14 俺とエミさん
その翌々日だったか、俺は朝からハイテンションだった。
あまりに上機嫌だった俺は朝飯を食べるのさえ忘れて、そそくさと出かける準備に余念がなかったが、難しい顔をした両親に挟まれ怒られた俺は意気消沈してしまい、しょげながら朝食を食べさせられた。
ちなみに食後、俺は両親から深刻な質問攻めにあった。さすがに早朝から上半身裸になって乾布摩擦をしてしまったのは、少々やりすぎだったかもしれない。
俺の精神が疑われていた。
だが落ち着いて聞いてくれ。珍しく俺が浮かれてしまうのも無理はなかった。
なぜならこの日はエミさんと二人きりで会う予定が入っていたのだ。
まぁ落ち着け、これは決して俺の妄想なんかじゃない。ちゃんと前日に本人から電話で呼び出しを受けたのである。
なぜ呼び出しを受けたかといえば、もちろんバンドのことで相談があるらしかった。なんでも孝之さんと岸村さんの二人が解散するとか言って、いよいよ喧嘩別れしそうになったらしい。それを仲直りさせたいから手伝ってくれと、つまりそういう用件だったのだ。
それだけの用事だったなら、さすがに俺もここまで上機嫌に浮かれたりはしない。そこまで俺も能天気な馬鹿じゃないからな、電話口でもわかるほどに落ち込んでいたエミさんが一人で思い悩んだ結果として俺に相談を持ちかけてくれたのに、それを手放しに喜んでいる場合じゃないことぐらい理解できたのである。
だから俺が喜んだのは、次の言葉だった、折角だから脳内で再生しておこう。
「折角だからさ、一緒にプールでも行こうよ」
事実、エミさんとのデートだろうそれは。少なくとも俺はそう思うことにした。
それにしても好きな女子と一緒にプールである。水着姿で二人きりである。
その状況が自分の身に舞い降りて浮かれずにいられるか?
もちろん俺は価値観をひっくり返すほどの歴史的な革命が起こったとしても、この喜びを否定できない。だから俺は日も昇らぬ早朝の時点からすでに浮かれていて、いや昨夜のうちから一睡もせずに舞い上がっていて、約束の時間がやってくるのを今か今かと待ち続けていたのだ。
エミさんと待ち合わせていたのは市民プール前、太陽の照りつける午後二時だった。
その時間の三十分も前に到着した俺は、まだエミさんが来ていないことを確認して、ちょっと暇を持て余して手持ち無沙汰だったから周囲を二十分ぐらい散歩して時間をつぶした。だが時計を確認するのを忘れていて、待ち合わせ場所に戻ってきたころにはうっかり二時を過ぎていた。
エミさんは笑って許してくれたのだが、遅刻野郎と思われたに違いない俺は笑えない。折角の三十分をどぶに捨てた気分だった。あとで拾って洗えば何かに活用できないだろうか、いや無理だろう。
とにもかくにも、エミさんが申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、いきなり誘っちゃって。なにしろ今年はバンドのみんなと泳ぎにいけるような雰囲気じゃなかったから」
「いいよいいよ、別に気にしないで。俺なんか何十時間連続で泳いでも平気な体質だから、よければ明日も誘って。なんなら夏休みは毎日でもいい」
苦笑されたのみで返事はなかった。相手にされないのって悲しいね。
「それにしてもエミさん、急にプールだなんてどうしたの?」
「だって夏休みだよ? 私ってプールとか海とか昔から大好きでさ、先々週から泳ぎたくって体がうずうずしていたんだけどね、やっぱりその、なかなかみんなには遊びに行こうよって言い出せなくて。……かといって一人で無防備な水着姿になるのって、いくらプールとはいえ怖いじゃない?」
「ああ、それで人畜無害そうな俺を誘ってくれたの?」
「うんそうだよ。人畜無害っていうか、一緒にいてくれるかなって思って。でも、本当にごめんね。急な話で迷惑だったかな?」
「迷惑なんかじゃないよ、嬉しくて泣いたもん」
「誘ったくらいで泣かれたら気持ち悪いけどさ……」
よかった、本当は泣いてなくて。エミさんから本気で気持ち悪がられてしまったら、俺はきっと泣き出すどころじゃなかった。……吐くかもしれない。
「まぁ、喜んでくれたみたいでよかった。うん、じゃあ今日は楽しもうね」
