12 終業式
それからのエミさんといえば、相当なショックでしばらく口を閉ざしてしまっていた。
美しかった彼女の双眸に輝きはなく、その可憐な笑顔を垣間見ることもかなわなかった。
しかし、それだって仕方のないことだ。なにしろエミさんは男子大学生である菅井に暴行されただけではなく、そのまま逃げるようにバンドを脱退されてしまったのだ。理不尽な暴力はトラウマになっていてもおかしくない。キスまでされなかったのは不幸中の幸いではあったものの、そのときの恐怖や不安は簡単に拭い去れるものでもないだろう。
そして菅井というドラムが去って三人になってしまったエミさんのバンドは、一段と解散する方向で話がまとまり始めていたようだった。
バンドに残された孝之さんと岸村さん二人の対立でさえ、以前に増してより激しくなっていたらしい。四人組のバンドからドラムがいなくなってしまったことで、新しくメンバーを増やすべきだとか、このままでいくべきだとか、いややっぱり解散だとか、それはもう激しい言い争いを繰り広げていたのだという。
「でもまだ解散が決まったわけじゃないし、エミさんが頑張れば岸村さんも振り向いてくれるよ。またエミさんが楽しく歌えるように俺も応援するから、だから二人で一緒に頑張ろう。うまくいけば、バンドだって最初のころより軌道に乗るかもしれないよ。だって、きっと岸村さんはエミさんのことを大事に思っているに違いないんだから」
俺はそんなことを言って彼女を励まそうとしたけれど、それがなかなか彼女に通じることはないように感じられた。どこか俺を見ているようで見ていない、隣にいても遠くに行ってしまったようなエミさんの様子が俺には寂しくも切なく思えた。
気が付けば七月も本格的にセミが鳴き始める中旬になり、五月ごろから今か今かと待ち遠しかった夏休みが目前まで迫っていた。
日陰に隠れてそよ風を浴びていたエミさんは昼休みの校舎裏で、俺が弁当を食べている右隣で、何を考えていたのか突然ボロボロと涙をこぼし始めた。それを見た俺は驚いて弁当のそぼろをボロボロとこぼした。
そんな切迫した状況で食事が喉を通るわけもなく、俺は食べかけだった弁当の蓋をあわてた手つきで閉じると、うつむいて泣き続ける彼女に声を掛けてみた。
「大丈夫?」
目の前で大粒の涙をこぼしているのだ。大丈夫なわけがない。
自分でもあきれるような言葉だった。
「私に任された作詞が完成しないと、このままバンドが終わっちゃうよ。岸村さんとも別れることになっちゃうんだよ……」
嗚咽にあわせて肩を揺らして泣いていたエミさんは、闇夜の荒野に一人取り残されてしまったかのように心細そうだった。対する俺はもう何を言えばいいのか見当も付かず、彼女のことを黙って見守ることしか出来なかった。
何もできずにいて悔しいかといえば、もちろん悔しくて仕方がなかった。励ましてあげられないことが、何よりも実際の力になれていないことが、彼女に恋してやまない俺には悔しくてたまらなかった。
せめてなんらかの形で彼女を慰められればいいのに。
「でも、いつかちゃんと気持ちを伝えたいんだよね? 私は歌いたいんだよね?」
「ええっと、そうなんじゃないの?」
「ううん、違うの。私は君にじゃなくて、自分の本心に向かって聞いているの。確かめなくちゃいけないって、最近なんだか不安にも思えてくるから……」
「ああ、そうなんだ……」
いつからか言葉に出して自問自答するようになった彼女は、もはや俺の答えを必要としてはいないようだった。なかなか目を合わせてくれることもなく、自分ひとりですべてを背負い込むようになっていた。
何をしたって役立たずで虫けら以下に等しい俺の存在など、こうして隣にあって意識されることもなくなってしまったのだろう。
彼女のために何をすればいいのかさえ、その時の俺にはわからなかった。できることといえば、相も変わらずそばに居続けることだけだったのだから情けない。
けれどバンドが解散になってしまえば、あるいは解散にならなくても、このままエミさんと言葉を交わすことが出来なければ、これから迎える長い夏休みに彼女と会うこともなくなってしまうかもしれない。
そう不安には思っていても、やっぱり臆病な俺には自分から一歩を踏み出すことができなかった。
わずかばかりも踏み出すことはできなかったが、それでも改めて俺は彼女のことが好きなのだという事実をより確かに意識させられたのは、間違いなくこのときだったけれど。
落ち込む彼女を笑顔にしたいと、俺にはそう思えてならなかったのだ。
もしもそのためにこの身を捧げる必要があるのなら、おそらく、ためらいなく死ぬことさえよしとしただろう。
けれど現実的に考えて、たとえ俺がたとえ死を覚悟してみせたところで、俺とは別の悲しみのために涙を見せる彼女のためにはならない。
どこまでも俺は無力で、彼女の前には役立たず同然だったのである。
「お前なー、さすがに落ち込みすぎじゃん。もしかして何かあったの? しゃきっとしないと励ますぞ」
放課後になり部活に顔を出した俺だったが、エミさんのことで頭がいっぱいで精神的余裕がなく元気のない俺のことを心配して声を掛けてくれた先輩から、思いっきり強い張り手で背を叩かれた。あまりの痛さに何かを答える前に唸って地面に手をつく、それは悲しみの四つんばいである。涙こそ我慢したが、起き上がることなど出来ない。
そんな俺の無様な姿を仁王立ちで見下ろしていた先輩。さすがに哀愁を感じてくれたのか、それとも呆れを通り越して同情してしまったのか、まるで鞭打ち励ますように優しく俺の背に馬のりしてくれた。
……って、なんでだ?
