるものがあると感じました。
家持の死後も藤原氏はますます隆盛し、道長の頃がその頂点となります。しかしその後、降臣して源氏と平氏を名乗った侍たちが台頭し、貴族政治は終焉を迎えます。取って代わった武士たちはその後、十九世紀後半まで日本の為政者として活躍しました。そして持統天皇が思い描いていたであろう、国を一つに纏めて統治する力強い天皇は、幕藩体制を終わらせ万世一系の皇国史観を打ち出した明治天皇の出現まで待たなければなりませんでした。
お わ り に
萬葉集は千年以上昔に編纂された日本最古の和歌集です。萬葉集が編纂された時代にはまだひらがなカタカナができておらず万葉仮名といって漢字を仮名がわりに使ってかかれています。現代ではこの万葉仮名はすでに忘れ去られており現代では読めなくなっている歌もあります。例えば『漆 不聴跡雖云』で触れましたが、有間皇子が謀反の疑いで捕らえられた時、斉明天皇と中大兄皇子は白浜温泉に滞在していました。その時、二人に同行していた額田王は
莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
(一・九)
我が背子(有間皇子)がお立ちになったであろう、この聖なる
橿の木の本
という歌を詠んでいますが、この歌の「莫囂円隣之大相七兄爪謁気」の部分はまだ定訓がありません。千年以上もの間、学者たちが侃侃諤諤と議論を続けた結果「静まり返った浦波をはるかに見放けながら」という意味らしいと言われているのですが、この部分をどのように発音していたのかはわかりません。もしかしたら全然違う意味かもしれません。萬葉集には他にも読み方が分からず万葉仮名のまま表記されている歌がいくつかあります。我こそはと思わん方は是非、解読にチャレンジしてください。
本文でもちょっと触れましたが数年前に読んだ新海誠さんの「言の葉の庭」という小説に萬葉集の歌が出てきて「そういや萬葉集ってまともに読んだことないな。いっぺん一通り読んでみようか」と思ったのがこの歌集を手に取ったきっかけです。偉そうに解説などと書いていますが私は別に萬葉研究家でもないど素人です。そしてど素人が萬葉集を読むのはやはり難しいです。それでもあくびを噛み殺しながら現代語訳や注などを斜め読みしていくと、ど素人の私でも知っている話が出てくるのはやはり萬葉集と言うべきでしょうか。例えば萬葉集には浦島太郎の話(九・一七四〇~一七四一)や竹取の翁の話(十六・三七九一~三七九三)がでてきます。ただし萬葉時代の浦島太郎は亀を助けませんし、竹取の翁は「ワシが若いころは光り輝くような紅顔の美少年で…」とモテ自慢をする爺さんです。爺さんのモテ話を聞いているのは九人の美女(仙女)たちで、この時代の竹取の翁はこの世のものとは思えない美しい仙女に出会うのがお約束だったそうです。本文でも触れましたが、「かぐや姫」の作者は竹取の翁が美しい仙女に出会った話と、複数の求婚者に囲まれ一人に決められなくて思い余って皆の手の届かない所へと旅立ってしまった女の子の話を読んで「(ピコーン)閃いた!」とあの話を作ったのではないでしょうか。
とはいえ萬葉集の中にある話や歌などでど素人の私が知っているものはごく僅かしかなく、恋の歌などは分かりやすくて面白いなと思いましたが皇族や貴族などの有名どころの歌は「へー…」で終わってしまうありさまでした。時代背景などの基礎知識がなく、全くのお手上げ状態でしたが、こういう有名どころは、いろいろと記録も残っていますので、とにかくこの時代の資料を読み漁ってみました。上野誠奈良大学教授は萬葉集を「明日死ぬかもしれない人たちの文学」と評されていましたが、確かにこの時代の朝廷は陰謀策略が渦巻く魔境で、この時代の有名どころであったあの人もこの人も密告讒言で命を落としています。また若くして病死する人もいます。そういう事情を知ったおかげで学生時代に丸暗記していた記号でしかなかった人名が血肉を持った人物としてイメージできるようになりました。
もう一つ萬葉集を読んで気付いたのは挽歌(死者に手向ける歌)がとても多いことでした。この時代の人たちは日常的に死と向き合っていたのでしょう。まあ明日死ぬかもしれないのは現代人でも同じです。現代でも何らかの事情で自殺する人もいますし、それ以外にも病死や事故や災害で亡くなる人はいますが現代は万葉時代と違い相当な重症であっても、どうすれば助かるかが分かって来ました。適切な治療法や闘病方法や良い薬もでき現代では死亡率が激減しました。しかし万葉の時代は、なにかしら体調に異変があっても食べて寝るくらいしか治療法はありません。薬といっても野山の草を煎じるくらいでしょうか。一たび重い病を得るとバタバタと死んでいったのではないでしょうか。その周りの人たちは愛する人が苦しんで弱っていくのを神仏に祈りながら見守っているしかなかったのでしょう。死にゆく人を前になす術もなく、死んでしまった後も「息を吹き返すかもしれない」とただただ待ち続け、遺体が腐り始めて漸く諦めがついたのでしょう。つまり萬葉集は「死にゆく人を前に神仏に祈ることしか出来なかった人たちの文学」とも言えるのではないでしょうか。そんな時代であっても
かくしつつ あらくをよみぞ たまきはる 短き命を 長く欲りする
(六・九七五)
こうして過ごすのが楽しいからこそ、短い命ながら、みな少し
でも長かれと願うのですね。
なんて歌を読むと「人生そんなに悪くない」と思えてくる。
万葉時代なんてまるで異世界ファンタジーのように現代からかけ離れた世界ですが、それでもそこに生きていた人たちは現代の私たちと同じ人間です。忙しすぎる日常生活から離れてしばしの間、古代の世界に思いを馳せてはいかがでしょうか。
最後になりましたがこの話を書くにあたり、さまざまな資料を探し出していただいた図書館司書の皆さまにも感謝いたします。
参考文献
「新版 万葉集(一)〜(四)」伊藤博訳注、角川ソフィア文庫。
「新潮日本古典集成(第六回)『萬葉集(一)』」青木生子、井出
至、伊藤博、清水克彦、橋本四郎 校注、新潮社。
「同(第二十一回)『萬葉集(二)』」。
「原文万葉集(上・下)」佐竹昭広、山田英雄、工藤力男、大谷雅
夫、山崎福之 校注、岩波書店。
「万葉集(全五巻)」佐竹昭広、山田英雄、工藤力男、大谷雅夫、
山崎福之 校注、岩波書店。
「万葉集 新日本古典文学大系」佐竹昭広、山田英雄、工藤力男、
大谷雅夫、山崎福之 校注、岩波書店。
https://baike.baidu.com/item/江亭晚望/9966575(最終閲覧日、二〇二〇年七月二十六日)
「天皇皇族歴史伝説大辞典」志村有弘著 勉誠出版
「これだけは知っておきたい『萬葉集の環境と生活』」高野正美著、
笠間書院
「鑑賞 日本古典文学」第十八巻 方丈記・徒然草、冨倉徳次郎、
貴志正造 編、角川書店。
「日本の名著『日本書紀』」責任編集 井上光貞、中央公論社
「続日本紀 日本古典文学体系」青木和夫、稲岡耕二、笹山晴生、
白藤禮幸 校注、岩波書店
「日本の歴史2 古代国家の成立」直木孝次郎著、中央公論社
「日本の歴史3 奈良の都」青木和夫著、中央公論社