16 とある夏の夜
長かった夏休みも残すところ一週間と少し、そんなとある夜のことだ。
何をするでもなく、ぼんやり机に頬杖を付いていた俺であったが、突然けたたましく携帯が鳴り始めた。どこにしまったか忘れた姿の見えぬ携帯を探そうと右往左往し、ひとしきり小躍りしたところでズボンのポケットにそれを見つけて落ち着いた。
取り出して画面を確認すると、それは先輩からの電話だった。
「……先輩?」
電話口で俺がそう尋ねると、間髪を置かず答えは単刀直入に返された。
色気も素っ気も感じられず、本題に入るまでの前振りも簡単な事情の説明もなく、初めての電話で先輩は淡々とこう言ったのである。
「事件だ」
なにもこんな夜遅くに、と思わなかったわけではない。
なにも新聞部だからって、どこかで事件が発生したくらいで、と考えなかったわけでもない。
たとえば今から星空を見に行こうとか、花火を買ったから一緒にやろうとか、夏休み終盤の静かな夜といえば若い男女、そこはムード満点のデートにでも誘ってくれればいいものをと、ため息交じりに呆れてしまわなかったわけでもない。
けれど乗り気になれなかった俺は、次の一言で家を飛び出していたらしい。
「確証はないけれど、エミが危険だ」
新聞部として活動する先輩は色々な人に取材するせいか、とかくに人脈が広かった。そんな頼れる社会的資本の中から、どうも気になる連絡を受けたという。
「大学生バンドの飲み会に女子高生が参加することになったようだ」
とはいえ、なぜそれにエミさんが関係するとわかったのか?
行き先の当てもなく夜道を走りながらそう尋ねると、電話を通じて先輩は答えた。
「教えてくれたのは大野修造っていう新聞部に所属したまま顔を出さない幽霊部員の男子生徒なんだけど、実は彼もバンドマンなんだよ。それで彼はバンドのメンバーの知り合いから聞いたって、心配になったみたいで部長の私にも義理で教えてくれたの。どうやら彼は同じ学校で別のバンドのボーカルとして活動しているエミのことを、前々から知っていたらしくって」
家を出て最初の交差点で足踏みをしながら、焦燥感に背中を突き動かされつつ俺は電話に向かって叫ぶ。
「とにかく今から行ってみます! 場所はどこですかっ?」
「おそらくそれは――」
エミさんのいる場所を電話越しに伝えてくれる先輩ではあったが、彼女だって万能じゃない。地図もなく電話越しでは目的地も漠然としか伝えられない。しかし、その瞬間の俺は先輩から大まかな場所を指定されただけで直感が働き、その場所に見当を付けた。
忘れもしない、それはエミさんと出会った路地裏だった。
「ここかっ!」
固く閉ざされたシャッター。そのわずかな隙間からは明かりが漏れ出していた。
さんざめく男たちの笑い声が生み出すどんちゃん騒ぎ、そしてシャッター越しにもわかる強烈な悪意のざわめき。
それらを外側から把握した俺はもういてもたってもいられず、地面との間にできた小さな隙間に両手を突っ込んで、そのまま勢いよくシャッターを持ち上げた。年月を経て相当錆び付いていたらしく、ガシャガシャと耳をつんざくような音が響く。
それが不快だったのだろう、中にいた全員の目が俺を射抜いた。
「誰だよ、お前は?」
そこは充満した酒のにおいがした。
全員大学生らしい、三人の見知らぬ男たちがいた。
すっかり酔いの回った顔をした彼ら三人に取り囲まれる形で、正面奥の壁際には、所在なく小さくなっているエミさんが怯えていた。
「エミさん!」
一目見た瞬間、そこが普通の状態ではないことがわかった。
なにしろエミさんの服は赤ら顔の男達によって強引に脱がされてしまっていたらしく、上半身は下着だけを晒した姿になっていたのだ。下はデニムのショートパンツ、しかしベルトはすでに半分が抜き取られかかっていて、彼女の手は必死にそれをつかんでいた。
だから俺はとっさの行動に移る。彼女のもとへ駆け寄ったのだ。
それから、どうやら酒に理性をなくしたらしい彼らは何事かを喚いていたようだが、また、そんな状態の彼らによって何発か体を殴られたり蹴られたりもしたらしいが、構わず俺はエミさんの手を引いてそこから飛び出した。
