02 高校、新聞部
ひとまず最初に断っておくと、当時の俺はとにかく寂しかったのだ。
本音を言えば寂しいなんて生易しいもんじゃない。絶海の孤島に取り残されたような孤独感に恐怖していたと言っても過言ではないだろう。
いつ何時も一人きりだった俺は中学のころ、ほとんど学校に行っていなかった。
つまり中学生のころの俺は不登校というか、いわゆる引きこもりだった。
そうなった直接のきっかけは忘れた。語るに値する大きな事件があったわけでもない。いくつものネガティブで容赦のない自己嫌悪が多段攻撃のように俺の精神を蝕んでいったのだろう。
あのころの俺はよくなったり悪くなったりと普段から乱高下しがちな精神状態で、誰に攻撃されたわけでもないのに自主的な防衛本能を働かせて警戒ばかり、気が付けば一年以上もの期間を自宅での篭城生活で過ごした。
たまに顔見せのつもりで学校に出て行くこともあったけれど、そういうときは決まって浮き沈みの激しい躁鬱サイクルの「無駄に元気なタイミング」だったから、傍若無人に不遜な態度を取りがちで誰とも仲良くできず、当然ながら友達はできないに決まっていた。
いつまでもクラスに一人、自宅でも部屋で孤独に一人、寝ても覚めても楽しいことなんて何一つ存在しない。ちっとも代わり映えのしない退屈で味気ない生活を、イベントの用意されていないゲームのモブキャラみたいに繰り返していた。
けれど俺だってバカじゃない。いやバカではあったが行動するバカだ。心のうちでは現状について問題視していたこともあり、いつまでも自宅に引きこもっているということにはならなかった。
こう言ってしまえば途端に安っぽく聞こえてしまうが、つまり断続的な引きこもり生活を続けていた当時の俺が、ようやく「ちゃんと外に出て社会復帰する」という決心をするときが来たのだ。
冒頭に述べた冬の日の出来事をきっかけにして、ほんの少しだけ前向きな人間に生まれ変わることのできた俺は、そこから残りの中学生活のおよそ一年間を受験勉強のために費やすことにしたのである。
とはいえ、世間様に威張れるような高い目標なんてものはない。
ただなんとなく「気が向いた」と言ってしまえばそれだけだ。自由な校風で人気のある高校にでも進学して、新しく人生をやり直そうと思っただけなのだ。
高校デビュー。
つまり俺は環境の変化と、それに追随する自己の成長に憧れたわけだ。
最初のころはといえば、なにやら急に勉強にやる気を示し始めた俺に対して、どういうわけか、悲しいまでに懐疑的だった両親。信用ないな。だがそんな二人も、ひたむきな俺の血と汗のにじむような努力を見て、半信半疑ながら本気度を認めてくれたのだろうと思う。
その時点における俺の成績や内申点はたぶん低かった。当時のクラス担任から進められたのは、受験者数イコール合格者数というバカでもアホでも誰でもウェルカムな高校だけである。
本音を言うと別にそこでもよかったが、どうせならもっと高みを目指してみたいと思っていたところだし、なにより中学の知り合いの多くが進学するらしいので、心機一転を確実にしたい俺はそこを避けた。結果、両親は渋い顔を隠さなかったものの、地元ではそこそこ有名な進学校である私立高校への挑戦を認めてくれたのだ。いわゆる記念受験扱いで、受かるとまでは信じてもらえなかったのが悲しい。
とはいえ俺の願いを認めてくれた以上、受験の日が来るまで遊び散らして、本当に落ちるわけにはいかない。
なにより落ちたら俺がショックだ。いよいよ立ち直れぬ。
それから俺は脇目も振らず必死になって、連日連夜を孤独に励んだ勉強のかいもあってか、苦労しつつもなんとか無事に目標とした私立高校への進学を果たした。当面の目標を達成した俺はというと、三月の中ごろに行われた合格発表を確認した瞬間から気も早く、四月の入学式を前にすっかり浮き足立っていた。
――さて、新しい高校ではどんな自分を演出しよう?
――もし彼女ができたら、どんなデートを計画しよう?
――学校で一番の人気者になってしまったらどうしよう?
