13 一人ずつ二人と
夏休みを迎えて数日。予定もなければどうせ暇なので、手っ取り早く学校から配布された課題を仕上げようと朝から机に向かっていると、机の隅に置いておいた携帯がいきなり大きな音を立てて鳴動した。
不意打ちを食らった俺は椅子からひっくり返りながらも、床に這いつくばりつつ、誰にも見られていないとはいえ驚きを隠した冷静な手つきで確認する。どうやら携帯にメールの着信があったらしい。
なんと送り主はエミさんである。
今度バンドのメンバーで集まるから、良かったら君もくれば?
……とか、そんな内容の簡素な連絡メールだった。
もちろん俺は前のめりになって「行く行く!」と即行で返信した。酷使したせいか親指をつった。ボタンだらけのガラケー時代は何をするにも親指を連打して疲れたものなのだ。
そしてエミさんと交わした約束の日。さらに暑くなるであろう八月を前にして、すでに七月の時点で我が身を襲いつつあった夏バテを我慢して待ち合わせ場所に向かってみると、到着すると同時に俺は自分の目を疑った。
ごしごしと人差し指で目をこする、ぶんぶんと頭を左右に振る、ふわぁっと大きくあくびをして目を覚ます、たまった額の汗を手で拭う。そんなことをしても意味はなく、現実を見つめる俺の目の正しさばかりが証明された。仕方がないと重苦しいため息をつき、自分の視力を疑うのは諦めることにした。
そこに不服そうな顔つきで待っていた人物は一人だけ、こともあろうにエミさんの兄である孝之さんただ一人だったのだ。気まずさもここに極まれり。俺は潔くきびすを返すべきか本気で悩んだ。考えているうちに時計の秒針がゆったり三周した。ざっと三分くらいか。
だが相手の事情も聞かずにこっそり逃げ出すわけにもいかない。覚悟を決めた俺は腹にえいっと力を込めると、堂々たる足取りで孝之さんの前へと進み出た。
こちらに気付いた孝之さんは億劫そうに片手を挙げると、気だるげに俺を迎えた。
歓迎するような挨拶の言葉はない。
「あの、他の人は?」
ご機嫌を伺うついでに腰を折り曲げ身を低くして、奥ゆかしい大和撫子よろしく上目遣いに尋ねたのだが、それらの行為は不機嫌な孝之さんに俺の頭をたたきやすくしてやっただけのことだった。
パシリと軽い音が脳天に響く。痛くはなかったけれど俺は首を縮めた。
「エミは夏風邪を引きやがったぞ、会えなくて残念だったなバーカ。それから岸村は緊急でバイトが入ったらしい。詳しくは知らん、自分で聞けバーカ」
「えっと、それじゃあ……」
孝之さんから馬鹿馬鹿とリズミカルな調子で一方的に言われつつも、俺は悪い予感を抱きながら次に出すべき言葉を飲み込んだ。その先を口にすることがはばかられてしまったのだ。
けれど孝之さんは容赦ない。実に面白くなさそうに投げやり口調でつぶやいた。
「ああ、今日はお前と二人きりだよ、二人きり」
うわぁ……と、寸前まで出掛かった深いため息をぐっと堪えた。
ちょっと待て、俺よ、よく考えろ。ここであからさまに二人きりになってしまうことに対して嫌がる顔を見せてしまうと、俺は本格的に孝之さんから嫌われてしまいかねない。
エミさんのためにも、ここは彼女の兄である孝之さんとの仲をこじらせてしまうわけにはいかないのだ。いやまぁ、もちろん本当は彼女の縁をつないでおきたい自分のためだったが、それは言わない。将を射んと欲すればまず馬を射るべきだし、何事も外堀は埋めておくに限る。
「……嬉しいなぁ」
「ちっとも嬉しそうじゃないぞ、お前」
「あはは、何を言いますやら……」
慣れない愛想笑いを浮かべたものの、実際にはピクピクと頬が引きつるばかりで全然笑えてないし、きつかった。よし、今後のためにも相手を不快にさせない素敵な笑顔を出せるように練習しておこう。心のうちでそう思った。デートの前日には妄想を百回以上も繰り返すくらい俺は努力家なのだ。いや一度たりとてイメージトレーニングが功を奏したことはないが。そもそもデートなんてしたことないが。
それから俺は孝之さんの後をついていく形で喫茶店に連れて行かれた。幸か不幸か、彼らと初めて会った時に入ったファミレストとは違い、バックグラウンドにジャズが流れているくらい落ち着いた雰囲気の喫茶店である。
告白するならここを使おう、意味もなくそう決める俺だった。
「で、お前はどうすんだ?」
ほろ苦いコーヒーをちまちまと飲みながら、しまった見栄なんか張らず正直に甘いミルクコーヒーにするべきだったと後悔しつつ、それでも新しい嗜好となるであろう味覚領域を開拓すべく、顔を引きつらせながらもブラック飲料と奮闘していたときのことだ。