逃げ出す途中では床に放られていた彼女の服を拾ったが、こんなところでゆっくりと上着を着てもらう時間などない。青みを帯びた薄いブラウスは首を通さずに羽織ってもらうしかなく、抜かれかかったベルトは簡単に締めなおし、とにかく俺たちは急いで彼らのもとから逃げるように離れた。
どこまで走っただろう、それは知らない。
どこまで逃げればよかったのだろう、それも知らない。
けれど先輩の手に引かれ部屋から連れ出されたいつかとは逆、見上げれば時間を忘れて眺めてしまいそうになる幻想的な夏の星空の下、震えるエミさんの手を力強く握り締めた俺は遠くへ遠くへと、ひたすら精一杯に駆け抜けていた。
やがて走るペースを落として振り返れば、あられもない姿のエミさんは気恥ずかしそうに、片手でブラウスを抱きしめて胸元を隠す。その動作に気が付かされた俺は、必死につかんでいたエミさんの手をようやく離して、どこということもなく前を見つめなおして背中を向けると、立ち止まって彼女に服を着てもらうことにした。
走り疲れていた俺たちは、近場にあった街灯の下に座り込む。乱れていた服を正しながら、浅く短く呼吸を繰り返し、それが落ち着くころには付近は静寂に包まれる。
エミさんはうつむいてしまい顔が見えなかったけれど、それでよかったのかもしれない。
彼女の隣にそっと腰を下ろした俺は、穏やかに尋ねた。
「今さらだけど、逃げてきてもよかったんだよね?」
「……うん」
詳しい事情を何も知らない俺だったが、どうやら彼女を助けたのは正解だったらしい。
おびえるエミさんの顔を見た俺の勝手な判断だったが、酒のせいか理性を失いつつあった彼らとの間に同意があった行為には見えなかったので、たとえ駄目だったと彼女に言われたとしても、エミさんをあの場から連れ出したことを後悔することはなかっただろう。
「あのね、ごめんなさい」
どうして彼女は謝るのだろう?
「謝るのは俺もだよ、ごめん。本当に、ごめん」
どうして俺は謝ったのだろう?
理由はわからなかったけれど、そこに違和感なんてなかった。
そうするのが当たり前だって、どちらともなく考えていたのだろう。
やがて精神的にも落ち着いてきたのか、エミさんは目を伏せたまま言った。
「どうして君は、あそこに?」
「連絡を受けたんだ。バンドの飲み会にエミさんがいるかもしれないって。どういう状況かはわからなかったけれど、それを聞いたら居ても立っても居られなくなって……。エミさんが何よりも心配だった」
「……実はさ、君をね、呼ぼうかとも思った」
下を向いていたエミさんは言いながら少しだけ目線を上げ、ためらいがちに俺の方へと顔を見せる。
まだ互いの目が合うには視線の高さが足りない。俺の反応を直接に見てしまうことを恐れていたのかもしれない。
「でもね、呼べなかった」
そう言った彼女は、再び顔を下に向けてしまう。なにか後悔しているような、口にするのを恥じらっているような、そんな様子だった。
呼ばなかったではなく、呼べなかった。
そのわずかな言葉の違いが、その時の俺には大きな意味を持っていた。
もしかしたら俺はまだ、彼女に必要とされていたのかもしれない。そう思うと、いつまでも黙っているわけにもいかなかった。だから俺はエミさんに尋ねる。
「教えられる範囲でいいんだ。何があったか俺に聞かせてくれる? 君の力になりたい」
「うん、ありがとう。……小さな声になるけど、それでもいいなら」
泣くのを我慢しているのだろう、それはか細い声だった。
弱々しくて、よほど集中していないと聞き取れないほどだった。
「大丈夫、君の声は聞き逃さないよ」
「……ん、そっか」
それからエミさんはゆっくり教えてくれた。
色々とあった俺と同様に、この二週間ほどでエミさんにも状況の変化があったらしい。
具体的に言えば、孝之さんと岸村さんの決裂である。つまりバンドの解散だ。
俺がやさぐれていた八月上旬のことだった。間に立ったエミさんの仲介むなしく、二人の対立は確定的なものとなったのである。