そう言って屈託なく笑ったエミさんは、さりげなく俺の手を引いてプールに向かう。もちろん俺はそのつながれた彼女の手の温かみ、その感覚に全神経を集中させて堪能させてもらったのだが、まぁそれはいい。
本当は俺も幸せそうに振る舞うエミさんと一緒になって、馬鹿みたいに騒いでいればよかったのかもしれない。余計なことは何も考えず、ただ甘酸っぱい夏の思い出でも作ってしまえばよかったのかもしれない。
でも俺にはわかってしまったのだ。そうやってプールを前に楽しそうにはしゃいでいたエミさんだったが、それは虚勢、精一杯の空元気であろうことが。
実際には悲しみに打ちひしがれていて、今にも泣き始めてしまいそうであったことが。
「じゃあ更衣室で水着に着替えてから中で落ち合おう。……あのさ、子供じゃないんだから迷わないでよね?」
「エミさんは、その、もしも迷ったときは泣いてくれてもいいからね?」
「市民プールくらいで迷わないし、たとえ迷ったとしても泣かないよ。高校生なんだから。なめないで」
「うん、ごめん」
本当に俺が言いたかったのはそのことではなかったが、ここでそれを言い始めても空気を読まない鈍感クズ野郎である。エミさんだって悩みを隠し、一生懸命に楽しもうとしてくれているのだ。わざわざ辛気臭いまねをする必要はないだろう。
大きなお世話なんて厄介なお節介であり、たいていの場合においてありがた迷惑だ。励ますつもりが、かえって嫌われてしまいかねない。
とりあえず今は、このときばかりはエミさんと一緒にプールを満喫することにしよう。
それから男子更衣室で水着に着替えた俺は一足先にプールサイドへ着いた。さすがに女子は着替えにも時間がかかるらしい。少し遅れてエミさんがやって来た。
「男子って気楽でいいよねぇ、水着で悩むことって少なくない? あはは、すごく似合ってるよ、その紺色の海パン」
「あぁやめて、そんなとこ見ないでっ」
俺はよく考える、全身を覆う競泳用水着でもなければ、男子の水着ってほとんど股間しか隠さないよな。つまりそれを女性が見ているときって、薄い水着越しに……いやなんでもない、あまり深く考えるのはやめておこう。興奮しちゃう。
「はぁ、もっと可愛い水着も候補にはあったんだけどね。色々考えてたら恥ずかしくなっちゃって、結局去年とおんなじワンピースにしちゃった」
ため息をつき、俺の方をチラチラと見てくるエミさん。ひょっとしたら求められてなどいないかもしれないが、相手は年頃の女子、ここは感想を言ったほうがいいだろうか。
いや俺は彼女に伝えたい。うやむやになる前に言ってしまおう。
「かわいいね、よく似合っているよ。あたかもそのワンピースは君に身に付けてもらうために作られているみたいだ」
「……ちょっと複雑」
そのとき俺は確かに見てしまった。ちらりと自分の胸元を見下ろしたエミさんのいじらしい姿を。なるほど、ぴったりしたワンピースが似合うと言われて胸の小ささを気にしてしまったのだろう。
そんな意図はなかったが、そう思われてしまうのは褒めた俺としても不服である。何か急いで言いつくろう必要があるだろう。
「大丈夫だよ、エミさん。きっとエミさんならワンピース以外も似合うから。そうだ、なんなら俺が今度ばっちり確認してあげよう。そうだなぁ、よかったら次はビキニを着てきてよ。ちゃんと褒めるから」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、ビキニはいやだよ」
「気にしなくてもいいのに」
「……何を?」
失言だったかもしれない。エミさんの言葉には怒気が含まれていた。
しかし俺はエミさんくらいの貧乳具合がかえって大好きなのだ。だから別に嘘を言っているわけではないし、わざわざ気を遣って励ましているわけでもなかった。
「ほら俺は思うんだよね、ちっちゃい方が可愛いよ」
「…………」
これは間違いなく失言だった。
俺の失礼極まりない感想を聞いたエミさんは怒っているのか、あるいは単純に恥ずかしがっているのかも全く判断できなかったが、とにかくしばらく口を利いてくれなくなった。
「まぁいいや、泳げばすっきりするよね」
そう言ってゆっくりプールサイドに座って足をつけ、手ですくった水を腰から徐々に上へ向かって浴びせて最後には頭の先までかけると、ようやくといったところでエミさんは泳ぎ始めた。