などなど、そんな益体もない下らぬ妄想を一人頭の中で繰り返しては、毎日飽きもせず家族の不審がる様子を尻目に馬鹿面全開で、すっかりバラ色に包まれた夢ばかり見ていたものだ。冗談抜きで人気者になる予定でいた俺はとっかえひっかえの忙しい交際計画を、それはもう念入りに筋書き立てていたのである。
それが決して手には届かぬ絵に描いた餅であり、取らぬ狸の皮算用にすぎないということは、まるで宝くじにでも当選したかのように浮かれていた幼稚な俺のこと、実際に入学して数日が経過するまで気がつくことなどできなかった。
そもそも中学時代の三年間を通してボッチ街道まっしぐら、まともにクラスメイトとコミュニケーションを取ることさえできなかったという対人能力皆無の気弱な人間である。そんな俺が頭の中で考えた独りよがりな都合のよい筋書きなんて、実質的には攻撃力ゼロの悪あがきでしかない。
手厳しい現実世界が相手では通用するわけがないのだ。
待ちに待っていた高校生活の初日、入学式が終わった直後のこと。ぎこちなく足を進めていた緊張の面持ちを浮かべる新入生一同の誰より早く、真っ先に誰もいない教室へと戻った俺。そこまではいい。しかし俺はそれから自分の席へ腰を浅く落ち着けると、そのまま爽やかなイケメン風を装って口を閉ざして、他者を寄せ付けないクールさを気取っていたのだ。
もちろん今の俺なら、自分の容姿を客観的に見てイケメンでないことくらい痛いほどに知っているし、よくて平凡程度であるとひいき目に判断できる。だがしかし、高校生になったばかりで多感な思春期であった俺は自分のことを格好いい男子と信じていた。
もしもあのころに戻れるのなら、ひとまず自分の頭を思い切り引っぱたいて目を覚まさせてやりたい。凡人は凡人らしく身の程を知れ、それは勘違いだぜ馬鹿野郎って罵ってやりたい。
とにかく、そんな俺の気取った鼻につく態度が原因だったのか、どうやら周りの目には俺が不機嫌そうにしている様子にしか見えなかったらしく、結局その日はクラスの誰からも声を掛けられることなどなかった。悲しいかな、得体の知れないニヒル野郎は嫌われて当然である。遠巻きにされるのも当然だ。
もちろん逆に自分から初対面の人間に声を掛けるなんて恥ずかしい。すっかり不安と緊張で固まっていた俺には無理な話だった。
つまり早い話がどうか聞いてくれ、そんな風に始まった高校生活初日は新しい友達を作るどころか、クラスメイトと挨拶程度の言葉を交わすことさえできなかったのである。
「……えっとまぁ、よろしくお願いします」
俺がまともに声を出したのはそんな感じ、自己紹介のとき一度きりだけだった。
にこりともせず無愛想で、しゃべりもしないつまらない奴。それ以外のパーソナリティは誰の印象にも残らなかったことだろう。
ところが実際には高校生活の出だしから失敗していたにも関わらず、そのときの俺はどこまでも楽観的だった。ただの一人も友達が出来なかったからといって、たった一言しか教室で喋れなかったからといって、少しも落ち込まなかったのだ。
きっと今日はみんな入学初日で忙しかっただけだろう。明日になれば心にも余裕が出てきて、一人で暇そうにしている俺にも向こうから喋りかけてくれるに違いない。
どこまでも夢見がちにそう思いながら、俺は満足そうな顔で帰路に着いたのである。
今日が駄目でも明日がんばればいい。能天気にそんなことを考えていたのだ。
けれどさすがの俺も日数を重ねるうち、徐々に現実が見えてくるようになる。
それから俺が高校で送った最初の数日間といえば、一人ぼっちな俺は誰とも会話らしい会話もないまま無聊に過ぎ去っていく一方で、ぐるりと教室を見渡せば、ほとんどの人間が楽しそうに友達同士の会話で盛り上がっていたのだった。
まわりの誰にも気付かれないように、こっそり聞き耳を立てて、一人きりだった俺も彼らが楽しそうに繰り広げていた会話に傍聴者として参加したつもりになって初めてわかったことだが、基本的には出身中学が同じだった人間同士が最初に仲良くなり、そのいくつかの小さな輪を中心として、少しずつクラス全体が打ち解けていっているらしい。
俺と同じくクラスの誰とも会話せずに机の上へ突っ伏しているのは、もはや残すところほんの数人程度であり、今にも絶滅寸前となっていた。いうなれば保護対象の希少動物である。死にそうなんだ優しく保護してください。
