04 些細なトラブルと一つの詩
結局、思うような完成度を誇る詩は一つも出来上がらなかった。
それも当然だ。本業の作家をなめてはいけない。たかが一介の高校生にほいほい思いつけるほど、奥深き詩の世界は甘くないということだろう。
砂糖のように甘い、とろけそうな恋の詩はたくさんありそうだけど。
……と、そんなことは別にいいのだ。
周囲を見渡しても相変わらず教室には相談できるような相手もいなかったので、俺は一人真剣に悩み苦しみ抜いた結果、やはり先輩に意見を求めることにした。
なぜなら昨年も今年に負けず劣らず部員が少なかったという弱小新聞部、先輩だって去年から新聞部に在籍している以上、なんだかんだで一度くらいは詩を作ったことがあるに違いないとひらめいたのだ。
手取り足取り詩作の秘訣を教えてもらえるのなら、俺はがんばれる気がした。
「どうか先輩お願いです、この俺に詩の極意を教えてください」
「あれ、まだそんなことやっていたんだっけ。ごめん出来上がってくるのが遅すぎて頼んだことすら忘れてたよ……」
「そんな、ひどい」
先輩に向かって神頼みするように深く頭を下げていた俺は、突き放された言葉に思わず前のめりになって、そのまま倒れこむようにして床に両手をついた。
なんだか土下座みたいになってしまったのが悲しい。
実は自分が思っていたほどには先輩から期待されていなかったという事実が、やはり俺にはショックだった。自分に与えられていたはずの役割さえ忘れられていただなんて、やっぱり悲しかったのだ。つまりそれって、いてもいなくても構わない存在だってことである。まだ校庭に迷い込む野良猫のほうが先輩に愛されていたかもしれない。
ちなみに余談であるが、このころから俺は先輩から「お前」と呼ばれ始めていた。他人行儀に「君」とか呼ばれているよりは先輩とも親しくなったんだなぁと思いたかったが、きっと普通に見下されていただけだろうと思う。仲良くなったからって、なかなか女子にお前呼ばわりはされない。
「急がないと次の新聞の締め切りに間に合わないよ。このままじゃ文芸欄が空白になっちゃう。一応この新聞部のポエムは歴代部員が作り続けてきた伝統があるんだし、できれば途絶えさせたくないし……。本当は隔週だけど、今回は四コマ漫画で代用してもいいかなぁ」
「詠み人おらず、っていうのはどうでしょう?」
ふざけて言ってみたら先輩はにっこりしてドアを指さした。
「帰れば?」
「いやいや嘘です、がんばりますから帰りません」
とはいえ、このとき先輩から投げつけられるように提示された校内新聞の締め切りは、確かにほとんど猶予が残されていなかったので、無能で役立たずな存在を自認する俺にはとても詩作が完遂できるとも思えなかった。
初仕事で原稿を落とすなど、これが校内新聞でなかったら未来がなかったろう。新人のミスを大目に見てくれないほどに社会は厳しい。
ともすると、先輩の目にも俺が暗く悲しげな顔をしているように映ったのかもしれない。
いつものとげとげしさを少しだけ和らげて、こんなことを提案してくれた。
「ならばこうしようか、お前も記事になりそうな事柄を取材してくるってどう? このままじゃ空欄になりそうな文芸欄を私が書いておく代わりにね、お前が別の記事を一つ書いてくるんだ」
「そうですね、だったら学内の美人を特集しましょうか?」
「おらん、やめろ、帰っちゃえ!」
「そうですね、確かに先輩以上の美人はいないかも。じゃあ先輩特集でいいですか?」
「嬉しくないよ、うるさいよ!」
とまぁ、こんな風に、俺に対する先輩の反応はいつも取り付く島のない冷たいものだった。
もちろん、その原因の大部分は不真面目だった俺の言動にあったのだと今ならわかる。なにしろ大人だからな。だけど当時の俺はまだまだ思慮の浅い子供で、それが先輩にとっての普通、つまり生まれ持っての性格であると勘違いしていた。先輩だって他の人には優しいと知るのは、もっとずっと後のことである。