けど嬉しい。一時的に悩みを忘れた俺は背中に当たる先輩のお尻を満喫した。
お互いの制服越しとはいえ、大体の形とやわらかさだけは伝わってくる。
頬が緩むのを我慢することなど、思春期真っ盛りだった俺には不可能である。それでも四つん這いになっていたおかげか、先輩からは俺のだらしない顔が見えなくてよかった。
もし見られていたら、間違いなく軽蔑とともに嫌われていたことだろう。
「お前には馬車馬のごとく働いてほしいのね? なのにこのままじゃ使い物にならない。だったらいっそ怒るよりも励ましてみることにしたから、気になることは全部ここで吐いてみたらどう? 今なら私が相談に乗ってやるし!」
「せ、先輩……」
俺は女神のような先輩の優しさに、ついに我慢し続けていた涙をさめざめと流してしまった。すると強張っていた全身から力が抜け、俺は四つんばいで馬の姿勢を維持することが出来ず、両腕を曲げると額を床につけ、遠慮なく泣かせてもらうことにした。
ところがその機敏な動きによってなのか、馬乗りしていた背中から前方に放り出された先輩は俺の目の前へと、お尻を向ける形で頭から床に衝突してしまい、結果として大きく翻ったスカートからはパンツが丸見えになった。
俺の目にたまっていた涙は一瞬のうちに涸れ上がり、その少女趣味全開な布地を二つの瞳に映した。それは時間にして三秒弱、おそらく俺の人生のうちでも五本の指に入るくらい有意義な時間の一つだったろう。あとの四本は今度適当に考える。
体を起こしてゆっくりと振り返った先輩は額を手で押さえ、悶々と歯を食いしばっていた。どうやら顔から床に突っ込んでしまったらしい。なんとも申し訳ない話だ。ところがその額に広がる強烈な痛みのおかげか、俺が先輩の秘境たるスカートの内側を見てしまったことには気がつかなかったようだ。申し訳ないが感謝しておいた。
「……まったくもう、今のでお前にブチギレようかとも思っちゃったけど、まぁいいや。許すよ。どうか私の気が変わらないうちに早く相談してほしい、ほんと頼むから」
「頭を下げるなんて止めてください、お願いするのは俺のほうですって先輩」
「いや実はずっと気になっていたんだ私も! ほら頼むから早く話してちょうだいってば……!」
「わかりましたから土下座は勘弁してください! いたたまれないですし!」
痛々しく赤くなった額を床にこすりつけ始めた先輩を前にして、俺は慌ててエミさんについて相談することを決意した。そうしないと先輩が壊れてしまいそうだったからだ。
というわけで、俺はできるだけ手短に、簡単に話をまとめて説明した。
エミさんのことと、自分の気持ち。俺だって自分の感情を整理できていたわけじゃないけれど、その時点における思いのたけをすべてぶちまけたつもりだった。
すべてを聞き終えた先輩は満足したのか、感慨深そうにうなずいていた。
「なるほどなるほど、それは困っちゃったろうね」
「はい、そうです。あぁ先輩、俺はいったいどうしたらいいでしょう?」
これ見よがしに俺が頭を抱えて苦悩すると、先輩は腕を組んで思案してくれていた。そして何かを思いついたらしく口を開いた先輩は、ニヤリと自信満々にこう言った。
「いっそ告白してみたらどうなの? 何か進展するかもしれないし」
「好きです」
「……私にじゃないよ、そのエミって子にするんだよ! もしも私がお前の告白を受け入れたらどうするつもりなのさ!」
「え、もちろん喜びますよ」
「うーん、喜んだって駄目だよ。喜ぶだけじゃなくて、ちゃんと責任取ってもらうから。こう見えて私は一途だぞ」
「いいなぁ、俺も一途に想われたいなぁ……」
「だったらまずは一途に想って来なさい! そのエミって少女に自分の気持ちを伝えて来るべき!」
先輩はいとも簡単に想いを伝えてみろと言うが、臆病で奥手で恥ずかしがりな人間にとって、好きな異性に対する愛の告白ほど難しいものはない。
それに、情けなくて先輩には黙っていたが、すでに玉砕済みなのだ。
「打ち明けてしまいますと、実はもう自分の気持ちは彼女に伝えているんです。でも彼女は岸村さんって人のことが好きで、だから……。ははは、同じ玉砕でも、やっぱり先輩に告白するのとは違いますね。先輩は断り方が上手ですし、なにより冗談の告白だってわかってくれている先輩になら断られても傷つかないから」
「お前なぁ……」
俺の答えに不服そうな先輩は俺のことをにらみつけてフーフーと威嚇していたのだが、その日以来というもの、少しだけ先輩の態度が優しくなったのは印象的だった。
まぁ、ほんの少しだけだったけど。
それからも事態は思うように進展せず、あっけなく終業式を迎えた。
