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17 彼女の歌

 それからエミさんと二人きりで会うことができたのは、公園で岸村さんと会ってから三日後、夏休みも最後の週に入ったころだった。


「最近どう?」


「んーと……」


 質問に対する明確な答えはなく、エミさんから返ってきたのは苦笑のみだった。

 たったそれだけの反応で、ここ数日の彼女がくすぶっていること、誰にも相談できず一人で迷い続けているであろうことが俺にはわかった。俺だって引きこもり経験者だから、同じように悩み苦しむ人には敏感だったのである。ごまかすことさえできない弱さに彼女は立ち上がれずにいたのだろう。

 そこで俺は提案した。

 そんな彼女を励ますために、精一杯応援するために、今度こそ本当に彼女のためにと願って。


「エミさん、ボーカルをしよう」


「え、ボーカル?」


 エミさんが目を丸くして驚くのも無理はない。

 バンドのメンバーでもない俺が切り出すには唐突で違和感のある話題だったことだろう。


「いきなりどうしたの?」


「とにかくこれを聞いてほしいんだ」


 そう言って俺が取り出したのは携帯式の音楽プレーヤーである。


「うん、わかった」


 イヤホンを渡すと首をかしげつつも受け取り、それからエミさんは目を閉じて静かに聞き入った。俺はそんな彼女の隣にいて、決して離れまいと座り続けていた。

 やがて最後まで再生が終わったのか、イヤホンを外したエミさんが顔を上げて言った。


「もしかして、これって……」


「うん、岸村さんのギターだよ」


 それは先日の公園で岸村さんに俺が頼み込み、一本のギターだけでも演奏できるようにアレンジしてもらった例の曲だ。

 つまりエミさんと岸村さんの二人だけでもやれるようにしてもらった曲。

 彼と彼女で過不足なく、心地よく演奏し歌うことの出来るラブソングである。

 それをたった数日で完成させてくれた岸村さんは、こう言っていた。


「あとはエミさんが自分で作った歌詞を持っていけば、岸村さんも君をボーカルとして迎えてくれるって、つまり岸村さんと二人で音楽をやり直すことが出来るって、そう約束してくれたんだよ、エミさん」


「まさか君が、わざわざ岸村さんにお願いしてくれたの?」


「勝手にやっちゃってごめん、迷惑だったかな?」


「ううん、そんなことない、すごく嬉しいよ。やっぱり君は私のことを大事に考えてくれているんだってことがわかる。そして私も、ここ数日ずっと考えていたから、改めて思った。やっぱり歌うことは好きなんだって。歌いたいんだって」


 そこで彼女はちらりと俺を見る。


「ただ、ちょっと寂しいなって思っちゃって」


 微笑みつつもそう言った彼女の言葉が、そのとき俺には理解できなかった。

 ボーカルをやめたいと言ったときの悲しい顔を思い出せば、それが本心からそう思っているわけではないのだと誰にでもわかる。彼女は孝之さんに連れて行かれた新バンドとのことがあって、もう二度と信頼できない相手とはバンドを組みたくないと、そう弱音を漏らしたに過ぎないのだ。

 だから、歌うことが好きなエミさんが組むべきなのは、エミさんの歌を好きだと言って、エミさんもそれを嬉しく思った岸村さんしかいないのだ。

 彼女が安心して楽しく歌うことのできる場所はそこしかない。俺がどう考えていて、どうしたいかとは関係なく、事実として、エミさんは岸村さんと組んでこそ輝けるボーカルなのだ。

 そう考えたからこそ絶対に喜んでくれると思っていた。

 けれど、どうして寂しがる必要があるのだろう。

 かけるべき言葉が見つからずにいると、エミさんは言った。


「君は私のボーカルが好きだと言ってくれたよね? それと、あの日、あの公園で言ってたことって本当? バンドじゃなくて、ボーカルとしての私じゃなくって、私のことを想っていてくれているって」


