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15 俺と先輩

 その後の俺はといえば、驚くほど正直に落ち込んでいた。

 食事は一口たりとも喉を通らず、日が暮れて夜になっても一睡すら出来ず、毎日ほとんどベッドから起き上がることもなくなっていた。

 しかしながら八月ということもあり、まだ世間は夏休み期間中だったことが幸いした。中学時代のように部屋から出ることがなくなっても、それが直接的に大きな問題になることはなかった。どうせ今は多くの若者が長期休暇の真っ只中なのだ。探せば一人くらい俺と同じように自堕落な生活を送っている人間もいるだろう。

 けれど、やはり身近な人たちに心配をかけてしまうのは避けられない。

 今になって一つ一つ振り返ってみると、俺がベッドの中で落ち込んでいる間には、終業式の日にアドレスを交換した大野さんから何度か連絡があったし、予定通りにクラスみんなが参加したイベントもあったらしいし、いつもは厳しい父も謎のお土産を買ってきてくれたし、元気のない俺のことを心配した母にいたっては毎晩俺の好物ばかりを食卓に用意してくれていたのだった。

 けれど一方で、部活を同じくする先輩からの連絡は一切なかった。しかしそれも仕方がないことだろう。なぜなら先輩とは携帯の連絡先を交換していなかったのだから、連絡しようにも方法がない。

 部活を無断で休み始めておよそ二週間、実は溺れる心の奥底では助け舟の到来を期待していたものの、やはり当然ながら先輩からの音沙汰はなかったのである。


「出てきなさい、特派員一号!」


 だがまぁ、引きこもり生活も三週目に入ったところでいきなりあった。携帯電話の番号など教え合っていなかったけれど、小学生のころからの付き合いであるため、先輩は俺の家がどこにあるかちゃんと覚えていたらしい。

 しかし特派員一号って……。引きこもりに対するひどい皮肉だな。

 きっと先輩は怒っているのだろう、玄関の扉が容赦なく叩かれる。おそらく母が喜んで出たのだろう、あっさりと扉が開かれる。この状況から逃げも隠れも出来ない俺は毛布にくるまったまま、すたすたと部屋までやってくる足音に恐怖するしかなかった。


「もう本当に、お前ってやつは! 心配したじゃん!」


「……はい?」


 ベッドから引き摺り下ろされる、あるいはベッドに横たわったまま踏みつけられてしまうなど、戦々恐々と震えていた俺だったが、現実に起こった光景を見て、あっけに取られてしまう。

 なぜなら部屋に入ってきた先輩は脱力するなり床に座り込んだのだから。


「安心したら力が抜けたし……。おいお前、責任とって私を立たせてよね」


 ペタンとカーペットにお尻をつけた状態の先輩は右手を上に伸ばし、ベッドからこっそり顔だけを出した俺に向けていた。おそらくその手を取り、引っ張ってくれと言っているのだろう。


「ぶたないでくださいよ?」


「ぶつわけない。安心して。私をなんだと思っているの?」


 そう言った先輩は待ちきれなくなったのか、上半身を支えていた左手も右手と同じように俺へと向ける。すると上目遣いに見つめられ、座っている先輩の両手が俺に向かって抱擁するように広げられていて、なんか先輩の胸に飛び込みたくなった。


「うわぁ先輩、会いたかったです!」


 で、俺はベッドから地べたに座っている先輩の胸元へとダイブする。

 その距離およそ二メートル、すっかり運動不足の体にも不可能な動作ではなかった。俺は絶妙に先輩までの距離を測り、頭から突っ込むようにベッドを離れた。


「あ、ごめん。それはさすがに無理」


 だが先輩は衝突する直前で横へと逃げた。ゆえに俺の着地点は誰もいないカーペットかと身構えたものの、しかし実際にはクッションが置かれていたため事なきを得る。変わり身の術など使うのは忍者ばかりだと思っていたがそんなことはない、一般的女子高校生も多少の忍術をたしなんでいるようだ。花嫁修業の必修単位なのかもしれないな。

 しかしこれは遊んでいられないぞ、男子諸君。我々も分身の術くらいは修行して使えるようにならないと、男女交際は手玉に取られてうだつが上がらない。別れた後に女子連合ガールズトークで馬鹿にされておしまいだ。

 ……とか考えたが、そういえば俺はそんなこと関係なしにエミさんから振られてしまったようなものだった。悲しみと後悔がぶり返し、涙が溢れる。


「グスングスン」


「クッション抱いて泣いているみたいだけど、安心したよ。元気はあるみたいで」


「……ですね。飛びかかる元気が俺に残っていたなんて、自分でも驚きました」


「だったら早く立ってよ。そして部活に出てきなさい」


「……うぐぐ」


 部活に誘われた俺だったが、行くとも行かないとも答えられずに口ごもってしまう。

 なにしろ二週間ほど暗い部屋に一人きりで引きこもっていたのだから、今さら夏の厳しい日差しが待ち構えているであろう屋外に出て行くのも心苦しい。

 それからやっぱり二週間前の出来事、俺がエミさんに対してやってしまった言動を思い出すと後悔や罪悪感で胸がいっぱいになり、もう何も手が付かなくなってしまうのだ。


「もしかして嫌なの? 迷惑だったら謝るよ、ごめん」


 そう言った先輩は寂しそうに目を伏せる。前髪が揺れ、その奥に彼女の表情を隠した。

 普段は決して厳しい表情を崩さないクールな女性が二人きりのときに急に弱みを見せたりすると、それだけで男としては意外なギャップに胸がキュンとしてしまうものであり、すなわち俺は先輩のためなら死ねる。