なんと翌日には夏休みに突入してしまう。ここで何か具体的に行動しなければ、俺は明確な予定のないまま、夏休みの間に大事な何かを失ってしまいそうな予感があった。
だから俺は別のクラスであるエミさんのところへと、持てる勇気を振り絞って自分から足を運んでいた。いつもはエミさんのほうから俺のところまで訪ねてきてくれていたので、こうして彼女の教室に入るのは初めてのことだった。
もちろん緊張はひとしおだ。ガチガチだった。
「ん、どうしたの?」
俺がエミさんの机の前へと、針のむしろ状態を意識させる別クラスの教室というアウェー感を我慢して特攻すると、突然の来訪に彼女も夏場の幽霊でも見たかのように驚き、椅子に座ったまま背筋を伸ばすと少しだけ眼を丸くした。
うわぁ瞳がクリクリとしていて可愛い、とか、そういうことはどうでもよくて。
「いやあのね、ぜひ夏休みの予定を聞いておきたくて」
「……どうして?」
「いやほら、やっぱり俺も手伝いたいから……」
もしもこれで彼女に「手伝いなんかいらない」などと答えられてしまったら、やっぱり俺は悔しくて涙することしかできないのだ。なんとか必要とされたくて、少しでも力になりたくて、俺は懇願するように手をすり合わせていた。
「そんなにすがるような顔を向けないでよ、恥ずかしいから。こんなところで夏休みの予定とか急に言われても今はわからないし答えられないから、とりあえず何か決まったらメールして君に教えることにするね。えっと、それでいい?」
「あ、本当? ……うん、じゃあそれでよろしく! 俺ずっと君からのメール待つよ、今から携帯を肌身離さずで待ってる!」
「……なんかメールしづらいよ」
彼女は若干引き気味で苦笑いを浮かべていたが、なんとか夏休みに希望を繋げた俺はやる気を取り戻していた。
自分でも改めて思う、俺は本当に単純な人間だ。
それからエミさんと別れて自分の教室に戻った俺は、早速携帯電話を鞄から取り出して確認した。さすがに早すぎるか、たかが数分でエミさんからの連絡はない。
それでもじっとディスプレイを見詰め続けて、彼女からのメールを今か今かと待ってしまうのが男心。いたいけな恋心というものだ。
なんとなく携帯の先っぽを窓際に向けてみたりして。ふふ、意味はないのにな。
「あれ、君も携帯電話とか持っていたんだっけ?」
「ん? ああ、大野さん」
自分の席でちまちま携帯電話をいじっていたら、いつの間にか近寄ってきていたらしい大野さんが興味深そうに俺の携帯を覗き込んでいた。あまり携帯電話の市場に詳しくはないが、俺の持っている奴は当時としても目新しい機種ではなかったはずだから、彼女が興味を持ったのは機種ではなく、俺が携帯を所有しているという事実そのものだろう。
ちょっと嬉しくて見せびらかしてみた。えいっと手で払われた。
「私とメアド交換しようよ」
「わぁ、すごいよ逆ナンだ逆ナンだ。大野さんったら大胆! でも嬉しいなぁ~」
「勝手に浮かれて喜んでいるところ悪いけど、クラスメイトとのアドレス交換は社交辞令みたいなものだよ。……ところでクラス会の話って聞いてる?」
「クラス会? いや知らないよ、たぶんないんじゃない? だって俺は何も聞いてないし」
「ほらね、だから私が連絡係として必要だと思ったよ。はい、これが私のアドレス」
と、俺は操作に戸惑いつつも大野さんとアドレスを交換する。これで家族以外の登録はエミさんに続き二件目。なんだか気恥ずかしくて照れくさい。
「そういえば大野さん、結局クラス会ってなんなの? 俺に関係ある話?」
「夏休みにクラスのみんなで旅行に行こうって話があってね。まだ詳しいところは未定のままだけど、クラスの男女がそろって仲良く計画に参加していたはずなんだけどなぁ……」
「おおぅ……、つまり俺だけ仲間はずれだったのかぁ……」
なんと悲しいことだろう、俺は夏休みに企画されているというクラスの集まりに声がかかっていなかったらしいのだった。
だがそれもそのはず、俺にとって友達らしい友達はクラスに大野さんだけだ。
「ま、まぁ、イベントとかについて何か決まったら、ちゃんと私がメールしてあげるから。もしも忘れちゃったらごめんね」
「先に謝られてしまうことが不安でならないや」
「あはは、それはそれとして、特に用事がなくても気軽にメールしてくれていいからね」
「用事がないのにメールかぁ……。そういうのってハードルが高いな、返信ならできるけど」
クラスメイトの女子を相手に無用なメールをするなんて、町で見知らぬ女性相手にナンパすること以上に気恥ずかしい。けれど気が向いたら大野さんにもメールをしてみよう、そんなことをのんきに考える俺だった。




