05 出会い
正式に新聞部へと入部したはいいものの、こまごまとした雑用をこなすばかりで、あまり役に立てずにいた俺。このままでは用済みとして暇を出されるかもしれない。そろそろ新聞部員として実績の一つくらい残しておきたい頃合いである。
そんな具合に新人らしく無駄に張り切った俺の内心を読み取ったのか、先輩は俺を呼びつけて仕事を与えるとともに檄を飛ばした。
「今度こそ働いてもらうからね、意地でも手ぶらで帰ってくるなと言いたい私だからね!」
「イエス、部長!」
とにかくそういったわけで、この日は先輩が用意してくれた取材先を指示されたとおりに追いかけることにした。まさに従順な助手であり、いうなれば下僕に等しい犬だった。
嗅覚の鋭さから言えば、察しがいいという意味でも、どちらかというと先輩のほうが犬っぽい。仕事熱心なところもまさにそうだ。けれど俺には一度もお手をしてくれたことがないし、尻尾も振ってくれない。馬鹿みたいな話だが、俺は先輩が相手なら飼うより飼われたかった。ダメ男でもよく世話してくれそうだし、自分で働くよりも安定した人生を送れそうだ。
さて、先輩が書いて渡してくれたメモに示されていた場所は、学校から少し離れた町はずれにある場所だった。なんでも新しく市に認定された地域の文化財があるらしく、それを写真に撮って新聞紙上で紹介せよということらしい。
先輩から直々に頼まれた取材とはいえ、今からそこまで行かないといけないのか、本音を言えば文化財なんてそんなに興味もないし面倒くさいなぁなどと、まったく気乗りしないまま俺は愛用する自転車にまたがった。
すっかり古びて赤錆の目立つ自転車に乗って校門を出て、サイクリング気分で十分ほど道沿いに走っただろうか。
とりあえず近くの駐輪場に自転車を止めた俺は、指示された現場までゆっくりと歩いていくことにした。微妙にわかりにくいメモを頼りに、道に迷ってしまわないように注意しながら足を進める。
車通りの少ない道。ほとんど歩行者もいないのかカーブミラーもない角を右に曲がって、いよいよ目的地にたどり着こうというとき、思わず俺はあっと小さく声を漏らしていた。
先輩のメモに記された場所に続く道の途中、閉められた店舗の古ぼけたシャッターに背中から寄りかかるようにして、肩を揺らしながら泣いていた人影が目に飛び込んできたからだ。
それはなんと、俺と同じ年頃の少女だった。
激しい雨に打たれるように一人で泣いていた彼女はうつむいていて、その顔を見ることはできない。けれど、俺の目に宿る敏感な美少女センサーは確かに反応した気がした。そのたたずまいが、すでに可憐な少女のそれだったのだ。角を曲がって彼女の姿が己の視界に入った瞬間、何か運命的な出会いを果たしたように心が脈を打った。
しかし、まぁ、本当のところは自分でもわからない。
別に目の前の彼女が美少女かどうかなど、そのときはどうでもよかった気がする。それについて一喜一憂していた事実を否定はできないし、たぶんあのころの俺は見た目がよければよいほど異性にどぎまぎする不埒で変態な男子生徒の一人だったが、女性を外見で評価する悪しき文化は男のみならず人間を堕落させるものだ。今さら彼女に言い訳するみたいで野暮だが、遅まきながら反省しよう。真に見詰めるべきは男女ともにその内面、置かれた境遇、そして立ち居振る舞いといった言動である。
だからというわけじゃないが、当時の俺には、人目を避けて路地裏で一人涙する彼女の姿に、たったそれだけで心を奪われ共感する何かがあったのだ。
ありったけの孤独。震えるくらいの寂しさ。あるいは素直な感情表現。
名も知らぬ少女の隠したかったであろう弱さと、一方では誰にも頼らぬと決めた儚げな感傷。