岸村さんは一人ギターを手に、群れることをやめた。
孝之さんはエミさんの手を引き、新しいバンドを立ち上げることにした。いや、というより別のバンドに合流させてもらうことになったらしい。そこは男三人のそれなりに実績あるバンドだったらしく、エミさんと孝之さん、つまり中道兄妹の参加を比較的好意的に認めてくれたようだった。
そしてあの場にいた彼らこそ、その新しく参加することになったバンドのメンバーだったらしい。どうやら加入先を探していた孝之さんが彼らのバンドに入るための条件が、まぁこう言うとあれな気もするが、妹であるエミさんだったというわけだ。もちろん、どこまではっきりと彼らの間でその契約が交わされたのかはわからない。あの三人が孝之さんに内密でエミさんを手篭めにしようとしたのかもしれない。
けれど意図的であったかどうかは別にせよ、孝之さんは結果的には実の妹をだしにして、自分よりレベルの高いバンドに参加しようとしたのである。
しかし、俺が見た限りでは間違いない。あの腐りきった場所に孝之さんの姿はなかった。実の兄が直接的に手を出していなかったのは、不幸中の幸いだったろう。
「もうボーカルなんてやりたくないよ」
最後にそう結論付けたエミさんは、それきり喋ってくれなくなった。
おびえるように自分の体を抱きしめて、小さく震えていた。
「だけどね、エミさん。俺はエミさんの歌声が好きだよ。かつて君のつむぎだす歌が絶望から俺を救ってくれたから。それにね、やっぱりこれは何度でも言うよ。俺はなによりも君のことが大好きなんだ。だから本当はバンドなんてどうだって……」
「……うん」
「もちろん、岸村さんだって君の歌だけが好きなわけじゃない。今ならそうだってわかる。君のことを大切な女性の一人だと認識していることは間違いないよ。あの人も馬鹿だから、自分がどんなにエミさんのことを愛しているかわからないんだ」
いいボーカルだと言っていたのだ。岸村さんにしてみても、エミさんの歌声が気に入っていたことは間違いない。そして、あの日あの公園で俺たちの未熟なキスを止めに入った岸村さんの真剣な表情を見たとき、あの人がエミさんのことをただのボーカルとしてではなく、もっと大切な存在に考えているんだと直感した。
それはまだ彼にとって恋ではないのかもしれない。
だけどそう遠くないいつか、きっと恋に至る自覚なき想いだ。
だから俺は続けて言った。
「岸村さんだって、いつかちゃんとエミさんのことを……」
好きになってくれるに違いない、そう言いたかった。
けれど俺は結局、どうしてもそれ以上言葉を続けることができなかった。
それをはっきりと口にして言ってしまうことが、どうしてもできなかった。
今ならその理由がわかる。
あのときの俺は、最後まで自分の力だけでエミさんを励ましてあげたかったんだろう。岸村さんのこととは別に、大好きな彼女の力になってあげたかったんだ。
気がつけばエミさんの震えは止まっていた。自分の体を抱きしめる代わりとしてなのか、エミさんの手は俺のシャツの裾を握り締めていた。
それからしばらく、おそらく二十分ほどそうしていて、俺はようやく我に返った。
なんてことはない。辺りはすっかり暗くなっていたのだ。
もうずいぶん遅い時間だったこともあり、さすがにこんな状態のエミさんを一人で帰すわけにもいかない。俺は頭をひねって考えた末、ここに孝之さんを呼び出してエミさんと一緒に帰ってもらうことにした。
もちろん俺がエミさんを自宅まで送ってあげることも考えたけれど、それはこの状況を一方的な恋慕のために利用しているような気がして自分でも許せなかったし、なによりエミさんの前で孝之さんに話しておきたいこともあったのだ。
「お願いです、エミさんは自由にさせてあげてください」
「……すまねぇな」
そう言って頭を下げた孝之さんは素直に謝罪すると、こんな約束をしてくれた。
「もうエミにバンドを強制させはしない。俺は一人で新しいバンドを探すよ」