それにしても我ながら楽天家である。しかし物事を深く考えない性格のおかげで、どんなに冷たくされたって俺はへこまなかったけれど、それって強さだろうか。
軽口や冗談ばかりを繰り返していると、さすがに腹が立ってきたのか、不機嫌な顔つきになりつつあった先輩。その堪忍袋の緒がぷっつりと切れてしまわないように、そして今度こそ先輩の力になるべく、何度目か知らないが俺は真面目に努力しようと決意した。
「それにしても先輩、校内新聞の記事にするような当てが何もないです。そもそも俺は新入生ですからね、この学校のこととか、まだ全然知りません」
「お前は本当に使えないね。なんでここにいるんだよーって聞きたい」
「先輩に……会うため?」
「だから嬉しくないって、うるさいよ!」
そう言って、やっぱり先輩には冷たくあしらわれてしまうのだけど、それでも根が優しい先輩は数回に一度くらいは肩をすくめながら苦笑いを浮かべてくれるから、そういうときに決まって俺は喜んでいた。
きっと俺は常日頃から「この世で一番価値のあるものは女性の笑顔である」と思っていたから、たとえ苦笑いとはいえ、一応は先輩の笑顔を見られて幸せだったのだろう。
あのときの俺に言ってやりたい。苦笑いとは、苦しみの笑いだってことを。
「先輩の記事をお手伝いしますよ」
「いいよ邪魔だから。一人でできる」
「俺の記事を手伝ってください」
「やだよ邪魔するな。一人でやれ」
そう言った先輩は立ち上がって、近くにあった数枚のプリントを束ねて棒状に丸めると、なんと俺に向かって振りかぶってきた。間違いない、その目は本気だった。もはや俺は先輩から害虫もしくはゴキブリか何かとしか見られていなかった。
そして半ば部屋に入った厄介な虫が追い出されるように、俺は部室を飛び出すのだった。
とはいうものの、やはり先輩も鬼ではなかったらしい。ちゃんと人の血が流れていた。
部屋を追い出される直前、あのわずかな隙に、俺に一枚のメモを手渡してくれたのだ。
「ひょっとして俺へのラブレターかな?」
淡い期待を胸に心を躍らせながら広げたメモを読んでみると、そこには事務的な連絡事項が記されているのみであった。浮かれたダンスは即座に終わった。
――窓からトラブル発見! 現場に急行してみたらどうかな!
メモに書かれていたことを簡単にまとめてしまえば、大体そんな内容である。
あまりに簡素なメモである。これくらいなら口頭で言ってくれてもよかったのに。肩を落とし落胆しつつも、従順な一年生である俺はひとまず先輩が書き記してくれた現場へ向かうことにした。
自慢じゃないが部活の他にすることもなかったのだ。
「ちょっと、だから困るんだって……」
「いいじゃん、いいじゃん。だって誰かと付き合っているわけでもないんだよね?」
「そうだけど、だからって誰でもいいというわけじゃ……」
部室の窓から見えたという校舎の陰になったところ、先輩がメモで指示してくれた現場に到着した俺の耳には、そんなただならぬ男女の会話が入ってきたのであった。これは修羅場に違いないぞと俺は勝手に決めつけて、事件現場を盗み見る家政婦並みの好奇心でもって、こっそり物陰から覗くように確認する。制服の襟に走るラインの色から、顔をつき合わせる男女は一年生同士であろうことがわかった。
あいにく彼らの会話を最初から聞いていたわけではないので詳細はわからない。けれど、その場の雰囲気を観察しただけで、やや強引な男子生徒に言い寄られる女子が困っているのであろうことは、なんとなく俺にも想像することができた。
けんか腰ってほどじゃないけれど、このまま無視するには少し気後れするトラブル。
とりあえず「自分の目の前に困った様子の女性がいたら、たとえ何も出来ないとわかっていても話を聞いて彼女の力になってあげるべきだ」と、これもまた俺は普段から自分に向かって言い聞かせていたものである。いかなるときも常に女性の味方であれと。