俺はどちらかというと引きこもり体質の無精者なので、人の少ないプールサイドに腰をかけると一息をついた。そこに座ったまま水中に入れた足をバタバタさせるだけで、なんだか泳いだ気分になって十分に満足できる。そのまま無意味に動き出すことなく、プールをひたすらといった感じで泳ぐエミさんの姿をずっと見詰める。
やがてプールサイドの監視員が俺のことを不審がって集中的に監視していることに気付いたときは、さすがに慌てて水中に潜って逃げ込んだけど。
とにかくそれから二時間ほど、俺たちは適当にプールを楽しんだのだった。
そしてそろって市民プールを出た俺とエミさん。ひとまず今日の遊びは終わったのだ。次はエミさんからの本来の用事、バンドに関しての相談だった。
相談するにもふさわしい場所がいる。このまま路上で済ませるような話じゃない。さて、それじゃどこに行こうかと頭をめぐらせたところで、俺は重大な事実に思い当たった。財布を確認したが、中身は空っぽ、あいにく金がない。
そういえば今日は月末で、俺は親から与えられていた今月分の小遣いを使い果たしていたのだ。
これではお洒落な喫茶店はおろか、庶民的なファミレスにも格安ファーストフード店にも入ることが出来ない。たかが数百円なら彼女に頼めば食事代を肩代わりしてくれるかもしれないが、そんなこと好きな女子を相手に出来るわけがないのだ。
そこで俺は考えた。そうだ、公園に行こう。
「いいよ、私はどこでも。頼んだのは私だし、君が話を聞いてくれるなら」
「じゃあ、折角だからエミさんの家に行きたいな」
「私の家? 来てくれてもいいけど、兄さんに話を付けてくれるの?」
「あれ今日は天気がいいなぁ、やっぱり公園がいいよねっ!」
とまぁ、そういうわけで、俺とエミさんは近所の公園に向かうのだった。
それは先日、俺が岸村さんとベンチに座って話した公園だ。
「ほらほら、とりあえず君も隣に座ってよ」
「いやうん、座るけどさ」
先を行くエミさんが座ったのは公園脇のベンチじゃない、小学生用に高さを合わせた小さなブランコだった。必要以上に人目や体裁を気にしてしまう男子高校生、無駄にかっこつけたがりな思春期真っ盛りだった俺には、正直言って遊具に座るなんて恥ずかしかった。
だがエミさん、俺の内情などお構いなし。足を揺らしてブランコをこぎ始めた。
彼女がそっと胸に秘めた岸村さんへの恋心、彼との別れを前にしてゆらゆら動く乙女心、鎖につながれ前に後ろに行ったり来たりするその迷い、ブランコとの相性もいいのだろう。
童心に返って楽しんでいるというよりは、憂鬱そうに風を感じているようだった。
いてもたってもいられなくなった俺は隣のブランコには座らず、ゆらゆら揺れるエミさんの後ろに回って背中を押してあげた。俺の両手が背中に触れた瞬間、小さく声を漏らし、彼女は驚いたように背筋を伸ばす。
風を切り、大きく前へ。彼女の体が、俺の手を離れる。
しかし彼女は怯えるように鎖を握り締め、ためらうように首を横に振り、勢いを失ったブランコは俺に向かって戻ってくる。そのまま後ろへ落ちてしまわないように、俺は寂しげな彼女の背中を優しく包み込むように支え、小さく反動をつけると再び大きく前へ押し出した。
今度こそ彼女の前進を邪魔するものは何もない。加速する勢いそのまま高らかにブランコは舞い上がり、エミさんは鎖から両手を離すとブランコから前方へと飛び立った。
足をそろえて華麗に着地。さらりと黒髪がたなびき、すとんと落ちる。
最後におまけでスカートでもめくれてくれれば演出的によかったのだが、残念、彼女が着こなすのは淡い紅のハーフパンツだった。防御は鉄壁で、下着が露出することはない。
それでも俺は思ったね、もしも採点を任せられるなら満点しかありえないって。
「じゃじゃーん、じゃなくてさ……」
すっかり体操選手気取り、綺麗な直立姿勢で両手を横に広げて、自信満々に胸を張っていたエミさんだったが、背後でくすくす笑っていた俺の存在に気がつくと我に返った。
右手の人差し指をこめかみに、左手を折り曲げた右ひじに添えて、なにやら思案顔を浮かべる。
ひょっとすると哲学的な思索にふけっているのかもしれない、ここは邪魔せずに思い悩むエミさんを見守っていることにしよう。物憂げな女性の儚い表情というものは、大抵の男にとって何よりも美しく思えるものなのだ。いつまでも飽きることなくずっと見ていられる。