 あの公園での出来事を思い出して心がうずきながらも、あのときのセリフだけは本当だと俺はうなずいた。するとエミさんは質問を重ねてきた。


「私が岸村さんと組んだら、それでも変わらずに好きでいてくれる?」


「……うん、変わることなく俺は好きだよ。今も昔も、これからもずっと」


 正直に答えると、それを聞いたエミさんは笑った。

 何度でも何度でも好きと言わせたいみたいに。


「私のこと本当に好きでいてくれるんだ?」


「それは、もちろん。バンドとか、ボーカルとか、そんなのは関係ない。ただ純粋に君のことが好きなのは本当の気持ちなんだ。君のことを考えると幸せになる」


 やっぱり自分の気持ちを告白するのは恥ずかしい。

 それでもちゃんと伝えておかなければ後悔するに決まっている。


「でもだからこそ、もう強引に岸村さんとくっつけたいわけじゃないし、君のことを奪い去りたいわけでもない。ただ、もう一度ちゃんと、岸村さんと一緒に音楽をやる君の姿が見たいんだ。このまま歌うことをやめてしまうのは、岸村さんとの関係だけじゃなくて、もっと大切な何かを失ってしまうんじゃないかって不安に思えてならないから」


 そこまで言うとエミさんは笑うのをやめて目を閉じた。

 真剣に答えを探していてくれるのだろう。


「……わかった。私、やるよ」


 並々ならぬ決意を胸に秘めているに違いない。エミさんは力強くうなずくと、俺の手を握って、そう宣言するのだった。それは同時に彼女が岸村さんのところに行く決心をしたことでもあるが、そこに寂しさがないといえば嘘ではないが、ただ彼女の背を押すために、俺は悲しさを押し殺して笑ってみせた。

 そしてエミさんは歌詞を作り始めた。

 彼女をボーカルとして迎え入れてもらうべく、岸村さんに持っていくためのラブソングの歌詞である。


「んー、どうしよう?」


「難しいことは考えずにさ、気持ちを率直に書いたら?」


「率直に書けばって、それで歌詞になったら誰も苦労しないよ」


「だよね」


 ところが作詞という奴は難しい。やる気を取り戻したところで、簡単に出来上がるというわけにもいかなかった。ノートに向かっているエミさんの表情は悩ましげで黙って見ていられなかったが、今回はエミさんが自分の力で、岸村さんのために作るラブソングの歌詞なのだ。

 俺が直接的に口出しすることは避けたい。アドバイスさえためらわれる。苦心する彼女のそばで見守っているしかなかった。

 そんな俺の存在をチラチラと横目で気にかけていたらしいエミさんは、作詞に行き詰って困っていたのか、ゆっくりと俺に顔を向けて、こんなことを言ってきた。


「これ、ラブソングなんだよね」


「そのつもりで岸村さんは作曲したんだと思うよ」


「だったら誰かを心に思い描きながら考えたほうが、いい歌詞になるのかな?」


「それはそうだね。好きな人を思いながらのほうが……」


 そう言いつつ、俺は思う。

 彼女が恋焦がれる相手は岸村さんであり、愛する人のことを思いながら彼女が作るであろう歌詞には、本物の感情だけがほしかった。

 恋するエミさんが紡ぎだす、まじりけのない本物のラブソングが。

 俺はどうしようもなく聴いてみたい。


「わかった。私、これには精一杯の気持ちをこめるよ。そしてこの恋の歌を聴いてくれるその人に、私のことを繋ぎとめていたい」


 彼女の気持ちに共感して俺はうなずいたものの、苦笑せざるを得なかった。


「岸村さんは鈍感だろうからなぁ……」


「……む」


 すると好きな人を馬鹿にされたように感じたのか、不服らしいエミさんが頬を膨らませた。

 彼女の気分を害するつもりはなかったので、俺は慌てて釈明する。


「そんなに怒らないでよ、エミさん。ちゃんと本当の気持ちを込めて歌えば、きっと彼だってわかってくれるから」


「わかってくれる、ね。でも、本当の気持ちかぁ……」


「うん、なんたってラブソングだからね」


 俺は思わずエミさんから顔をそらした。

 遠い目をして思いを馳せている彼女の表情は恋する少女そのもので、そんなエミさんに恋してやまない俺には見ていて苦しくなるばかりだった。どうしようもなく切なかったのだ。