だから俺はなんの具体的考えもなしに突撃を敢行して、言い争う二人の前に堂々と姿をさらけ出した。
けれど本当に何も考えていなかったから、トラブルの仲裁者のつもりで出て行ったはいいものの、当然のように俺は沈黙するしかなかった。
当たって砕けずそのまま止まる、要するに俺はあほだった。
いきなり物陰から飛び出すと同時、そのまま口を閉ざして固まってしまった俺。その怪訝なる姿を見て、いったい何事かと、言い争っていた二人も驚いているようだった。
「あの、何か?」
静寂を打ち破って恐る恐る最初に声を出したのは、困っていたはずの女子だ。
頭が真っ白になり口をパクパクさせるだけで不審者丸出しだった俺を前に少しも臆しないとは、なかなか勇気がある人だなぁと場違いに思う。ひょっとしたら俺が助けるまでもなく、芯の強い彼女はトラブルを切り抜けたのかもしれない。
細く丸みを帯びたフレームのメガネをかけ、しわの一つも見当たらない真新しい制服に規則正しく身を包んでいる彼女。染めていないストレートの黒髪は肩にかかるかどうか、はっきり言ってしまえば全体として地味な印象しか受けなかったが、それでも彼女に言い寄っている男子生徒からすれば可憐な天使に見えるのだろう。だからと言って無理強いするように言い寄るのは感心しないけれど。
メガネの奥の目を細めて睨みつけてくるような彼女の視線は友好的というにはほど遠く、どこか闖入者の俺を警戒しつつ敵対視しているようである。後悔先に立たずとは、まさにこのことだと確信した。
それに比べれば、いかにも頼りなさげな男子のほうは、外見だけならば人のよさそうな風貌だ。事情を知らなければ好青年にしか見えない。話をするならこちらのほうかもしれない。
そこで俺はとっさに厳しい表情を見せている彼女から目をそらすと、あっけに取られて黙り込んでいる男子のほうに話を振った。
「いや、その、実はちょっと、こちらの彼に用事があって……」
「え、俺に?」
もちろん彼とは初対面であり、名前も知らない。
それが女子生徒の追求から逃れるためについたとっさの嘘だったとはいえ、見知らぬ男子生徒の手前、ひどく気まずくて死にそうに思えた。穴があったら入りたいどころか、その場で深い穴を掘ってトンネルにして、そのまま家に帰ろうかと思ったのも嘘ではない。
しばし俺と名前も知らない男子生徒が男二人で、馬鹿みたいに顔をつき合わせたまま互いの出方をうかがっていると、要領を得ないものの、一応は俺のつくり話を信じたらしい彼女はため息を一つ、意外にも物腰柔らかく頭を下げた。
「そうでしたか、すみません。あの、でしたら、あなたからも彼に言ってあげてください。私は誰ともお付き合いするつもりはありませんから、どうか諦めるようにって」
「えーっと、うん。残念だけど君さ、そういうことらしいね。だから彼女のことは諦めるしかなさそうだ」
「……はぁ、そっか。そうするよ」
よく事情もわからぬまま俺が励ますように男子生徒の肩を叩いてやると、そう答えた彼は落胆した様子でうなずき、俺たちから逃げ出すように走り去っていった。彼女と二人きりのときならともかく、俺という第三者のいる状況では、しつこく彼女に言いすがる精神を持ち合わせていなかったのだろう。何事も引き際は肝心であるから、それを心得ている辺り、今日玉砕した彼もいつか大成するに違いない。
さて結果として、その場に二人で残された俺と地味系の女子は、お互いに微妙な顔つきで目を合わせると、どちらともなく肩をすくめた。
呆れかえったように半眼で、どこか挑発的な声色で彼女は俺に声を掛けてきた。
「あのさ、いいの? 君は彼に用事があったんじゃないの?」
「ごめん間違えた。本当は君のほうに用事があったんだった」
「ひどい間違え方だね、それでよく入試に合格できたね」
そいつは大きなお世話だ。がんばったとはいえ、無事合格したのには自分でも驚いたけど。