だから俺も目をそらさずに彼女の顔をまじまじと見つめていた。
すると顔を上げた彼女と目が合って、少しだけ覗いた白い歯。力なく苦笑される。
「あのね、君はさ……。ううん、こんなこと言っちゃ駄目かもしれないけど」
「言っちゃ駄目なことなんてないよ、エミさんの声が聞けるだけで俺は幸せだもの」
「ららら~っと、そう言われるとつい歌いたくなっちゃうのがボーカルの悲しい性だね。いやそういうことじゃなくて、うーん、じゃあ君に言っちゃうけどね……」
「うん、聞く」
俺は顔を向けたまま、彼女の言葉を待つ。
そして彼女は真剣な顔で言った。
「ちゃんとはっきり聞いておきたいんだ。そのことで最近すごく悩んでる。曖昧なままにしておくのはだめだし、それは私のほうこそ、そうだと思う。ねぇ……」
そしてエミさんは俺の目を覗き込んだ。
「君は今、私にどうしてほしいの?」
「それは……」
「私をどうしたいの?」
その問いを聞かされた俺は一瞬何も答えられず、静かに苦虫を噛み潰す。
それでも、それまで何度となく伝えてきた言葉を繰り返す。
「どうしてほしいとか、どうしたいじゃない。俺はエミさんのことが好きなんだ」
「……それは、今もそうなの?」
「もちろんそうだよ。だって俺は……」
改めて伝えようとした言葉を、しかし今度はエミさんに遮られた。
「でも、なんだか、私にはわからなくなるんだ」
「……わからなくなる?」
一体何がわからなくなるというのだろう。
俺は大好きな彼女のために頑張っているだけなのに。
怪訝に眉を曇らせると、エミさんが最初は言いにくそうに、それでも思っていることを吐露した。
「うん、わからなくなって、今はそればかり考えている。だって、思えば君はずっと、私を岸村さんにくっつけなくちゃいけないと使命感にとらわれているみたいだ。それは私のことを好きでいてくれるからだって、悩んでいた私が君にお願いしたことでもあるからって、それはわかるの。わかっていたつもりだったの。でもね……」
彼女は搾り出すように声を上げる。
「バンドや岸村さんのこと、君がそうやって一生懸命になっているのは、本当に私のためなの? だって、私はなんだか最近、どんどん君の視界に映らなくなっていっているような気がする。好きだと言われている割には、簡単に諦められて、遠くにいる気がする。結局、君は私のことじゃなくて、私のバンドが好きなんじゃないの? 中学生のころに感じたっていう、岸村さんのギターに合わせて楽しそうに歌っている私が好きなんじゃないの?」
それだけのことを言われて、俺は何も言い返せずにいた。
彼女が何を思い、何を不安に感じていたのか、俺は何もわかっていなかったのだ。
「それって、今までの岸村さんと同じに感じる。私そのものを好きでいてくれてるんじゃないんだって感じる。そう感じたら急に不安になった。不安になって、寂しくなった。ひょっとして、あなたに感じる絆も一方通行だったりするのかなって」
その瞬間、俺は確かに悟ったのだ。
なぜ俺が今もここにいるのか、どうして俺がエミさんの力になろうとしているのか、根本的なところでは彼女と共通認識が生まれていないのだ。
悔しかった。悲しかった。ショックだった。
もちろんエミさんには悪気なんてなかったろう。俺を責めるつもりも一切なかったに違いない。
けれどそれだけに、その言葉は間違いなく俺の胸を貫いてしまったのだ。
そして俺は言ってしまう。
ただ自分の非を認めたくないばかりに、その後、ずっと後悔に苦しんでしまうこととなる言葉を彼女に突きつけてしまう。
「……エミさんこそ。君は何がしたいの? 岸村さんに気持ちを伝えなくていいの?」
聞かずともわかっていたことだ。伝えなくていいわけがない。ただ伝えられずにいるだけなのだ。彼女は岸村さんと別れたくないのである。
だからこそバンドの解散を食い止めたいのである。
だからこそ新曲であるラブソングの歌詞を作るため、俺の協力を求めていたのだ。
それなのに、わざわざ彼女の心の傷をえぐるようなことを俺は……。
「……伝えたい気持ちなんて、私はっ!」
なんとか吐き出した言葉に詰まるや、彼女は苦しそうに胸を押さえた。
「もちろん……そうだった、今までは!」
言いながら視線を横にそらす。彼女は思い悩んでいるようだった。
