08 初めての作詞
休みが明けた月曜日。
一日の授業が終わって放課後になると、クラスの誰よりも早く教室を飛び出した俺は真っ先に部室へと顔を出した。
あれやこれやと色々、もう本当に色々なことを先輩に相談したかったのだ。
ところが部室に先輩の姿はなかった。いやそれも当然のことで、廊下を走るほどに慌てていた俺が早く来すぎて、先輩のクラスはまだホームルームが終わっていなかったのだろう。
ならば仕方がない。落ち着いて先輩の到着を待つことにしよう。
部室に入る直前まで、まるでこの世の終わりを迎えた人間のごとく落ち込んでいた俺だったが、ここに来るとほんのちょっぴり冷静になれる。かろうじて気を取り直して少しだけ顔を上げると、先輩がいつも座っている専用のデスクを眺めた。
大きくて格調高い年代物の作業机に、なんとなく校長室にあるものよりも豪華そうな椅子が座ってくれといわんばかりに空席である。
ちょっとした好奇心がむくりと首を持ち上げる。俺もあそこに座ってみたいと思ったのだ。それで自分の気持ちが先輩くらいに大きくなれば、相対的に俺の胸を覆っている切ない悲しみがちっぽけなものになるのではないかって、そんなことを考えたのかもしれない。
だから俺は先輩が来る前に編集長気分を味わっておこうと、どっしりと足を組んで最高の得意顔でデスクに座ってみたんだ。
「へー、これからはお前が率先して新聞を作ってくれるのか。驚いたなー」
すごく棒読みだったが、俺は飛び上がった。
「せ、先輩じゃないっすか! ちょ、ノックぐらいしてくださいよ!」
「やだよ、指図すんな。そして働け。もう一度言う、お前働け!」
「もちろん俺も先輩のお役に立ちたいんです! けど先輩、その件に関してってわけじゃないんですが、ぜひ相談に乗ってほしいお話があるんですけれど!」
「ああもう、ひとまず聞いてあげるから静まって! 近づいて来ちゃだめだったら、うっとうしいし!」
腕を振り回す先輩からはいつものように邪険に扱われてしまうが、一応話を聞いてくれるとは言ってくれたのだ。まだ俺も見放されてはいない。
そう思った俺はすがるような目で先輩の顔を見つめ、今の俺が置かれている状況を簡単に説明することにした。大丈夫、きっと先輩なら助けてくれると信じて。
まずはエミさんと出会ったこと。とはいえ、もちろん恋に落ちたことは秘密だ。
そして彼女がバンドに所属していて、新曲の歌詞に悩んでいて、その場の流れで俺がその作詞の協力をすることになったこと。けれど自信がないこと。
それからバンドが解散の危機にあって、エミさんが同じメンバーである大学生の岸村さんに恋をしていて、彼の期待に答えたいと思っているらしいこと。そして悩む彼女の悲しげな顔を見てしまったこと。
とまぁ、そんなことを数分に渡って、とにかく長々と一方的に話した。
それでもちゃんと聞いていてくれた先輩は、俺の話が終わるとこう言った。
「ん……。まぁ、なんかあれだね。お前、新聞部の活動はどうしたの?」
「ごもっともです、新聞部員としての俺はどこに行ったんでしょう?」
あまりきつく怒られないようにと、あえて白々しく言った途端、立ち上がった彼女に平手でぶたれそうになった。瞬時に痛みを覚悟して目を閉じて待ち構えたものの衝撃は来ない。恐る恐る目を開いて確認すると、頬に当たる直前で先輩の手が止まっている。どうやら温情によってビンタは寸止めされたらしい。けれど、隠しきれない怒りにプルプル震える先輩は青筋立っていた。
恐怖だけでなく申し訳なさもあって俺がびくびくと失禁寸前に怯えていると、聞き分けのない子供を相手にする母親みたいに肩をすくめた先輩は説教を切り上げて俺の目を覗き込んで問うた。
その瞳は濁りなく澄んでいて、すべてを見通しているかのようだった。
「結局、お前はどうしたいの?」
――俺はどうしたいんだろう?