孝之さんは顔を横に向けたまま素っ気ない風を装って、しかし何よりも気になる様子でチラチラと視線を向けてきながら、俺にそんなことを尋ねてきたのである。
「どうする、とは?」
もしかして次に頼むメニューの話かしら、とか気楽に思っていた俺。
キリッと睨み返され、肝を冷やした。
「バンドとのことに決まっているだろ」
「ですよね」
バンドのことについて、お前はどうするつもりなのか。つまりそのことを俺に尋ねたいのだろう。というか俺と孝之さんの間柄では、気の置けない友達でもないのだから他に聞きたいことはないはずだ。
ところが質問の意図が正しく理解できたところで、俺には即答することなどできない。
なにしろ自分でも悩んでいる事柄だ。
たった一言さえ答えられないという事実は、俺にとってブラックコーヒーよりも苦々しかった。
「やめるなら今のうちだぜ」
「いや、それはっ!」
身を乗り出した拍子に俺はコーヒーをこぼしそうになり、慌てて伸ばそうとした右手をテーブルの縁でしたたか打った。その衝撃でテーブルは上下に震動し、向かいに座る孝之さんのコーヒーカップから中身が飛び跳ねた。
すると孝之さんが着ていた白いシャツに小さな黒いシミが無数に出来てしまったが、俺は苦笑いを浮かべながら「お、おしゃれですね~」と褒め称えてみた。冷笑を浮かべる孝之さんは「だろ?」と言ってコーヒーカップに指を突っ込み、それを弾いて中の水滴を俺の顔に飛ばしてきた。
びちゃびちゃになった。
生ぬるいコーヒーにまみれた俺はハンカチもなく手で顔を拭い、深呼吸をして仕切りなおす。
「バンドの手伝いですが、俺から辞めるつもりはありません」
真正面から瞳を覗き込みながら、ありったけの誠意を込めて力強く答えた。
それは俺にとって、孝之さんへの決意表明でもあった。
「ふーん、まぁいいけどさ。俺たちのバンドにお前はあんまり関係ないし」
事実だが口にするとはあんまりだ。ショックで俺はガクッと肩を落とした。
そうだ、ここは口直しにコーヒーでも飲んでおこう。だけどブラックコーヒーは本当に苦くて慣れないぜ、さらなる口直しに水が欲しいところだな。
「それにさ、いっそのこと俺は新しいバンドを作ろうと思っているわけだ。お前はエミから聞いたのか? 俺、あいつも新バンドに引き込むつもり」
「ぶふぉっ!」
思いっきりむせ返した俺は、しばし呼吸困難に陥る。
口に入ったコーヒーが道を間違えて気管に突っ込み、目からは涙、腹筋もしくは横隔膜が引きつりそうになるほどゲホゲホと激しく咳き込む。
「けほっ、こほっ!」
しかも一向に止まらない。
「大丈夫か? とりあえず口と涙を拭けよ」
テーブル越しに差し出されたポケットティッシュを受け取ると、すぐさまいっぱいに広げて顔を覆い隠す。赤面するほど恥ずかしかった。
「あ、新しいバンドって?」
周囲の客がこちらを振り向くぐらい挙動不審だったが、思い切って俺は尋ねた。
「そのままの意味だろ。馬鹿かお前」
いやまぁ確かに彼の言うとおり、わざわざ考えるまでもなく、そのままの意味だろう。新しいバンドでやるといえば、今のバンドを解散して新しいバンドを作ることに決まっている。
「で、ですが、岸村さんはっ?」
周囲の客が視線をそらすぐらい動揺していたが、思い切って俺は尋ねた。
「知らん、勝手にやるだろ」
きつく眉根を寄せて、犬のフンでも踏んでしまったかのように不機嫌そうに顔をしかめてしまう孝之さん。顔色が優れない様子をうかがう限り、すれ違いつつある岸村さんのことを口にするのもはばかられたようだった。
詳しく話は聞けなかったけれど、そのあからさまな反応を見て俺は思った。このままじゃ孝之さんと岸村さんの二人は喧嘩別れになってしまうだろう。俺やエミさんが何か具体的な行動をするまでもなく、二人の間で解散はすでに決定事項であるかのように。
今更のように焦って慌てて頭を振り絞り、何か名案がないものかと考えに考え抜いたが、その時の俺には一体何を孝之さんに言うべきなのか全くわからなかった。
どんな言葉なら解散を考え直してくれるのか、全然想像がつかなかったのだ。
お前は役立たずだと、そう笑ってくれてもいい。
俺は何かを言葉にするのも気まずくて、ひたすら唇をかみしめて黙ったまま、冷たくなっていく残りのコーヒーを見詰めていることしかできなかった。
「なぁ、そろそろ帰るか? お前も暇じゃないだろ?」