「だけど……っ!」
それ以上は言葉にせず、唇を噛み締める。彼女は悔しそうだった。
そのまま続く、あまりに長い沈黙。
何かを言いたそうなまま、意味深に続いて満たされていく、静か過ぎる時間。
やがて彼女は口を開く。大粒の涙を目からこぼしながら、懸命に言葉をつむぎだす。
「……ごめん、もう私にはわからないよ。自分が何をしたいのか、君にどうしてほしいのか。たぶん全部わからなくなったんだ。きっと君も同じで、わからないんでしょう?」
「……それは」
その通りかもしれなかった。
具体的に何をすればいいのか、現実的に何がしたいのか、結局のところ俺にはさっぱりわからなかった。
そんな俺の煮え切らない態度が原因だったのだろう。
「もういいよ、今までありがとう。……さよならっ」
「いや、なにそれ、ちょっと待って!」
いきなり逃げ出そうとした彼女。その腕を俺はとっさにつかんでいた。
つかまれて彼女は、振り返らない。無理に振り払うような抵抗もしない。
ただ静かに足を止めて、ひくひくと肩を揺らしていた。
こちらから顔は見えないけれどわかる。声を殺して泣いているのだ。
「確かに俺には、何もできないのかもしれないけど……」
いつの間にか俺もすっかり涙に潤んでいたらしい。それより先は嗚咽が漏れてしまいそうで、しっかりと言葉にすることができなかった。
再び、お互いに黙り込んでしまう俺たち。
やがて最初に口を開いたのは、やはりエミさんだった。
「……私は今、どうしたいのかな? 私は君に、どうしてほしかったのかな?」
「それを俺に聞かれても、さすがに答えかねるけど……」
「ごめん違うの、私は自分に向かって聞いているの」
「……そっか」
それは彼女の自問自答だった。その証拠だろう、彼女は俺の顔を見ていない。
それは彼女が他人の存在を誰も必要としなくなったときの、一人ですべてを背負い込んでしまったときの、どこまでも救いようのない自問自答であった。
その問いに答えてあげたい。その問いに苦しむ彼女を助けてあげたい。
そう考えた俺は、彼女の腕を握り締めていた手に、思わず力を込めてしまう。細くしなやかな彼女の腕が、わずかに反応して震えて止まる。まるで何かを待っているかのように。
やはり数秒の沈黙があって、その気まずい静寂の中、俺は勇気を振り絞って決意した。
目の前で泣いている彼女を放っておくことなど、このまま手放してしまうことなど、その時の俺にはできなかったのだ。とにかく彼女の力になりたくて、ずっとそばにいたくて、何より、まずは振り向いて俺のことを見てほしかった。
俺の気持ちを、真実の想いを、きちんと知っていてほしかったんだ。
「エミさん」
誠意を込めて俺は呼び、彼女は不安げに顔だけで振り返る。腕をつかんでいた手を離すと、ようやく安心したのか彼女は体ごと俺に向き直る。
目は伏せていたが、それはきっと泣いているからだろう。
「ごめんね、君には迷惑かけちゃったね」
そう俺に向けて言った途端、溢れる感情を抑えることが出来なくなってしまったのか、彼女の両肩は小刻みに震え始める。
うつむいた顔からは、地面に向かって水滴が落ちていった。
その痛ましい姿は見ていられなくて、俺はそっと、彼女の両肩に手を乗せる。
すると震えは時間を置いて止まり、エミさんの顔は真っ直ぐに俺を見る。
それから数秒が過ぎ、お互いの目が合ったことを落ち着いて確認すると、その透き通った美しい瞳に向かって俺は言った。
「何度だって言うよ。俺は、君のことが好きだから」
だから俺は改めて、初めてはっきりと告げる。
「エミさんのことが、大好きなんだ。たぶん、本当は岸村さんに渡したくない」
それでようやく俺の気持ちが伝わってくれたのか、見る見るうちにエミさんの両耳が赤く染め上がった。目が大きく見開かれる。唇が震えている。
「えっと、その……」
とだけ言って、明確な答えはなかった。
何かを答える前にエミさんは顔をそらし、恥ずかしそうに腰の前で手を組み合わせると、困ったように目を泳がせていた。言葉による明確な返答は、いつまでたっても得られなかった。
けれど俺の告白が言葉によって否定されることはなく、肩に乗せたままの俺の手が彼女の動作によって拒否されることはなかった。
そしてなにより、そのとき俺はこう思った。
――果たして、彼女は嫌がっているのか?