それでも俺は不思議なことに焦らなかった。結局最後の最後まで友達ができず突っ伏し続けることになるなんて目に見えていたのに、その時の俺は危機感を覚えなかった。
それどころか、むしろ謎めいた「上から目線な思考回路」を存分に発揮して、こうして教室で一人退屈そうにしている俺のことにも全然構ってくれないなんて、高校生ってみんなシャイなんだなぁとか、偉そうに肩をすくめて笑ってみせた。
とにかく陽気に笑ってさえいれば、みんなも話しかけてきやすいだろうと思ったのかもしれない。それ自体は世間一般で用いられるコミュニケーション術として大きく間違ったことではないだろう。
しかし当時の俺は憧れていたニヒルでアンニュイな感じをかもし出そうと振る舞った。笑顔といっても、さわやかさは微塵も感じられない。いっそ薄気味悪さのほうが勝っていたであろう。
そうとは知らず、周囲の何事についても無関心そうな態度で気だるそうにしながら、いつも一人きりで教室の窓から外ばかり眺めていた俺。そうこうしているうちに言葉にできない寂しさと悔しさは降り積もり、日々を重ねるごとに大きくなっていった。
入学式から二週間が過ぎたころ、俺は初めて自分の状況に焦り始めたのだ。
「母ちゃん、ごめん。携帯が欲しい!」
なかなかクラスに溶け込めない俺は脱ボッチ作戦を練り、ある夜、それは風のない静かな夜だったが、そう叫ぶと母に向かって拝み倒すように頭を下げた。
というのも、新しい学校でなかなか友達ができないのは、ひとえに俺が現代の若者にとって重要な連絡ツールである携帯電話を持っていないせいだと考えたからである。たとえば野球をするのに一人だけ素手の状態でいては、痛くてボールに触れないのも当然のことであると。うまくみんなの輪に入るためにも、せめてバットとグローブがほしいと。
いや、そうじゃないだろう。
たっぷり時間が経った今だからこそ、なにもかも本音で隠すことなく正直に言える。
クラスで一人も友人ができない理由なんて自分ではわからないけれど、とにかく俺が携帯電話を持っていないせいだからと思い込みたかったのだ。
自分自身の言動に原因があるという事実から、無意識に目をそらしてしまったのである。
「仕方ないわねぇ……。その代わり、ちゃんと勉強はするのよ?」
「イエス、マム!」
右手では敬礼をしながら、親から見えぬ左手ではさりげなくガッツポーズ。
よくよく考えてみると、子供のころから俺はずいぶん長いこと両親への反抗期を続けてしまっていたけれど、そのときばかりは心から反省するとともに母に感謝した。いさぎよく土下座もした。
もう中学生のころのように迷惑はかけないって、これからは人並みに親孝行もちゃんとするって、口からでまかせに言いまくったのだ。
そんな俺に母は久しぶりに笑ってくれたと思う。とても嬉しそうだったことを覚えている。
「それにしても自分から携帯をほしがるなんてね。……やっと友達ができたの? よかったじゃない」
おそらく母は母なりに、数年前から不登校だった俺のことを心配してくれていたのだろう。冷たいばかりじゃなく優しいところもあったんじゃないかと、人情の機微に鈍感な俺はそのとき初めて気がついた。
「まぁね、今度ちゃんと紹介するよ」
とはいえ残念ながら学校で友達ができたのだと、本当の意味で報告するのはもう少し先のことになりそうだったが、その時の俺は携帯を買ってもらえるという嬉しさに舞い上がっていた。
引っ込み思案な俺にも文明の利器である携帯電話さえあれば、友達とメールや電話で連絡を取り合って、寝る間も惜しいくらいにふざけあったりするんだろう。どこかで運よく女子の連絡先を手に入れることができれば、そのまま親しくなって付き合っちゃったりするんだろう。
実際に携帯電話が手に入るまで、俺は日夜そんな妄想で幸せを満喫した。その根拠なき妄想は上手くいかない現実に比べれば楽しくて嬉しくて、それが現実のものになることが待ち遠しくて仕方がなかった。
これは幸運なことだったかもしれなが、そのとき俺が入学した私立高校は自由な校風も売りの一つであり、校内への携帯電話の持ち込みが校則で禁止されることもなかったし、授業中でさえなければ教室で使うのも許可されていた。今とは違って、まだスマホが本格的に普及し始める前だ。世間では携帯電話に対する校則が厳しいところも多かった。