異性の着替えを覗くよりもずっと“いけないこと”をしてしまったかのように思えた。ない交ぜになった心の強さと弱さを目の当たりにしてしまったようで、その魂をあらわにしてしまったようでもあった。
「……あっ」
ふと触れ合う二人の視線。数メートル離れたところから立ち止まって眺めていた俺の姿に気付いたらしい彼女は、その頬を伝う涙を慌てて左右の手の指先で拭い去りながら、恥ずかしそうに背を向けてしまう。
だが、ほんの一瞬の出来事にもかかわらず、俺は確かに見逃さなかった。
その顔は涙に濡れていたものの天使のように可愛く整っていて、頬を朱色に染めて恥じらう反応もまた可憐でいじらしい。
そんな彼女が健気に泣いている。なんとかしたいと思わずにはいられない。
我ながら本当にあきれてしまうようなことを言ってしまうけど、文字通り彼女に一目ぼれしてしまったのである。わかりやすいくらいに俗な表現をすればイチコロだった。こんなこともあるのかと不思議なくらい胸が激しい動悸で張り裂けそうだった。
可愛い子には声を掛けろ、ということわざがあるのかどうかは知らないが、その時の俺は逡巡することも知らず、相手にセクハラか何かで訴えられてしまう可能性も考えず、声を押し殺して泣いている彼女に近づいていくと、出来る限り普通の調子を意識して声を掛けた。
もちろん建前にあるのは、泣いている彼女を励ますためである。まかり間違っても下心はまるでない。疑うなら止めはしないが、あんまり責めないでほしい。すべては時効だ。
「大丈夫ですか?」
話しかけられるとは思っていなかったらしく、隠れるように背を向け泣いていた少女はびくりと肩を揺らした。見知らぬ男から声を掛けられて、警戒するとともに驚いてしまったのだろう。
俺も逆の立場ならびっくりするし、いっそ返事もせずに逃げ出しかねないので、なるべく不審者と思われないように友好的な笑顔を心掛けた。
「……えっと?」
いきなり話しかけてきた俺に怯えているのか、恐る恐る首をすくめながら振り返った彼女。涙に潤んだ瞳を隠すようにあごを引いてうつむくと、両手を胸の前でもじもじとこすり合わせながら俺の言葉を待っていた。
その沈黙は数秒程度だったが、その間じっと彼女から瞳写しに見詰められていた。
そうやって次なる俺の言葉が待たれているのだと思うと、人知れず俺はぞくぞくした。ただ様子をうかがわれているだけであるのに、それを彼女から期待されているとでも勘違いしてしまったのだろう。相変わらず俺は馬鹿だった。
「あなたの取材をしたくて……って、そうじゃない。でもどう言えば……。そうだ、まずはこれを受け取ってくれますか? 俺の名刺です。手作りですが、よろしければどうぞ」
「あ、はい」
戸惑いながらも俺の名刺を受け取った彼女は、それを見るなり両目をぱちくり開閉させた。いつの間にか涙の粒はすっかり引いてしまったのか、もう苦しげな嗚咽をもらすこともなく、ただ静かに彼女は俺の名刺を凝視していた。いかにも興味津々といった様子である。
別に、実は俺が宇宙人であるとか、そんなジョークじみた反応に困ることなど書いていないし、彼女が不思議に思うようなことなど書いたつもりはない。ただ取材には礼儀が付き物だと教えてくれた先輩の言葉に従って、こちらの名前と連絡先を書いたまでなのだ。
しばらく俺は引きつりそうになる微笑を維持して、名刺を眺める彼女の顔を眺めていた。
やはり可愛かったけど、だからこそ笑顔が見てみたかった。
「あれ? 私と同じ高校の、新聞部の人なんだ。……あの、さっき取材とか言いかけていたように聞こえましたけど、もしかしてバンドの?」
そして彼女は少しだけ嬉しそうな笑顔で、それはもう小さな女の子や穢れを知らない天使のように澄んだ瞳で、可愛らしく小首を傾げながら尋ねてきた。そのコケティッシュな彼女の微笑には思わず俺も惚れ直してしまったけれど、残念なことに彼女の言いたいことがまるでわからなかった。