おそらく孝之さんにしてみても、さすがに今回のことは精神的にこたえたのであろう。泣き疲れて憔悴している妹を目の前にすれば、彼にとっても思うところはあったはずだ。
いつもの刺々しさはまるでなく、めずらしく本気で反省しているようだった。
もちろん俺は何もかもを許せたわけではないが、その言葉だけは信じられる気がした。それは確かに、そう言った孝之さんに嘘をついているような気配が感じられなかったということもあったけれど、それが感じられなくたって、その時の俺は同じように信じられただろう。
別れ際、俺はエミさんに尋ねた。
「エミさん、また会えるかな?」
「……わかんない」
そう答えた彼女だが、たぶん、本当にわからなかったのだろう。
これからどうするべきかさえ、その時の彼女には何も考えられなかったのかもしれない。
けれど、だからこそ俺は心の中で決意した。彼女のために、とある行動をしようと。
だって、こんなのが最後だなんて、絶対に認めたくなかったから。
こんなのが最後の別れだなんて、絶対に認めたくなかったんだ。
そんなことがあった次の日、俺は早速その行動を始めた。
向かった先はいつかの公園、会うは岸村さんである。
もちろん待ち合わせもなしに公園で待ち伏せしようとたくらんでいたわけではない。岸村さんとは直接に連絡先を交換してはいなかったが、俺の携帯電話に残っていた着信履歴からかけなおして約束を取り付けたのである。
その日も岸村さんはバイトが入っていたらしく、公園で会う都合が付いたのはバイト終わり、もう日が暮れ落ちたころだった。
「やぁ、待たせたかな?」
そうやって申し訳なさそうに姿を見せた岸村さんであるが、実際には約束の時間よりも早かった。それを予想していた俺はそれより早く待ち合わせ場所にやってきて、ずっと待機していたのであった。それはもちろん待ち伏せて優位を見せたいためではなく、俺なりの誠意を見せるためだ。
「すみませんでしたっ!」
岸村さんが目の前にやってくるなり、俺は深く頭を下げる。
連絡をつけた昨日の時点で電話口でも言葉だけで謝ってはいたのだが、やはり直接会って最初に謝りたかったのだ。公園だろうが土下座するくらいのつもりでいたが、それだと逆に誠意が伝わらないだろうと思って考え直した。
近づいてきた岸村さんによって顔を持ち上げられた俺は、こう諭される。
「謝る相手を間違えているんじゃないのかい?」
「……エミさんには昨日謝らせていただきました」
恐れ多くもそう言い、岸村さんの返答を緊張の面持ちで待った俺。
エミさんに謝ったからといって、岸村さんも許してくれるとは限らない。
あんなことがあったのだ。殴られることだって覚悟していた。
けれど岸村さんは俺の答えを聞き、意外にも相好を崩した。
「ははっ、そうか。なるほど、だから急に連絡をね」
そのまま肩を叩かれるのは俺であり、わけもわからずに岸村さんの様子をうかがう。しかし表情に出して笑っている通り、怒っているようには見えなかった。
それから上機嫌になった岸村さんに促され、俺はこの前と同じベンチに腰を下ろす。
「ほら、コーヒー」
「ありがとうございます、恐縮です」
公園の自販機で買っていたらしい缶コーヒーを岸村さんが差し出し、先に座ってしまった俺は恐縮しきりに受け取った。しかし握ってみると思っていたより缶が熱くて、うっかり落としてしまう。なんとか膝の上で止まった缶コーヒーを慌てて拾うものの、岸村さんの手前あまりに気恥ずかしくて、俺は顔から火が出るところだった。ガオーと言って誤魔化すが、かえって笑われた。
実は待ち合わせの約束を取り付けて以来ずっと緊張していたこともあり、岸村さんが怒っていないと安心したところで、すっかり気が抜けていたのである。
これではいけない、いつまでも本題が切り出せないと気がついた俺は決意を新たにして、岸村さんからもらったばかりの苦いブラックコーヒーで目を覚まし、一度きっちり気合を入れなおしてから頼むことにしようと思った。
「あ、あんまぁ!」
しかし口に含んだコーヒーは加糖品で、想定外に甘かった。思わず吐き出しそうになって、寸前のところで飲み込む。想像していた味と違うものを口に入れると無意識な危機管理か、条件反射的に吐瀉物の仲間入りしてしまうものなんだな危なかった。