まさしく前途洋洋、高校再デビューへの障害は何もないかに思えた。
それから数日後、ようやく契約を済ませて入手した携帯電話。
ゴールドラッシュの時代につるはしとジーンズを手に入れたアメリカの若者よろしく希望に満ちて仕方がなかった俺は早速それを持ち歩いた。とはいえ自分の口から周囲に「俺も携帯持ちですよ!」と喧伝することなど、今さら感があって恥ずかしい。
それでも、いち早くみんなに気付いてほしいのは事実で、一つ一つの授業が終わって休み時間が来るたびに、教室の自分の席でずっと携帯を取り出しては暇をつぶしていた。
忙しくメールを打つ振りなんかして、実際には面白くもない単純なゲームをプレイしていたのだが、自分の席で、窓際で、いかにもわざとらしく携帯を見せ付けたりしていた。
クラスメイトなら誰でもよかった。俺の携帯を発見した人間から「へえ、持ってんじゃん。アドレス交換しようよ」と言われたかったのだ。言われればどんな不愉快な奴だろうが、見るからに不良で俺をいじめてきそうな奴だろうが、はいオッケーですと喜んで連絡先を教えいていたことだろう。
なのに、俺はますます友達ができなくなっていた。ますます孤立を深めていった。
それも当たり前だ。休み時間も休む暇なく一人で忙しそうに携帯をいじくっている人間に、わざわざ誰も近寄ろうとは思わない。
我ながら馬鹿である。
気がつけば、昼に弁当を一人で食っているのは自分だけだった。
だからもう、それは当時の俺にとって火急の課題だった。
いかなる手段でも構わない、こうなったら心無い偽者だって構わない。とにかく俺は形としての友達でいいから、ひとまずの話し相手がほしくてたまらなかった。
当たり前の話、学校で一人は寂しかったのだ。
思春期だからって、可愛い彼女が欲しいなんて高望みはもうしない。せめて、お互いの破廉恥な妄想を語り合えるような男友達が欲しかった。もちろんそれが女子なら文句なく最高だったけれど、もはやなりふり構ってもいられなかった。
冷淡なる事実として、すでに関係性の固まりつつあるクラス内にそのきっかけを求めることは難しそうだった。なんとも不本意なことだったが、どうやら無口で無愛想なキャラに設定された俺はクラスメイトから気難しい人間だと思われていたらしく、ちょっと顔を向け、誰かと視線を合わせるだけでも相手から漂ってくる嫌悪感が身に染みた。
いじめとは言わないまでも、あからさまに目をそらされてしまうことさえあった。
特にそれは繊細な女子にこそ顕著な反応であり、そのあからさまな目の避けようといったら、俺と三秒以上視線が合っただけで「妊娠させられちゃう!」とでも恐れているようだった。その過剰な反応はナイーブな俺だって死にたいほど苦しいものだ。
そこらの女子以上に繊細なガラスでできている俺の心は簡単に砕けやすい。あまりに深く傷ついてしまったので、慰みと現実逃避をかねて、それをきっかけによからぬ妄想を膨らませたこともある。目が合った女子に校舎裏へと呼び出されて罵詈雑言を浴びるのだが、そのうちに彼女はつい隠していた本音や悩みまで俺にぶつけてしまう。嫌いだからこそ遠慮する必要のない関係性。俺を見下す彼女との主従関係にも似た恋人関係のスタート。
そんな風なことを夜な夜な考えて気を紛らわせていたこともあるのだが、それをこれ以上詳しく説明すると気持ち悪いから、ここでは自重しよう。いっそ罵倒や蔑視から始まる恋があったっていいじゃないかとは思うけれど、あいにく俺はそこまでマゾじゃない。
とにかく一念発起して、俺は新しい出会いを求めてクラスの外に目を向けることにしたのだ。
察しのいい人なら気がつくかもしれない。
そう、部活だ。
「うわぁ、どこに入ったらいいんだろう?」
そんなわけで新天地となる部活を求めて、廊下に設置されていた掲示板の前へと向かった俺ではあったが、びっしりと掲示板を埋め尽くしていた新入部員を勧誘する張り紙のあまりの多さに圧巻され、思わず深々とため息を漏らしていた。
今日着る下着にも迷う優柔不断な俺のこと、誰とも相談せずに自分ひとりの力で選ぶなんて、首筋に刃物を突き立てられたってできそうになかった。
実をいえば、この高校に入学してから数日間くらいは俺たち一年生を対象に熱心な勧誘活動なるものが先輩方によって開催されていた。