 これからも彼女のそばに俺は友達としてはいられるだろう。けれど、決して恋人として立つことは叶わないのだろうと、そのときは痛ましいくらいに思った。


「……ねぇ」


 エミさんは前かがみに身を乗り出して、胡坐する俺の膝の上に右手を置いた。

 そして上目遣いに真っ直ぐ俺の顔を見て、そんなエミさんに顔を向けてしまっていた俺との目線が交差する。じっと見詰め合って数秒の沈黙があって、そしてエミさんは尋ねた。


「本当の気持ちを正直に込めたら、それを聞いた人は理解してくれるのかな?」


 それはいつかのように、悲しい自問自答じゃなかった。

 それはなんらかの意図をこめられた、他でもない俺に対する問いかけだった。

 俺の膝に添えられたエミさんの右手が不安げに揺れている。たまらず俺はそっと包み込むように右手を重ねて、視線は決してそらさずに口を開いた。


「伝わるよ。君の気持ちは絶対に伝わる」


 そうやって短く簡潔な言葉で、おそらく俺だけに向けられたであろう彼女の問いかけに、俺は初めて確信をもって答えられたのだった。


「……じゃあ、お願いがあるの。折角、私が心を込めて作るんだもん。完成したら絶対に君も聴いてよね」


 そのお願いは、ひょっとすると、照れくさそうに冗談めかしていても、彼女なりに心からのものだったのかもしれない。

 今度はエミさんから差し出された左手が、俺の右手を上から優しく包んでいた。

 だから、もはや答えは決まっていたようなものだ。


「もちろん、毎日だって聴いてあげるよ」


 俺が胸を張って言うと、エミさんは嬉しそうに、けれど覚悟を秘めて答える。


「好きな人が鈍感で、素直になれないのが私なら、やっぱり今は歌うしかないんだと思う。でもね、それだけじゃない」


 そして彼女は俺に笑顔を向けてくれた。

 いつか見た飛び切りの笑顔を真っ直ぐに俺に示した。


「私ね、今は臆病で決心がつかないけど、もっと自分に自信が持てたら、ちゃんと自分から告白するよ。うまく言葉にできなくたって、それでも伝えるんだ。あの日、あの時、君が精一杯のファンレターを渡してくれたように」


 そんなエミさんの晴れやかな表情に俺は不覚にもときめいて、ああ、やっぱり俺は彼女のことが大好きなんだなぁなんて、改めて気が付かされては胸がチクリと痛むのだった。







 それからのことを数行、ここで簡単に説明しておこう。

 夏休みも最終日のことだ。エミさんは遂に完成したラブソングの歌詞を持って岸村さんのもとへ向かい、その瞬間からギターとボーカル二人だけのバンドが結成された。

 もはやバンドと呼んでいいのかも怪しいが、岸村さんの巧みな演奏、そして美しく可憐なエミさんの歌声を聞きさえすれば、そんな些細な問題など気にする必要もなくなるはずである。

 二人によって奏でられた新曲のラブソングは、少なくとも俺が聞いた限りにおいて、非の打ち所なんてまるで存在しなかった。

 その後、レコーディングが終わってから、呼び出された俺は完成した曲のデータをもらった。本当に毎日その曲を聴くことができるようにと、わざわざエミさんが俺のために用意してくれたのである。

 その当時の素直な俺の心境として、ずばり本音を言ってしまえば、どうしても期待せずにはいられないことがあったのを白状せねばなるまい。

 出来たばかりのラブソング。美しく澄んだ彼女の歌声を聴くたびに、それがまるで俺に向けられているような錯覚があったのは、嘘偽りない事実であった。

 けれど、それを、彼女の力になってあげた俺が誤解してしまったら駄目なのだ。俺が彼女に片恋慕しているからといって、身勝手な勘違いは許されない。

 もしも他の誰にも真意がわかってもらえないのなら、少なくとも彼女のために、せめて俺くらいは正しく理解してあげなくちゃ駄目だろう。

 その愛の詩が、一体誰に伝えるべくして書き綴られているのかを。

 その精一杯の歌声が、誰にこそ向けられているのかを。

 でも大丈夫だよ、エミさん。その気持ちは、いつかきっと君が愛する人に届くから。

 そのときはまだ、きっとおそらく、懸命に歌い続ける彼女の真意は誰にも理解されていないのだけど、一人確かに当時の俺はこう思った。

 彼女の織り成した詩も歌声も、俺は何より大好きだ。







 さて、最後にこれだけは言っておこう。

 あれから数年、思えば書ききれないくらい本当に色々なことがあったのだけれど、こうして無事に大人となった現在の俺も、相変わらず幸せな気持ちでその曲を聴いている。

 ……たぶん、他の誰よりも。

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