「ごめん、そのほうがいいと思って。俺のブラックと入れ替える?」
「大丈夫です、ちょっと驚いただけですから」
お互い口をつけた飲み掛けのコーヒーだ。相手が妙齢の女性なら金を出しても喜ぶところだが、男同士で間接キスするのはちょっと抵抗があった。
いや、男同士でも岸村さんはイケメンだからちょっと悩んだけどそれはやばいな、口にすまい。
それから半分くらい缶コーヒーを飲んだところで、口を開いたのは岸村さん。
「それで、本題は? 俺に謝るだけじゃないんだろ?」
「よ、よくわかりましたね。すごいですよ、尊敬します」
「別にすごくないって、ずっと何か喋りたそうにしているんだから誰でもわかる。黙って見ているこっちが気の毒になるくらいだったからな、いっそ聞いてやることにしたんだ」
「そうでしたか」
確かにずっと切り出すタイミングをうかがっていたのは事実であり、それを悟られていたのは恥ずかしかった。けれど恥ずかしがってばかりもいられない。折角こうして岸村さんから話を振ってくれたのだ。ここが切り出すタイミングだと俺は覚悟を決めて口を開くことにした。
だから俺は岸村さんの目を見て、誠心誠意を込めて頭を下げる。
「お願いします、岸村さん。俺の頼みを聞いてくださいませんか? 落ち込んで元気がなくなっていて、ずっと好きだった歌うことまでやめると言っていて。きっと今、エミさんが本当に求めているもの、それはあなたの力だと思います」
けれど岸村さんからの返答は、予想外な俺への質問だった。
「本当にそう思うかい?」
「え? いや、だって……」
岸村さんが何を言いたいのか、俺にはわからなかった。
本当にそう思うのかって、そうとしか思えなかったのだ。なにしろ俺は彼女から直接に岸村さんのことが好きなのだと聞いていたわけだし、俺からエミさんに何度告白しようと、その好意を喜んでもらえたことはあっても、ついに一度も彼女には恋人として受け入れてもらえなかったのだから。
だから俺は熱に浮かされるように彼女にキスを迫ってしまったのだ。
そのことを反省して後悔しているからこそ、今度こそ間違えたくなかった。
「どうしてエミはさ、バンドが解散したとき、俺の方に来なかったと思う?」
そう尋ねてきた岸村さんに、俺はふと考えた。
バンドが解散した後、エミさんは孝之さんに従って新しいバンドに参加することになった。いくら孝之さんが実の兄であるとはいえ、普段から兄妹喧嘩の絶えなかった二人のことである、誘われたとしても断ることだって不可能じゃなかったはずだ。
それなのに、どうしてエミさんは恋する岸村さんではなく、仲の悪い孝之さんのほうを選んだのかって?
そんなことは簡単だ。あえて考えるまでもない。
「いじめないでください、きっと恥ずかしかったからでしょう? 岸村さんと二人きりになることが、好きな人と一緒になることが」
もしもバンド解散時に彼女が自らの意志で岸村さんを選んでいたのなら、それは岸村さんに向かって告白しているのと同じことだ。そこは恋に悩める乙女たるエミさん、それだけは出来なかったのだろう。
でなければ、岸村さんを選ばなかった理由がわからない。
でなければ、エミさんが寂しげな顔をしていた理由がわからない。
だから俺は岸村さんに言った。
「それを俺に言わせるなんてひどいですよ」
「……そうかい。でもま、俺の口から言うことでもないだろうからな」
岸村さんは何か言いたそうに俺の顔を見たが、はっきり口にしてくれないのでは俺にも理解しようがなかった。
少々気まずくなってきたのも事実なので、俺は話を切り替えるためにも再び本題へ移る。
「それで、俺からの頼みなんですが……」
「いいだろう、とりあえず聞かせてくれ」
ひょっとしたら門前払いに断られてしまうのではないかと心配だったがそんなことはない。岸村さんは肩をすくめたばかりで不服なく、俺の言葉を待ってくれた。
だから俺は再び頭を下げつつ、拝み倒すように頼み込むのだった。