……だが、その時の俺は「学校生活をエンジョイする予定の俺に部活動? そんな時間があるわけないだろ」などと鼻で笑い飛ばし、手製のビラを渡してくる上級生など全く相手にしなかった。
だからだろう、じっと食い入るように掲示板を端から端まで眺めていても、どの部活に入ればいいのか見当も付かない。
なにしろ一つとして詳しい活動内容を知らないのだ。
敵を知り己を知れば百戦危うからずと孫子は言ったが、その逆で、相手について何も知らなければ決定打が生まれないのだって無理はない。無知は毒だ。容易に人を腐らせる。
こうなったら男女の比率で入部先を選んでしまおうかと思っても、残念かつ卑怯なことに、男女の詳しい部員構成までは張り紙に書かれていなかった。もし俺が女子との出会いを期待して入部した先が男子生徒ばかりのむさい部活動であったときのことを想像すると、暖かな春先だというのに身震いが止まらなかった。
そんな馬鹿げた薄ら寒さと、これからの高校生活全般に対する漠然とした不安のせいか、突如として湧き上がってきた胸の悲しみと悔しさを我慢しきれなくなって、ところかまわず思わず泣き出しそうになった俺は、ズズッと鼻をすすりつつも寸前のところで涙だけは我慢すると、とっさに自分の左腕を右手で押さえて、力強く握り締めた。
一体俺はこんなところで何をやっているんだろうと、叫びたいほど悔しくなってきては、右手のつめを左腕に向かって突き立てていた。
おそらく、その時の俺は精神的に崩れる寸前で、辛い現実から逃げ出す手前だったのだろう。実際あのまま何もできなければ、友達もできないままでいれば、俺はあたかも中学時代に戻ったかのように、静かに高校を去り一人で家に引きこもっていたことだろう。
けれども当時の俺は幸か不幸か、いや今なら幸運だったと断言できるけれど、掲示板の隅に張り出されていた一枚のプリントに目がひきつけられてしまったのだ。
「校内新聞?」
それは一見何の変哲もないような、ひどく殺風景でつまらなそうな校内新聞だった。
今では記事の内容も思い出せないくらい、ありきたりな壁新聞だった。
このとき新聞の隅に明記されていた発行者の名前に気がつかなければ、俺は高校に新聞部というものが存在していることさえ、三年後の卒業まで気がつかなかったことだろう。
「……鈴木ハルナかぁ。ひょっとして先輩なのかな? 珍しい名前じゃないけど」
そこに堂々と記されていた名前は、まだ俺が引きこもりになる前の小学生だったころ、いつも仲良く遊んでいたグループのリーダー的な立場を務めていた鈴木ハルナという先輩のものだったのである。
行ってみよう。
だから俺は、ほとんど反射的にそう思い立った。
同じクラスメイトに声も掛けられないような人間が、同じ名前とはいえ見知らぬ先輩のもとに行こうと自分から行動を起こしたのは、ちょっと不思議かもしれない。それをただ単純に好奇心と言ってしまえば簡単な話だが、もちろん先輩に対する興味関心が尽きないのは否定しないが、きっとそれだけで無意識に足が動いたのではあるまい。
おそらく高校生になりたてだったそのときも、記憶の中では俺の手を引っ張ってくれているような力強い先輩の存在が、臆病な俺にも勇気を与えてくれたのだろうと思う。
少なくとも恋心ではなかったけれど、昔から俺は彼女に憧れていたのである。
「あ、あのう……」
そんなわけで、ともかく新聞部の様子だけでも覗いてみようと第二校舎の奥深く、放課後になるとすっかり人通りのなくなってしまう廊下の果てにあるという部室の前に迷いながらも到着すると、今度は新しい問題が発覚した。しかもそれは深刻だった。
恥ずかしながら、緊張と不安で部室の扉を開けることができなかったのだ。
実際に部室の前にたどり着く前に気がつけばよかったのだが、いくら高校の部活とはいえ新聞部、そこで作るのはいたって真面目な新聞である。そもそも文章能力などあるわけがない俺には小学生のころ書かされていた短い作文でさえ苦痛であり、活字ばかりの新聞記事のために手伝えることなど何もなさそうだった。
しかしここまで来てしまったのだ。もう逃げ出すには一足遅い。
よしこうなったら入部の決断は保留しておくとして、とりあえず中で詳しい話を聞くだけでもと、駄目でもともと精神を精一杯に駆使してから、なんとか俺は覚悟を決めた。