「バンド?」
「え、あれ? 違うのかな? でも取材って……」
そのまま悩むように人差し指を自分のこめかみへ当てて、なにやら深刻そうに考え始めてしまった彼女。黙り込んでしまったため、このままでは進展がないまま会話が終わってしまうかもしれない。
そう思っていると、はっとした彼女が口を開いた。
「……まさか、さっきの喧嘩のこと見ちゃった? それで詳しく話を聞きたいとか」
「さっきの喧嘩? いや、見てないけど……。誰かと喧嘩したの?」
「うん、バンドのみんながね……」
と言って彼女は悲しそうに顔を俯かせるので、たまらず俺は声を上げていた。
「なんてことだ! こんな可愛い子と喧嘩して泣かせるなんて、そいつらは最低だね!」
「ああ、待って! 怒ってくれるのはありがたいけど、喧嘩したといっても相手は私じゃなくてね、私以外のバンドメンバーたちの喧嘩だったから!」
「あ、そうだったんだ? ……でも俺は見たよ、ここで泣いていたのは君だったって」
「う、うん。私は喧嘩を止めに入ったんだけど、みんな聞いてくれなくて……」
彼女は口にしながら先ほどの喧嘩のことでも思い出したのか、今にも再び泣き出しそうだった。バンドメンバーがどんな人物なのか、そして彼女とはどんな関係の人たちなのか知らないけれど、きっと彼女には彼らが喧嘩していたという事実があるだけで、涙をこぼすほど悲しくて仕方がないのだろう。
弱々しい表情を見せた彼女のために、なんとか力になってあげたい。
そのとき俺は本気でそう思った。
しかし悲しいかな、彼女とはこれが初対面である。どんな言葉を投げかければ慰めになるのか、こんな事態に慣れていない俺には全然わからなかった。機嫌の悪い弟が泣き出したときは、深く考えるまでもなく俺が土下座してみせると泣き止んだものだが、それが彼女に通用するとも思えない。
わからないから、他に打開策も思いつかない。
困った俺は、ひとまず彼女の話を聞くしかなかった。
「ねぇ、良かったら気が済むまで話してみてよ。最後まで責任もって俺が聞くから、言いたいこと全部吐き出してほしい」
「……え? あ、うん。泣き言だけど、聞いてくれる?」
「もちろんだよ。どうせだったら、本当に泣いてくれてもいい。聞くだけじゃなくって俺も精一杯励ますから」
「ふふ、ありがとう」
今しがた出会ったばかりの見知らぬ人間でも、物言わぬ壁に向かって話すよりはましだと考えてくれたのだろう。それから彼女はぽつぽつと語り始めた。実のところ本当に語ってくれるとは思わなかったので、これは一言も聞き逃すわけにはいくまいと、俺は必死に耳を傾けた。
取り立ててメモは必要なく、すんなりと彼女の話は頭に入ってきた。
中学一年生のころから、男ばかりのバンドで彼女がボーカルを務めていること。
自分以外のバンドメンバーである三名は、現在全員が大学生だということ。
人見知りのくせにバンドのボーカルを務めることになったきっかけは、ベースを担当していた三つ年上の兄から、半ば拝み倒されるように誘われたからだということ。
そして今まさにバンドメンバーの三人は、新曲を巡って解散の危機にあるということ。
その状況を前にして自分がどうするべきなのか、あるいはどうしたいのか、彼女にも全然わからないということ。
「どうせなら次の新曲は初めてのラブソングにしようって決めたんだ。でもね、もうだめかもしれない。みんな新曲に対する意見がばらばらでさ、私が担当することになった作詞の作業がちっとも上手くいかないの」
「そっか、そうだったんだ」
「……む。ちょっと笑ってない?」