ようやく冷静になってきた俺はここにきた当初の目的を思い出すと、なおも半眼を見せる彼女に向かって確認するように言った。
「あの、ひょっとしてトラブルっぽいのって解決しちゃったのかな?」
「トラブル? もしかして今さっきのこと?」
「うん。事情は知らないけど、さっきの彼に絡まれていたんじゃないの?」
「違うよ、ただの告白。……初めてで嬉しかったけど、ちょっとね」
「そっか……。うん、ごめん。それだけなんだ、それじゃ」
トラブルかと思えば告白の現場だったのか。だったらこれ以上あれこれと聞くのも無粋である。紳士であろうと気位を高く持つ俺は控えめに小さく手を振って、さらばと言い残す。
くるりと背を向けたが……しかし、それは未遂に終わる。
立つ鳥あとを濁さずと、遺恨なく華麗にその場を立ち去ろうとした俺だったが、どういうわけか、意外にも彼女によって呼びとめられてしまったのだ。
歩き出したところ出鼻をくじかれる結果となったため、思わず前につんのめった。ガッとなって地面に小さな穴が開いたので、つま先で埋めておく。
「ちょっと待って、たぶん君って私と同じクラスだよね?」
「え? そうかな? 知らない」
「ひどいな、大野だよ。……まぁ、私も君の名前って覚えていないけど」
もしや俺に対して気を遣ってくれたのか、どこか照れくさそうにポリポリと頬をかいた大野さん。続けてその言葉を口にするのが恥ずかしいとでもいうように、そっと横へと視線をそらしながら、こんなことを言い出した。
「実を言うとね、さっきは彼から告白されていた途中だったこともあって、いきなり物陰から飛び出てきた君からも、同じように告白されちゃうんじゃないかって、少し緊張しちゃったんだ。もしも私の態度で気を悪くしたのなら、ごめんね」
そう言って前歯を少しだけ見せて微笑んだ彼女は、ぎこちなく遠慮しながらもこちらに近づいてくると、そのまま照れ隠しのように俺の肩を右手の指先で小突いてきた。なんてことはない、彼女にしてみればただのスキンシップなのだろう。
それは俺が最初に彼女から受けた人当たりがきつそうな印象とは全然違う、とても幼げで可愛らしい仕草だった。相変わらず地味だったけど、その地味さが心地よかった。
また、これは俺が先輩以外の女性から得られた初のボディータッチでもあった。
目の前で告白に失敗して逃げ出した名も知らぬ男子生徒には悪いと思ったけれど、その時俺の全身を電撃のように駆け巡った衝撃は、恋心と言うにはあまりに低俗なものだったけれど、確かに俺の心に宿る激しいリビドーを突き動かしてしまったのだ。
ゆえに彼女と別れた後、妄想のうちに色々なものを昇華した俺は、瞬く間に一つの詩を書き上げた。今まで書けなかったのが嘘のように、詩作に要したのは五分ほどである。
やるべきことを終えて気分がすっきりした俺は、もはや大野さんとの記憶も印象深いボディータッチの件のみに集約して、女子の手でタッチされた肩を抑えながらニヤニヤと部室に戻ることにした。
ちなみに思い出しうる限りにおいて、あまりに稚拙で恥ずかしい出来だったので、とてもじゃないが内容を披露することなどできないが、その時、俺が溢れ出てくるパッションの勢いに任せるまま初めて書き上げた詩の題名は、今でもはっきり覚えている。
『世の男性よ、爽やかに変態たれ』
またそれは、今でも俺にとって座右の銘である。
「結局何も記事を書いてこなかったの? よくそれで戻ってこられたね」
「本当ですよね、すっかり忘れていました」
「帰っていいよ!」
「待ってください! ほら、実は一つだけ詩が完成したんです」
「やるじゃないか。見せてみなさい」
「これです!」
「やっぱ帰れ」
そういうわけで結局、その日の俺は一人寂しく家路につくのだった。
ちなみにこのときの詩はちゃんと翌週月曜日の学校新聞に載ることとなったが、いったいどれだけの人間の目に触れたのかは今でも定かではない。