決意を改め、じっとりと右手に大粒の汗を握りながら、背筋に幾筋もの冷や汗を流しながら、からからに渇いた喉の奥から搾り出すように小さな声を出す。恋人同士が初めて手を触れ合うときのように控えめなノックが、人の立ち去った廃墟であるかのように静寂を極めた廊下に大きな音を立てて響くと、姿の見えない何かに恐れた俺はすかさず首を縮めてしまう。
「どうぞ」
それは凛とした女性の声だった。
内側から入室を促す、美しく澄んだ声だった。
すると俺は女王様に命令された従順な下僕のように、熱湯に触れた指先が脊髄反射をするかのごとく、その場で軽く飛び跳ねるように答えた。
「イエス! 失礼します!」
うっかり英語でイエスが出てしまったものの、それを取り繕う余裕は気が動転した俺になかった。顔を熱湯で茹でられたように赤々と染め、真正面からでは無理だと、身をよじって照れながら部室に入る。
「……ふふ、ここで作業しながら待っていて正解だったね。なんたって今日は新入部員が来る予感があったもの!」
一般教室よりちょっと手狭に見える部室の一番奥、やり手の編集長然として立派なデスクに座っていた黒髪ロングで背の高い美少女が、おずおずと扉を開けて入った俺の顔を見るなり、幼い少年のように嬉しそうな顔をして笑っていた。
その笑顔の真意は計り知れないが、昔から「女性の笑顔を見たら、とにかく笑い返しておけ」と自分に言い聞かせていた俺は迷わない。とりあえず同じように目を細めて笑ってみた。
不審者扱い一歩手前で怪訝な表情をされてしまったのは言うまでもない。
「あのう、挨拶を飛ばしていきなり失礼ですが、あなたが鈴木ハルナ先輩ですか?」
そう尋ねてみると、いきなり名前を呼ばれた先輩は何かに気づいた様子で俺の顔をまじまじと見た。
「うん、そうだけど? ……って、そういう君は、ひょっとして吉永一志?」
「あ、はい、お久しぶりです。俺のこと覚えていてくれたんですね、嬉しいなぁ」
とか言いつつ、本当は直接尋ねるまでもなかった。その顔を一目見ただけで、嬉しそうに俺を迎えてくれた彼女が、かつて仲の良かった鈴木先輩と同一人物であることは確信できていたから。
もちろん彼女だって会わない数年の間に変わっていたのだけど、主に女性として美しくなるほうに成長していたのだけど、それでも身にまとっている雰囲気だけは少しも変わっていなかったのだ。
「いやー、本当に奇遇だね。もしかして新聞部に入ってくれるの?」
「あ、いえ、まだそうと決めているわけでは……」
と、こちらが言い終えぬうちに先輩は大喜びで飛び跳ねるように手を打った。
「ありがとう、手伝ってくれるなら助かるし嬉しい! 頼れる先輩たちがすっかり卒業しちゃってね、今では真面目に活動している部員が私だけだったんだよ! 堅苦しいイメージのある新聞部なんか誰も入りたがらなくって!」
「そうですか、あ、ですね!」
こうして人の話なんか全く聞きもしないで、一方的にまくし立ててくる先輩の激しい口ぶりも、昔から全然変わっていないようで懐かしかった。思えば小学生のころから上下関係は一定不変であり、子分同然だった俺は彼女を前にすると反論することなんてできなかったものだ。
そのせいで俺が新聞部に入部することに関しても流されるがまま、ほとんどなし崩し的に決定してしまったのだけれど、そのことについて不思議と後悔することはなかった。
それはきっと高校に入学して初めて他人とまともに会話することができていたからだろうと思う。ずっと一人ぼっちで寂しかった俺には願ったり叶ったり、入部に関しては文句のつけようなんてなかった。
「それじゃ君は毎週月曜日に張り出す校内新聞の隅に載せる四コマ漫画と、文芸欄に載せる詩の作成をよろしく。隔週で交互にやってもらうよ」
「えっ? いや先輩、そんなこといきなり言われても……」
「大丈夫、他の記事は私がまとめるから。それとも何? 私に反論があるとでも?」
「いえいえないです」
嘘だ、ごめん。ほんの少しだけ後悔していた。
久しぶりに再会した美人な先輩と二人きりの部活、もちろん男として嬉しさのほうが大きいのは疑いようのない事実だったけれど、一方でこれから雑用に忙しく走りまわされるのではないかと思うと、どうしても手放しでは喜ぶことができなかったのだ。
まぁ、それでも部活中は浮かれてこっそり先輩の姿を覗き見ちゃうのが単純な男子ってもので。
最初のころは先輩に白い目を向けられていたことも、今では楽しかった頃の思い出の一つとしてよく覚えている。