「嫌じゃないです、迷惑でもありません。ついでに先輩、好きですが……っ!」


「うるさいよ、そういう冗談は今はいいの。どうせお前はエミっていう女子とのこと、引きずっているんでしょ? 告白する相手を間違えちゃだめ。お前のこと嫌っちゃうぞ」


 反論するべくガバッと顔を上げた先輩を見るに、とりあえず元気を出してくれたようで嬉しいが、かといって先輩から嫌われてしまうのは困るな、無駄な冗談は引っ込めよう。

 それより俺は意外なことに気が付いて驚きを隠せなかった。


「どどど、どうして先輩がエミさんとのことを?」


 俺は何も喋ってなどいないはず。なのにどうしてエミさんとのことを引きずっていると知っているのだろう?

 まさか公園でのことをこっそり覗かれていたのではないかと、よからぬ想像をした俺は恐怖した。真夏の冷や汗は心臓に悪い、鳥肌の立つ背筋にいやな汗が流れる。

 だがそれは俺の早とちりな杞憂だったらしい。


「他にこれほど落ち込む理由が見当たらないからだよ。わざわざ私に言わせないで」


 ……なるほど、確かにそれはそうだった。

 なにしろ普段から出不精で無気力な俺のことだ。もしも明日地球が滅亡すると言われても勝手にどうぞ、これほど落ち込むことはないのだろう。むしろ最終日を満喫する。

 だがしかし、俺だって何も望まないわけじゃない。エミさんのことは冗談なんかじゃなくて、心の底から大好きだったのであり、それほどまでに惚れてしまった女子のことを悲しませてしまったのなら、それは一大事件で地球滅亡の騒ぎどころではなかった。

 正直な話、エミさんとの一件があった当時の俺の悩み苦しむ胸中といえば、取り返しのつかない後悔に胸を痛めるのみならず、このまま地球上から人知れず消えてしまいたかったほど悲惨な状況だった。

 後悔を抱えたまま、恥を抱いたままで生きているのが辛かったのである。


「そうやって死んだような顔するんじゃないってば。お前が使えなくなるのは困るし。ほらほら、元気を出して!」


「……え?」


「新聞部は夏休みだって忙しいんだよ。お前っていう従順な犬みたいに使い勝手のいい助手のこと、これでも私は必要としているんだからね」


「いや、でも先輩。俺なんか、今までもあんまり役に立ってなかったですよね?」


「答えるまでもなく当たり前だよね、そんなの。だからひと時も休まず、今すぐ働いてほしい気分。さあ、これまでサボった分だけ働こう!」


「……容赦ないなぁ」


 落ち込んでいる人間を相手に休まず働けなんてひどい話だと思ったが、それはやっぱり、もちろん先輩なりの優しさだったのだ。どこまでが照れ隠しで、どこからが本音なのか馬鹿な俺には残念ながらさっぱりわからなかったが、とにかく先輩は俺のことを外に連れ出そうと一生懸命になってくれていたのだろう。

 それをありがたがらないほど、俺は無機質な人間じゃなかった。


「わかりました先輩。その、じゃあ明日から……」


「だーめ、善は急げだし! わかったら今すぐ来ること。こんなところでしぶってどうすんのさ!」


「あ、ちょ、ええっ!」


 明日から本気出します、だから今日のところは勘弁してください。

 そう言おうと思っていた俺であったが、それを許す先輩ではなかった。

 すくっと立ち上がった先輩は胸にクッションを抱き続けていた俺の手をつかむや否や、そのまま振り返ることもなく部屋の外へと俺を連れ出してしまうのだった。抵抗などまるで出来ない。そもそも俺は女性に対して暴力を振るわない主義なので、強く手を引っ張られた俺はもう、先輩になされるがまま従うしかなかった。

 とはいえ、このまま家の外まで連れ出されるのは恥ずかしい。そう思って廊下の途中ですれ違った母に助けを求めたが、笑って無視されてしまう。この家に俺の味方はいない。いや、味方ばかりなのだ。

 先輩に引きずられるまま身をゆだねることにした俺だったが、つながれていた先輩の手が離されたところで我に返った。

 気が付くとそこはもう見慣れた部室の中であり、すなわち普段は自転車で通学していた道を先輩と二人で駆け抜けてきたのだ。その事に遅ればせながら思い及ぶと、途端に笑いがこみ上げてきたのだからたまらない。なにしろ気分は晴れやかで、どこまでも爽快だった。