それは確かに否定できない。むむっと不服そうに唇を尖らせた彼女の指摘どおり、そこまで聞き終えた俺はといえば、不謹慎にも少し笑ってしまったのかもしれなかった。
だけどそれは、決して彼女達のことを馬鹿にしていたからではない。
むしろその逆である。
「いやね、ちょっと共感を覚えちゃってさ。実は俺もね、部活で先輩から校内新聞に掲載するための詩を作らせられていたから、その苦しみがなんとなくわかるような気がして――」
彼女が苦心しているという作詞の大変さを思いやり、感慨深げにそこまで言いかけた俺に対して、いきなり前のめりになった彼女は興味津々といった様子で声を荒げた。
「ええっ、新聞に載せるような詩を作っていたの? うわぁ、君ってすごいよ! だったらお願い、どうか私に力を貸して!」
「え? いや、実はそれが……」
まともな詩なんか一度も完成させたことがない、と正直に言い切ることはできなかった。
なぜなら俺が言い切る前に、彼女が言葉の先を、自分で言ってしまったのだから。
「うう、駄目なのかな? やっぱり、いきなりじゃ迷惑? でもお願いだよ、今の私には他に頼れる人もいないの……」
すがるように、救いを求めるように一生懸命な声で頼み込んできた彼女を目にすれば、あのころの人付き合いに飢えていた寂しい俺には、なによりも彼女に一目で惚れてしまった男である俺には、そのまま首を横に振ることなど、たとえ何度生まれ変わったとしても無理だったろう。
たとえ目のくらむような大金を積まれても、宇宙の支配者に世界の半分をやると言われても、この答えが変わることなどなかったであろう。
俺は首を縦にうなずき、彼女の頼みを受け入れた。そこに不安や後悔は一切なかった。
「えへへ、よかった。本当に困ってたんだぁ。……あ、そうだ。だったら私の携帯の連絡先も教えておくよ」
そう言って嬉しそうに携帯電話を取り出した彼女と、俺は連絡先を教えあった。俺の方はすでに番号を記した名刺を渡していたのだけど、そんなこと、もはやどうでもよかった。
それは俺にとって、生まれて初めてのアドレス交換、初めての番号ゲットだったのだ。もちろん自宅の電話番号だけは除かせてもらっての話である。
ちなみに同じ部活の仲間だというのに、唯一の後輩だというのに、ハルナ先輩は俺に携帯の連絡先を教えてくれていなかった。
的確な判断だったと、客観的には思うけど。
「えーっと、君は中道エミさんっていうんだね。クラスは違うみたいだけど、同じ高校、しかも同じ一年生だということがわかったし、とにかく今後とも色々とよろしく」
「うん、頼りにしてる」
さりげなく右手を差し出すと、中道さんの柔らかい手によって握り返された。
すまん大野、ボディータッチの思い出は、もはやお前だけの特権じゃなくなったぜ、とか、浮かれてしまった俺は調子に乗りまくっていた。いや、思い出すだけでも恥ずかしいが、それだけ若かったということだろう。
「よし、俺も男だ。こうなったら最高の詩を作ろう!」
なんだかんだで気分が最高潮にまで盛り上がっていたのか、分不相応にも俺はそう決意した。実績もないくせに意気込みだけは立派である。
彼女もそう思ったのか、不安そうに眉を曇らせる。
「あれ、でも君って、私たちのバンドのこと何も知らないんだよね? そもそもバンドに興味ある?」
「バンド? ……あぁ、そうか、これから作るのは校内新聞に掲載するような普通の詩じゃなくて、曲がついている歌詞なのか」
とはいえ詩だろうが歌詞だろうが現実的には変わりない。どちらにせよ文才のない俺には簡単に作れないだろうから、あまり深く考えないようにしよう。
そう思った俺は、ひとまず彼女に自分の思い出話でも披露しようと思った。
彼女だけに語らせたばかりでは、アンフェアかもしれないと思ったのだ。