先輩に尋ねられて、俺は初めて考えた。すると自然に答えは導き出せた。
「俺は……、はい。なんとしても詞が書きたいです。歌詞のほうですけど……」
俺の発言に先輩は苦笑いを浮かべた。
この期に及んで俺が新聞に掲載する詩を書きたいなどとは言い出さないと思っていたのだろうが、それを俺が自分から口にするとは思わなかったのだろう。
まいったな、余計なことを言ってしまったのかもしれない。
しばらくして真面目な顔を取り戻した先輩が、俺を真正面から見据えた。
「じゃあ本気でやってみるべきじゃん。でないと何も伝わらないし。ラブソングなんだよね?」
「あ、はい。覚えてくれていたんですね、この前のラブソング。あの曲だけで歌詞のなかったやつ」
「当たり前だよ。あの時はいきなりだったから、不自然すぎたって。それにたぶんだけど、お前そのエミって女子のこと好きなんだよね?」
「あ、はい。覚えてくれていたんですね……って、え? いや、言ってないですよね、それ!」
「意外そうな顔しなくていいって、わかりやすいんだもん。言われなくても気づくよ。お前は単純だから顔に出るし」
それは驚愕の事実だった、と思いたかったが、言われて俺は納得した。
そういえば俺は自分のことを語りつつ、エミさんの名前を出すときは嬉しそうに喋っていたのかもしれない。すでに失恋していたのに、それでも好きな相手のことを思うと顔が緩む。
彼女に恋をしているなんて恥ずかしいから先輩には秘密にしておきたかったけど、ばれてしまった以上は仕方がない。ごまかすのは難しく、可能ならば励ましても欲しかったので俺は素直に認めてうなずいた。
もう好きにしてくれと、いっそ開き直って無駄な抵抗はやめることにしたのだ。
「まーいいや。どうせ今のお前じゃ気もそぞろで役に立たないだろうから、最後に燃え尽きるまで自分の本気を出してみろってことだよ。相談くらいには乗ってあげるしね」
「ありがとうございます、さすが先輩!」
「ただし今後は部活の雑用は全部お前に押し付けるから! 覚悟してよね!」
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
その時の俺は、少し正常な判断能力を失っていたのかもしれない。
けれどそれもある意味では無理もない。
なにしろ俺は、本気でやりたいことを見つけたのだから。
それからというもの、俺は本気で作詞に取り組んだ。
これを言うと先輩には悪いけど、校内新聞に載せるための四コマ漫画とか詩とかを考えていたころとは比べ物にならないほど、どこまでも集中して熱心に考えていた。
家でも学校でも夢の中でさえ、それこそ昼夜を問わず一心不乱。
時間さえあれば俺は作詞のことを考えていた。
「うわぁ、お前が難しい顔をして辞書を持ち歩いているなんて信じられない……。珍しくて明日は雨が降るなんてレベルじゃない。駄目だ、このままだと世界が終わるじゃん……」
「何を言いますか、失礼な。世界は終わるのでなく生まれ変わるのです。俺の生み出す素晴らしい愛の賛歌によって」
「終わっていたのは、お前のほうだったね」
などと先輩には馬鹿にされてたまらなかったが、決して俺はくじけなかった。こんなところでくじけてはならないと、自分の弱気な心に鞭を打っていたのだ。それはさながらセルフSMプレイで、ある種の束縛と欲求不満にも、謎の満足を生み出していた。
とはいえ、あのころの俺は中学時代に打ち込んだ受験勉強の名残か、普段から自主的に時間を作って勉強を続けていたから、机に向かうという行為は特に精神的な負担にはならなかった。友達もいない俺には趣味というものもなく、馬鹿みたいに時間を持て余していたこともある。
たぶん、合計でノートを三冊ほど使い切ったのだと思う。
もちろんそれは大部分が黒歴史といえるほど恥ずかしい歌詞やポエムの羅列で埋め尽くされていたのだけれど、その大量に積み重ねた努力が一応は結果を目に見える形で出して、およそ二週間あまりで新曲の歌詞が完成した。
気がつけば、もう五月も終わりのころだった。
「あ、これが完成した歌詞なの? ねぇ、ここで読んでもいい?」
「もちろん。なんなら歌ってくれてもいいよ」
「それはないけど、うわぁ楽しみだね」