「不気味な顔で笑ってないで、これに着替えてね」


 先輩が渡してくれたのは男子の制服だ。果て、なぜだろうと思って自分の姿を見下ろすと、なるほど私服のままだった。ここの校則は携帯電話に関しては緩かったが、休日でも校内における私服だけは禁止していたのだ。理由は知らない、たぶん以前に何かあったんだろう。

 そうだな、言いたいことはわかる。それなら家で着替えてくればよかった。


「着替えますけど、どうして先輩が男子の制服を? まさか趣味ですか?」


「そんなわけないじゃん? それは潜入捜査に備えて部室に用意してあった制服」


「潜入捜査って……。あ、じゃあ先輩って男装して聞き込みとかするんです?」


「することもあるけど、今は気にしなくていいよ」


 なるほどそれは素晴らしい。先輩が男子の制服を着こなしている姿を想像する。

 うむ、俺より似合いそうで男の存在意義を疑うよな。


「ごめん、そういえば私が着たあと洗濯してないかも」


「……よし、明日から毎日これを着よう」


「なんか気持ち悪いけど、これから毎日部活に顔を出すなら許す」


「にっへっへ」


「うるさいよ、着替えながら笑うな。そして私、まじまじと見ている場合じゃなかった」


 俺がズボンを下ろそうとベルトに手をかけたところで、先輩も女性、恥じらいを覚えたのだろう部室を飛び出した。というか俺、浮かれすぎて先輩の前だというのに着替え始めるなんて破廉恥だ。自分のデリカシーのなさに幻滅しておいた。

 しばらくして借りた制服に着替え終わり、先輩を中に呼び戻す。ちなみに先輩とは背丈も変わらないらしく、制服のサイズはちょうどよかった。これなら先輩の普段着だって難なく着れそうだな、今度まとめて貸してもらおう。

 口に出して頼んだら苦笑されて流された。


「そんなことより働け」


「ですよね」


 とりあえず復帰してから最初の仕事だと、俺は散らかっていた部室の掃除を任される。荷物や資料の整理、ほこりのたまった床の掃き掃除。

 へいこらと掃除に集中していると、それを眺めていた先輩が俺を呼んだ。


「そうだ、ちょっと携帯を出してくれる?」


「俺のですか? いいですよ」


 突然のことで疑問はあったが不服はない。しつけの行き届いた犬のように先輩の命令に従った俺は、パイプ椅子の上に折りたたんで重ねていた私服のポケットから携帯電話を取り出す。すると先輩が右手を上向きにして差し出してきたので、そのまま俺は自分の携帯を手渡した。


「お前とアドレス交換するよ。一応確認しておくが駄目じゃないよね?」


「いいですよ、ついでに先輩の友達っていう女子の連絡先も……」


「やー、やるわけないし! 調子に乗るなってば」


「ですよね、ごめんなさい」


 久しぶりに先輩と会話できたのが嬉しくて少し調子に乗っていたのは事実だったので、俺は先輩が携帯を操作している間くらい静かに黙っていようと反省した。

 しかし、これでやっと先輩の連絡先を手に入れたのだ。もちろん俺は喜んだ。


「ただね、これだけは言っておくから覚えておいてね。お前からは私に電話もメールもしないで? 自分の時間を邪魔されるのって嫌いだから」


「がーん」


「だけど私からの連絡には素早く反応して欲しいな。だから携帯は肌身離さずで準備しておくこと、いいね?」


「はーい」


「それからお前の泣き顔って意外と可愛いじゃん、いっそ私の弟にしたいくらいだし」


「……えっ?」


 最後は色々と聞き逃せない発言であり、我が耳を疑った俺は驚いて聞き返した。

 だが先輩は照れたように笑って誤魔化すばかりであり、その発言の真意は結局わからずじまいだった。


「いやぁ、しかし嬉しいよ。特派員一号っていうか、お前が帰ってきてくれて」


「先輩、その、ご迷惑をおかけして――」


「気にするんじゃないって、うるさいよ!」


 いつものようにそう言った先輩ではあったが、その穏やかな声は迷える子羊を導く聖母のように慈悲深くて感動ものだった。

 もう先輩には迷惑をかけないようにしよう、そう思った俺だった。


「とりあえずさ、私はこれが性格だから冷たく当たってしまうだろうけど、これくらいで落ち込まないでってことだけは言っておきたい。お前も部活のときくらいは元気出してよね」


「わかりました、これからは罵られても屈しません」


「それは怖いよ。でもまぁ、がんばれ!」


 とまぁ、そういうわけでありまして。

 それからおよそ一週間、俺は毎日のように部室に赴いては、先輩から言い渡される雑用に忙殺させられることとなったのであった。中にはグラウンドの草引きなど明らかに新聞部の活動とは関係なさそうな仕事もあったが、ひょっとすると先生や他の部活から頼まれたような雑用なども、先輩が俺に回してきたのかもしれない。

 もちろんとでも言うべきか、その間も例の件では目立った進展はなく、結局あの日からエミさんとは一度の連絡さえ交わしていない。

 そのことだけは気がかりで、確かに拭い去れない懸念だったろう。

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