「恥ずかしながらさ、俺って中学生のころは不登校だったんだ。入学してからほぼ二年間、学校にはほとんど行ってなかった。高校にもね、本来なら進学する気がなかった。いやそうじゃないな、進学なんてできないと思っていたのかもしれない」
俺が喋りだすと中道さんはポカンとしたが、その顔も可愛かった。
「え? ……ああ、うん。そのまま最後まで話していいよ、私が聞いてあげるから。というより、ちょっと聞いてみたい」
「よかった、ありがとう」
聞いてくれるという彼女の言葉に感謝を伝えたところで、俺は再び語り始める。
「あれは確か、ひどく寒かったから中学二年の冬頃だったと思う。ふと勇気を出して久しぶりに登校したにも関わらず、授業にもクラスの会話にも全くついていけなかった俺は、放課後になって次第に暮れ行く町の中、あまりの悔しさと惨めさのせいで、そのまま素直に家まで帰るに帰れなくなって、行く当てもなく一人でさまよっていたんだ」
「うん、それで?」
彼女が興味を持っていてくれているらしいことを確認して安心すると、俺は少し抑揚をつけて話すようにした。無理強いしている感じもするが、独白を聞いてもらう以上、退屈だけはさせたくなかった。
「ああ、もうこのまま家に帰ろう。……俺がついに弱音を上げようとした、まさにそんなときだった。いつしか大勢の人々が行き交う駅前ロータリーまで歩いてきていたらしい俺の耳へと、雑踏の向こうから、不思議なメロディが響いてきたんだ」
「音楽?」
うん、と小さくうなずいて、俺は話を続けた。
「近づいてみると、それは名前も知らない学生バンドの演奏、つまりストリートライブだったんだ。ボーカルの少女が胸の前で両手を合わせて歌っていたのが印象的だったな。けどね、その演奏、あんまり上手じゃなかったんだ。雑踏にまぎれていたから仕方もないんだろうけど、一体どんな曲を演奏しているのか、全然わからないくらい下手糞だった。ギターだけはやたら上手だったけど、それがなおかつバンドの一体感を欠いていて……」
「あ、うん……。ギターだけ上手で、他は下手糞だったって、それ……」
何故か中道さんは俺の率直な感想を聞いて、あたかも我がことのように衝撃を受けていたが、それは単に彼女の感受性がいいだけだろうと思って、俺は構わずに続けた。
「だけどね、決してプロみたいに上手くはなかったけれど、そのバンドの演奏はとても魅力的だった。特に中学生らしいボーカルの子の歌声は惚れるほど最高で、ずっしり落ち込んでいた俺の胸まで確かに響いたんだ。たぶん中道さんには大げさに聞こえるかもしれないけど、俺はその日をきっかけにしてね、初めて前向きに生まれ変わることができたんだよ」
そう、これは冒頭にも説明したように、俺はその印象的な出来事がきっかけとなって、高校への進学を目指して勤勉な中学生活を復活させたのだ。
いや、そうは言っても学校で友達を作るまでには至らなかったけれど、こうして高校に入学することが出来るくらい勉強に打ち込めたのではある。
それもひとえに、あの日のバンド、あのボーカル少女のおかげだった。
もはや彼女の歌声も、その表情も、ほとんど夢のように輪郭がぼんやりしてしまっていて、はっきりと思い出すことは出来ない。けれど、あの出会いだけは忘れられなかった。
「あ、あのさ。もしかして、そのバンドって、そのボーカルの少女って……」
何か言いたそうな彼女だったが、俺は最後まで言葉を待たずに言った。
「え、ごめん、思い出せないよ。恥ずかしくてちゃんと顔を見られなかったし、感動でいっぱいいっぱいだったからね。あの時はバンドのファンになるとか、正直それどころじゃなかった。歌っていた少女には聞き惚れたけれど、そういえば名前も知らないな……」
「そ、そうなんだ……。でも、じゃあ、これに覚えはない?」