――俺を受け入れてくれるのでは?
手が触れ合うほどの至近距離から彼女の瞳を覗き込む俺の目は、そして心は、もじもじと返答に迷う彼女を取り巻いているであろう好意的な感情を感じ取っていたのだ。恐怖や嫌悪感といった否定的なものはなく、善意や喜びだけが溢れているのではないかと想像した。
そして俺は本能的に求めてしまったのだ。
このまま彼女を抱きしめたい。
このまま彼女を奪い去りたい。
その気持ちを隠しきれなかった俺は、忘れもしない、そして自分から動き出した。
彼女の両肩に乗せただけの手に、そっと力を込めていく。それで緊張したのかもしれないが反射的に彼女の体は硬くなり、感情を隠すように目は閉じられ、けれど俺に対する拒絶ではなく、むしろ彼女の下あごが少しだけ持ち上げられた。
柔らかそうな唇が何かを語りたそうに、しかし決して開かれることはない。
ほんの少し上向きにされた顔。すごく近い距離で、何かを待つように。
だから俺はそれを無言の答えと信じて、彼女による直接的な言葉を聞かないまま、熱にうかされるようにキスをしようと、自分の唇を近づけていくのだった。
「待てよっ!」
その声が聞こえた俺は、エミさんとのキスの寸前で止まっていた。
割って入った声の主である岸村さんはこちらに駆け寄ってくると俺の肩に手を乗せ、動けないままでいるエミさんから引き剥がす。
「そんな顔のエミに、そんな顔のお前だ。お互いにどうしたらいいのか判らないって迷い悩んでいるような顔で泣いている。言っとくがな、俺だって馬鹿じゃないんだよ。恋愛に疎い俺だって、それがまだ、お前らの幸せのためになるものじゃないってことぐらいわかる」
指摘されるように岸村さんから言われて、驚いた俺はエミさんの顔を見る。
自分の顔がどんなことになっているのか、想像もできないままに。
恐る恐る確認してみると、俺の手を離れたエミさんは、やはり泣いていた。その理由はついにわからなかったけれど、複雑な色をした涙が流れ出していたのだけは事実だった。
そのとき俺が思い出したのは、あの菅井のことだった。
エミさんに無理やりキスをしようと迫った、あの乱暴で身勝手な菅井の姿だった。
――その男と俺の違いはどこにある?
俺は一体、届かぬ恋に悩み苦しむ彼女に何をしようとしていたんだ?
どうしようもないほどに胸が痛んだ。かつての菅井と自分の姿が重なって感じられ、俺は自己嫌悪せずにはいられなかった。エミさんに謝りたかった。岸村さんにも謝罪したかった。
「お前さ、確かに俺は言ったよな? エミはいいボーカルだって。その彼女から、お前は声を奪い取るような真似をしたんだぜ。いいか、怒って言うんじゃない。今後のためにもこれだけはお前に言っておく。俺の大切なボーカルに半端な気持ちで手を出すな」
そして穏やかに伸ばされた岸村さんの腕が、そっとエミさんの肩に回される。
エミさんはすでにうつむいたまま、もう顔を見せてくれることはなかった。
「見下げたぜ」
最後にそう言い残していった岸村さんの失望するような冷たい声が、思考停止しつつあった頭の中で何度となく繰り返されるのだった。