初めての作詞である。もちろん自信作だと胸を張れるほどの作品ではなかった。丹精込めて作り上げた自分としても、歌詞の出来栄えが不安だったのは間違いない。
けれど最後まで一つの作品を完成させたことに対する満足感や達成感からか、俺は高揚感にも包まれていて、少なくとも及第点は得られるはずだと思っていた。
愛だとか、会いたいだとか、心の中の君の姿とか、君の声とか、夢で会えたらいいのにとか、そんな言葉ばかりを寄せ集めて完成したラブソングは、誰の耳にも聞きなれた親しみをもって迎え入れられるはずだから。
俺は本当にそう思っていた。そう信じて疑わなかった。
「いいんじゃないかな? ……その、特に悪いところは見つからないよ」
「そう? よかったぁ……」
ちょっとエミさんの歯切れが悪いのだけは気になったけれど、ひとまず完成した歌詞に悪いところがなかったという感想をもらえたことに、彼女からの答えを待つ間ずっと緊張していた俺は胸をなでおろして安心した。
自分が役立たずじゃないって、ちゃんと彼女にも必要な存在だって、遠まわしにそう言ってもらえたような気がしてならなかったのだ。
「じゃあこれ、バンドのみんなにも見せようと思うんだけど……。君も来る?」
「いや、あんまりバンドの邪魔はしたくないし、別に俺は一緒に行かなくてもいいかな。がんばってね、俺も心の中で応援しているから」
「ひどいなぁ、応援するだけじゃなくて君も来てよ。ここは一緒に行くって言ってくれると期待していたのに……」
「やっぱり行くよ!」
一緒に行かないという俺の答えを聞いて不服そうな顔で口をすぼめてしまった彼女に、がっかりされてはならぬと思った俺は慌てて自分の発言を訂正した。またあのバンドメンバー、とどのつまりは険悪なムードの中に飛び込まなければならないのかと思うと非常に憂鬱になってしまうけれど、期待されたからには、どうしても彼女の頼みを断るわけにはいかなかった。
けれどやっぱり、一応うなずきはしたけれど、なにより俺は美男子そのものといった岸村さんに会うのが、嫌ではないものの胸を締め付けられるように辛かった。エミさんと一緒に岸村さんのそばにいることが、俺には何よりも辛かった。
それはもちろん、彼に会うことによって俺の失恋を色濃く再認識させられてしまうだろうと、そうわかっていたからだ。
それからエミさんに連れられて再びバンドメンバーのもとへと向かったのは、歌詞を完成させてから数日後のことだった。
やはり同学年であるエミさん一人に自分の歌詞を見てもらうのと、年上である大学生三人に見てもらうのでは、俺の胸を襲う緊張感も段違いだった。
もちろん、そこには緊張や不安以上に、自分の書いたものを“大人”に見られるのが恥ずかしいという気持ちもあった。高校生同士の見せ合いっこなら遊びの範疇で済まされる。これからやるのは冷酷な品評会だ。自分の才能を残酷に見定められる。
ただ、それでもちゃんとバンドメンバーの彼らに自分が作った歌詞の出来を認めてもらいたいという思いがあったから、俺は覚悟を決めてその日を迎えていた。
「どっちでもいい、これを歌ってみろよ」
「え、ここで、今ですか? いや、それはちょっと……」
俺が手渡した歌詞を読み終えた菅井さんは、しばらく黙っていたかと思うと、いいとか悪いとかの感想もなしに、いきなりそんなことを言い出した。具体的なことは何も口にしなかったけれど、その口調からはどこか俺たちを突き放したような、言葉を選ばなければ見下げているような印象を受けた。
「さすがにここでは歌えないよ。それよりどうなの? 感想とか、印象について」
思わず口ごもってしまった俺の代わりに、エミさんが尋ねた。
けれど不機嫌そうな菅井さんが何かを答える前に、その隣にいた孝之さんが肩をすくめながら言った。
「……最悪だな。いいところが見当たらない」
「ちょ、そんな言い方って!」
俺が作った歌詞に対する孝之さんの容赦ない率直な感想を聞くや否や、彼の妹であるエミさんは声を荒げてしまう。
おそらくそれは、黙り込んでしまった俺の気持ちを代弁してくれたのだろう。
ところが、そのまま菅井さんや孝之さんに反論しようとしてくれたエミさんに対して、理性派であるイケメンの岸村さんが申し訳なさそうに口を開いた。