そう言って彼女は脇に置いていた鞄から何かを取り出して、ちょっと悩む様子ではあったが、何かの紙切れを大切そうに扱いながら俺の目の前に差し出した。
それを見た俺は驚きに目を見開いた。
「そ、それは俺が書いた手紙……」
ノートの切れ端に汚い字で「すごく素敵でした。これからも応援します」とだけ書いてある名前も記されていない手紙。それはあの冬の日、最後まで彼女たちの曲を聴いていた俺が、なんとか感謝を伝えようと彼女に手渡した即席のファンレターだった。
あの時、なんだか彼女に呼び止められたような気もするけれど、恥ずかしがった俺は一言も交わさずに逃げ出してしまったのだっけ。
「やっぱり君だったんだ! 私は一目見たときからそうじゃないかって思ってて、だからやっと確認が取れて嬉しいよ!」
彼女は顔を輝かせた。今日一番の笑顔で、だから俺はすごく嬉しく思えた。
こんな俺と再会できたくらいで彼女がこんなにも喜んでくれるなんて。
「いや、俺こそ嬉しいよ。さっきも言ってたけど、俺はあの時、君の歌に元気をもらったんだ。あれから何度か駅前に足を運んでみようかとも考えたけれど、それはできなかった。彼女にまた会うときは、もっとちゃんと勇気を持って会いたかったから……」
「……勇気だなんて」
「必要なんだ。それくらい彼女……いや、君のことは特別だった」
そして俺がそのバンドのボーカル、つまり中道さんについてもっとも感動したことといえば、その溢れんばかりの善意や喜びを身体全体で感じたことだった。
中学二年生のころ、世の中には悪意と絶望しか蔓延していないのだと勝手に悲観していた当時の俺に、彼女が見せてくれたどこまでも善意に満ちた優しい歌声は、誰かの幸せを心から願って歌っていたからこそ可能となっていたものなのだろう。
あの日、あの場所で、中道さんから俺は教えてもらったのだ。
この広い世界には、こんなにも善意に溢れた歌があるのだと。
優しさや希望に満ちた世界もあるのだと。
その日その瞬間を境にして、ネガティブな性格だった俺は心機一転、進んで他人の善意を感じ取ろうとするようになった。少しずつでもポジティブになろうと努力し始めた。
それは悪意と絶望に塗りつぶされつつあった俺の小さな世界にとって、小さな一歩ではあったけれども、まさしく革命にも等しい出来事だったのだ。
「だから俺はね、歌には力があるんだと思うよ。もちろん歌に限ったことじゃないだろうけど、精一杯の思いを込めれば、きっと想いは伝わっていくものだから。ね、中道さん。バンドって練習とか色々と大変そうだけど、今日から俺は改めて君のファンになって応援するよ。がんばって!」
「そっか、うん。ありがとう、あの日も今日も。でもなんか他人事じゃない? ちゃんと君も作詞のために私と一緒にがんばってよね」
「それは任せてくれとは言えないけど、もちろん俺もがんばるよ」
と、そんなやり取りがあって、俺はその日およそ一年ぶりに再会した中道さんと一緒に、彼女がボーカルを務めるバンドの新曲となるラブソングの作詞を考えることになった。
普通の詩ですら難儀してならない俺が、ひょんなことから思い出深いバンドの曲に合わせた作詞を、しかもよりによって最も縁遠いであろうラブソングの作詞をすることになろうとは、本当に人生何があるのかわからない。
中道さんと出会えたことも含めて、なんとも予想外で面白いものである。
「あのねー、いい? ……お前なぁ、帰ってきたばっかりだけど、もう帰ってもいいよ?」
すっかり取材とか記事のこととか忘れてしまっていて、結局手ぶらで部室に帰ることとなった俺が、そのことを知って機嫌の悪くなった先輩に追い返されてしまうということだけは、あのときの俺にだって予測できないこともなかったけれど。