数分後、あるいは数十分後、やることもなくなって口を開いた孝之さんの声で俺は顔を上げた。
すでに鞄に手をかけ、帰る気満々である。
「いや、その、ちょ……」
俺は中腰になって帰ろうとする孝之さんを呼び止めた。
やはりまだ何も考えてはいない。だがこのまま別れることになっては駄目な気がした。
「大丈夫だ。金は出す。そんなこと心配すんな」
ありがとうございます。でもそれなら、遠慮せずもっと食えばよかった。
俺は中途半端に頭を下げた状態で、そんなことを考えた。
しかし言葉は口から出ない。
何か言えよと孝之さんから頭をどつれたらしく、ふらついた。
「えっと、いいんですか?」
「だからいいって言っているだろ、ガキから金はとらねぇよ」
「やったぁ。……じゃなくて違いますバンドのことです」
「バンドだぁ?」
その顔は般若の如し。それ以上は口にするなと、まるで先手を打たれてしまったようだ。
でも俺はめげずに言った。
「だって四年くらい前から今のバンドでずっとやって来たんですよね? なのに解散なんて悲しいじゃないですか……」
本質的にはバンドの部外者である俺でも悲しいくらいだ。長年やってきた孝之さんも寂しさや名残惜しさが皆無ということはないだろう。
意味深に続いた長い沈黙の後、孝之さんは俺に人差し指をつきつけた。
「だったらお前があいつを説得してみろ」
「え、あいつって? エミさんのことなら説得するまでなく解散には反対で……」
「バッカ、お前は本当に馬鹿だな。もちろん岸村のことだよ」
まぁ、それはそうだろう。
岸村さんのことを説得できたなら、孝之さんも譲歩してくれることだろう。
だけど根っからの音楽馬鹿、自分で音楽が恋人などと語っていた岸村さんを相手にして、実際にはバンド部外者の俺なんかが一体何を説得できるというのか。
「……う、あ、はい。大丈夫です俺に任せてください」
けれど他に名案はなかった。
きっとなんとかしてみせると都合のいいことを言って、俺はうなずいてしまうのだった。そのときはただ、この場を乗り切れればいいと思っていた。
孝之さんは笑わず、しかしあきれもせず、ただ「そうか」と言って帰った。
テーブルの上に残されたおごりの千円札が、より一層俺を惨めな気持ちにさせていた。
夏休みが始まって一週間。じわじわと蒸し暑さを増していく七月も最後の週に入っていた。
しかし当たり前だが予定がなければ一日中ずっと休みであり、しかもそれが一ヶ月以上も続くわけだ。まだ夏休みも始まったばかりだというのに部活以外には目立った予定もなく、すでに暇を持て余して他にすることのなかった俺は、とっくに八割方の課題を終わらせており、これから八月を迎えるのも万全の状態だった。
なんなら忙しそうにしている他人の課題も代わりにこなしてやってもよかった。ついでに少額でもバイト代が稼げるなら都合がいい。それくらい気分に余裕があったのである。
とにかく暇な上に退屈で死にそうだったけど。
そんな折、俺の携帯へ着信があった。よっしゃエミさんからかと胸を高鳴らせ期待したが残念無念、それは恋敵である岸村さんからの連絡であった。
――明日のバイト終わり、よかったら会って話そう。
さすが心身ともにイケメン、誘い方も手慣れている。まるで嫌味がなく爽やかさ満開、年上美男子の声が近距離で直接耳にささやかれ、電話口でさえ隠せない緊張と気恥ずかしさがある。俺は迷いなく即答するしかなかった。
もちろん行きます。
さて翌日。
すっかり気分は年頃の生娘、彼氏との初デートを前に精一杯のおめかしをするような純情乙女になったつもりで、現状で考えうる最大限のおしゃれを着込んだ俺は岸村さんと待ち合わせていた場所に向かった。
本当に魅力的な人間は男女関係なく魅了してしまうものだよな、構ってもらえて意外にうれしいんだと身をもって理解した俺は岸村さんに勝てる気がまったくしない。でも悔しい。同じ男だもの憧れちゃう。
公園の入り口で、一足先に到着していた岸村さんにエスコートされ、俺は公園の木陰ベンチへ。やはりというか意外というか、ここでも岸村さんは俺のすぐ隣、間に缶ジュース一本分くらいのスペースを空けて座るのだった。
「ほら、飲み物だ。缶コーヒーでよかったか?」
「無糖じゃないなら」
「……すまん、買いなおしてくる」
「あ、大丈夫です! 実は最近ブラックがおいしくて!」
そろそろ本気でブラックコーヒーが好きになってきた。やっぱり何事も慣れは大事だな。