するとエミさんは引き下がるを得ず、俺も岸村さんの言葉に耳を傾けた。
「すまないが、お前たちのことを思ってはっきりと言わせてくれ。この歌詞から受ける印象は、残念だが、特に何もないと答えるしかない。ありきたりで、陳腐だぜ。俺たちが歌う必要性を感じない。お前たちが書いたとは思えないし、思いたくもない」
「それは……」
かれこれたっぷり二週間もかけて、涙を堪えて死ぬほどの本気で苦心して完成させた歌詞を岸村さんにまで酷評されて、その時の俺は何も言えなかった。
悔しさもある、悲しさもある。恥ずかしさもある、無力感もある。
そしてなによりも、まがいなりにも俺のことを信頼してくれていたエミさんに対する申し訳なさ、全身を貫く罪悪感が俺から言葉という言葉を奪い去ってしまったのだ。
「本当は次のライブまでに新曲を完成させたかったが、もう余り残された時間はない。残念だが今回は新曲を断念しよう。すまないな、手を煩わせて。悪かった」
まったく嫌味のない好青年の岸村さんに気を遣われたように頭を下げられてしまうと、俺もエミさんも何も言うことができなくなってしまった。
この場で悪いのはただ、ろくな歌詞を作ってこなかった俺だけだ。そう過酷な現実を突きつけられたような気がして、たまらず俺は泣き出しそうになった。
でも、それだって普通に考えれば仕方のないことだ。
なにしろ俺は作詞に関しては右も左もわからない全くの素人、バンドを組んで真剣に音楽をやっている大学生に勝てるわけがない。思えば俺はただの高校生、いや、自分のクラスに馴染むことさえできない一人の冴えない高校生に過ぎないんだから。
そんなくだらない言い訳ばかりを心の中で繰り返して、とりあえず俺はこの場をやりきろうとする。くじけないためには、すべてを悟ったように割り切るしかなかった。
もしも次の機会があれば、次のチャンスさえあれば、そのときに今まで以上の本気を出すことができれば、きっと自分に隠されている才能が開花するはずだと、当時の俺は半ば本当にそう思っていた。
しかし状況は俺の望むようには展開しない。どこまでも残酷だったのだ。
「新曲が間に合わないってことは、今のように人気が出ないままこのバンドを続けるのも限界だろう。次のライブ、会場の盛り上がりが目標を下回ったら解散する」
「……というか、もう新曲すら作れない俺たちのライブが成功するとも思えない。まぁ、ここらがやめ時だって事だろう」
「それも同感だな。次のライブ、観客に解散を宣言して終わろう。悔いはない。もう俺は一人になってもいい」
唖然と黙っているしかなかった俺の前で、大学生の三人は立て続けにそんなことを言った。たぶん大学生ともなると、まだまだ子供の俺たち高校生とは違って、近づいてくる将来をシビアに捉えなければ生きてはいけないのだろう。いつまでも現実感のない夢ばかりを無邪気に追いかけてはいられないのだろう。
そこには全くもって解散への迷いが見られなかった。
だから俺は、本当にこのままバンドが解散してしまうのだと思った。
もはや終わるしかないのだと、他人事のように直感していた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 折角三年以上も続けてきたのに、こんなところで終わるのなんて嫌だよ! まだ次のライブだって、失敗すると決まったわけじゃないし!」
ところがエミさんだけは、感傷もなく解散をほのめかす三人に向かって涙ながらに叫んでいた。このままバンドが解散となってメンバーと別れること、特に岸村さんと別れてしまうのが悲しいのだろう。
けれど、そんな、すがるようなエミさんに向かって、実の兄である孝之さんが冷たく、もはや憎しみを込めたかのように言い放った。
「だったらお前が成功させてみろよ。できねぇくせに叫ぶな、ガキが」
その時のエミさんが見せた苦渋に満ちた悲しみの表情を、おそらく俺は一生忘れることなどできないだろう。今でもまれに夢の中に見ては、衝動的に抱きしめたくなってしまう。いつまでも守り抜きたくなってしまう。
それほど彼女は不安に怯えていて、寂しげに弱々しい姿だったのだ。
だからそのときの俺は、彼女の力になりたいと改めて本気で決意した。