まだまだ全然おいしくは感じられなかったけれど、砂糖やミルクがなくても飲めなくはない。
大人の男って我慢するのが美徳なのかしら。
「ところでその、今日の用事というのは?」
ちまちま飲んだがコーヒーは底をつき、することがなくなってしまった俺は何故か沈黙を貫き通していた岸村さんに思い切って尋ねた。その表情はいつになく深刻で、なにやら重要な話があるに違いないと俺は踏んでいた。
だから正直な話、怖くて聞きたくなかったというのが本音だった。
岸村さんから言い出しにくい話題が出るとなれば、それは間違いなく俺にとっても心苦しい話題になるであろうと予想することは火を見るより明らかだ。
岸村さんは顔を前に、つまり隣にいる俺には横顔を向けたまま口を開いた。
「……孝之から聞いたぜ」
「そうでしたか。……えっと、何を聞いたんです?」
からかっているような含み笑いを浮かべつつ、岸村さんは視線を横に動かして俺の顔を見た。
「お前が俺をなんとかするって話」
「うわぁ……」
たまらず俺は嘆息した。おい孝之さん、一体岸村さんに何を言ったんだ。
続けるべき言葉が思い浮かばず、所在なく両手の指を膝の上でもじもじさせる俺。挑戦的な岸村さんの視線から逃れるように顔をそらす。
「さぁなんとかしてくれよ」
駄目だ逃れられない。人間性と同じくらい小さな俺の肩には岸村さんの大きな手が乗せられて、ずしりと重みを増した。
なんとかしてくれって言われても絶対に無理である。なぜならこの状況をなんとかしてほしいのは俺のほうなのだ。あぁもう笑ってないで助けてくれ岸村さん。
とにかく俺は考えた。困っていたが必死に頭をひねって考えた。
「はい、俺がなんとかしてみせます。……いや嘘じゃないです、それ以上笑わないでください悲しいじゃないですか。ですがその前に教えてください。岸村さん、何が問題なんです?」
「問題か。そうだよな、まずはそれを聞かないと無理だよな」
「はい無理です」
バンドの継続を阻害する具体的な問題がわからない以上、どう対処するべきかを考えるのは俺じゃなくたって不可能だろう。もちろん最終的な問題は「いかにバンドの解散を防ぐか」だが、そこに至る原因に何かしら重要な問題が隠されているはずなのだ。その問題さえ解決できれば、あるいは……。
突然、岸村さんはベンチから立ち上がる。その手には飲み終えたのか空き缶を持ち、くるくると遊ぶように回していた。
振り返ると俺に目配せして、目の前に左手を差し出した。
「お前のも空だよな?」
「ごめんなさい」
「別に飲ませてほしかったわけじゃねぇよ、お前が謝る必要はない」
しゅんとする俺の手から空き缶を素早く取り上げた岸村さんは、ベンチから少し離れたゴミ箱まで自分の空き缶と一緒に捨てに行くと、途中で深く息を吸い込んでから吐き出して、物憂げな深呼吸をやってから戻ってきた。
だが先ほどのようにベンチには座らず、ぐるりと回り込むと座っている俺の背後の横に立つ。そしてベンチの背もたれに両手をつき、前傾姿勢になって俺との会話を再開するのだった。
「俺はさ、音楽が恋人なんだ。それは聞いてくれたよな?」
「ええ、聞きました。すごいって思いました」
「……すごいかどうかは別として」
体重を乗せていたベンチの背もたれから手を離すと、しばし思案した後、岸村さんは俺のすぐ背後に来て、そのまま右手を俺の右肩に乗せて言った。
触れられた俺はドキリと反応し、身動きとれずに固まってしまう。
「恋人が寝取られたら、そりゃいい気持ちがしないだろ?」
それはいい気持ちがしないどころの話ではない。人によっては刺し殺したって許すことのできない殺意を相手に対して抱くことだろう。殺人事件の動機でたまに聞く、痴情のもつれというやつだ。
うん、やっぱり色恋沙汰って怖いな。間違っても俺は失恋したってそんな物騒な愛憎劇は実演しないし、しくしく一人で泣き寝入るだけだろうし、そもそも彼女なんていない俺には関係なさそうな話だけど。片恋慕するエミさんの恋は、こうして応援しているのだし。
とりあえず同意してうなずいておいた。嬉しそうに肩をポンポン叩かれた。
びくびくと俺は少しだけ振り返り、上目遣いに岸村さんを視界の隅に入れた。
「……なんていうかさ、あいつは俺に気持ちよく弾かせてくれないんだ。俺の思うようには演奏させてくれないんだよ」
あいつとは察するに孝之さんのことだろう。
要するに孝之さんが自由にギターを弾かせてはくれないのだろう。
――な、ひどい奴だろ?
岸村さんは言外にそう言っている気がして、実際には言っていなくても話を聞いていた俺はそう思ってしまったので、そうですねと同情したように相槌を打つ。
「でさ、だから潮時だと思うんだ。いい意味でも悪い意味でも」
――俺もそう思います。
うっかり賛同してしまいそうになった俺は慌てて口をつぐんだ。思わず舌をかんでしまって血の味を噛み締めることとなる。苦味しかないブラックコーヒーよりはおいしいなぁ、なんて馬鹿なことを考えたところで首を横に振る。
おいおい、真面目にやれよ俺、今はそんな場合じゃない。
それにしても危なかった。俺が解散に賛成してしまっては、エミさんに顔向けできなくなってしまう。というか俺が悲しい。バンドが解散してしまったらエミさんが悲しむだろうし、俺だってエミさんに会う口実がなくなってしまうのだから。
とっさに知恵を振り絞った俺は、なんとか岸村さんにバンドの解散を考え直してもらうべく、慣れない交渉を試みるのだった。
「ギターが弾ければいいと言ったじゃないですか、だったらどこのバンドだって……」
だがその一言目、俺は最後まで言い切る前に口をふさがれた。
「よくないよ、それはお前が一番そう思うはずだろ? だから俺たちのバンドの解散にまで口を出すんだろ?」
「……ですよね、すみませんでした」
「わかればいい、別に怒っちゃいない」
怒ってはいなかったらしいが、岸村さんの声は全然笑っていなかった。俺がつい口走ってしまったことに対して、あまりいい気持ちがしなかったのだろう。
きっとそれほど真面目な話なのだ。
今日の目的は談笑なんかじゃない、相手をするからには俺も真剣に考えなければならない。
しかしそう思えば思うほど、臆病になった俺は何を言えばいいのかわからなくなり、失言を恐れれば黙り込むことしか出来なくなるのだった。
くたびれたように、それは進展のない話を変えるためなのか、明るい調子で岸村さんが言った。
「ところで、一つ気になることがあるんだが。お前さ、エミとはどうなっているんだ?」
「…………」
それをあなたが言いますか、とは俺も言えず。苦々しい思いで岸村さんに対して沈黙を貫き通した。エミさんとどうにかなりたかったら、俺はあなたと戦わなくちゃいけないんですよ。
ところが岸村さんは最初から俺の答えなど期待していなかったのか、続けてひとりでに語り始めた。余計なことをしゃべらなくてよかったと、俺は黙って耳を傾ける。
「あいつだけはさ、エミだけはさ、ちゃんと俺の音楽を理解してくれているようだった。特に最近、そのことがよくわかってきたんだ」
そして岸村さんは俺の肩から手を離し、おそらく視線もそらして、どこか確信を持った口調でこう続けるのだった。
「いいボーカルだよ」
それがどんな意味を伴っているのか、どんな意図を持った発言なのか、様々な可能性を必死になって考えてみたけれど、今の俺にもとうとう判断が付かない。
けれど、その言葉を聞いた俺は岸村さんに負けないくらい胸を張って言い返したのだ。
「当たり前です」
そう、それは当たり前のことだ。あなたにとって、何より俺にとって、この世にエミさん以上のボーカルはいないだろう。
「はは、そうかい」
あっけらかんと笑った岸村さんはなでるように俺の頭に手を乗せ、子ども扱いされた俺は膝の上で握りこぶしを作る。
それきりたいした会話もなく、俺は岸村さんと別れるのだった。




